またあの女性議員が問題発言をしたようだ。しかしこの人を批判しても、本質的な解決にはつながらない。私たち有権者は、こういった国会議員が存在する国の国民であることに恥の感覚を持つべきだと考えている。そしてマスメディアやジャーナリストは、なぜこういった議員が担ぎ出され、生き延びてしまうのかについて、その仕組みに切り込むべきだと考えている。
表面的なこと
「あ~、はいはい。またやね」と、ため息まじりにニュースを聞いた人も少なくないと思う。
LGBTは生産性がなく(つまり子供がいない人間は生産性がなく)、夫婦同姓になるのが嫌なら結婚する資格はなく、女性はウソをつく生き物だとでもいう考え方の持ち主のことだ。おまけにご自身の考えに異議を唱える人々は、みな共産主義者に見えてしまうようだ。
横溝映画に出てくる、因習深い山間地域で先祖代々権勢をふるってきたご大家(たいけ)の女主人も仰天するような、思い込みの激しい人物のようだ。「ほとんどビョーキ」という懐かしいフレーズも思い出す。
つい最近、「総理大臣を経験していない人は総理を批判する資格はない」という趣旨の発言をした元議員もいたが、こういった方々はご自身こそが日本の女性を、いや日本人を懸命に貶(おとし)めているということに気づいていないのかもしれない。
もちろん心の中で何を考えようと自由だが、こういった発言を、自分の立場もわきまえず公式・公的な場でしてしまうのは問題だ。状況判断が極端に苦手な障害をお持ちなのかもしれない。そしてこうした議員(や大臣)は、女性に限らず過去から枚挙にいとまがない(参考:あなたの近くにもいる「トランプおやじ」)。
ただ、こうした人物その個人を批判したところで、本質的な問題解決にはならない。目につきやすい枝葉末節を叩いて一時的に留飲を下げているだけでは、居酒屋の愚痴大会と同じで、いつまでたっても同じことの繰り返しをやりながら、着々と日本はダメになっていく。
勉強が出来るだけのバカに任せておけないからこそ
そもそも地方議員や国会議員というのは、(基本的に)私たち有権者が直接選んでいる。
官僚・役人たちは、(真面目で有能な官僚の方には失礼だが)言ってみれば「学校の勉強が出来るだけ」で官僚になれる。しかし社会や世の中の取り回しを、学校の勉強が出来るだけの人々には任せてはおけないからこそ、議員を選挙で選び、議会へ送り出しているのだ(参考:守りたかった「勉強ができるバカ」)。
つまりダメ議員が発生したときは、私たちこそ判断の不明を恥じるべきなのである。
「でもあたしゃ、あの議員には(票を)入れてないもんね」とか、「そもそも選挙なんて行ってねぇし」という意見もあるだろう。しかし、賛成・反対に関わらず選挙の結果は全員が受け止めなければならない以上、国レベルであれ、県市町村レベルであれ「あたしゃ知らないね」とは言えないのである。
消費税が10%と決まったら、コンビニで本体価格100円の商品を108円では買えない。もし108円だけ置いて店を出たならば、まともな社会人として扱ってはもらえないのである(軽減税率適用の場合は8%)。
私たちは、(自分が考える)マトモな候補者を当選させられなかったことを悔いる感覚を持たなければならない。「何もしない(棄権)という行動」を選び取ったことを悔いなければならない。このような国会議員のいる国の主権者であるということを恥じる感覚を持たなければならない。
ある私立女子高校の生徒手帳には「恥を知れ」と書いてあるらしい。議員はもちろん我々有権者も、その意味を熟考して心に刻みたい。
そのメディア、ジャーナリストはどこを掘っているか
選挙の結果、有権者の多くの支持を得て議員になれば、任期中の身分保障は絶大なものがある。これは当然のことである。
しかし残念なことに、選挙で選ばれたからといって必ずしも良い働きをするとは限らない。2度、3度と同じ失敗を繰り返してしまうということは、そのポジションに不適合であることの証左といえる。ここに税金を投入して議員を雇っておく合理的な必要性は説明できない。正常な感覚で考えれば早めに辞めさせるか、別の人物に交代させることこそが社会のためになる。
ところが、こういった困った人物を「活用」したいと思っている人々も存在するのではないだろうか。
先の女性議員は比例代表制の名簿順位という、有権者の直接的な支持とは違うしくみで議席を得たようである。つまり、名簿順位に発言力を持つ人物の思惑でこういった議員が存続しているともいえる。
我々納税者が国会議員を養っておくコストは、ザックリいうと年間2億円だそうだ(税金が原資の政党交付金を含む)。2億円もあれば、ほかに何ができるだろうか。国会議員の削減も、もう何十年たってもほとんど進んでいないから、国会というよりは互助会なのかもしれない。
一般の会社組織もそうかもしれないが、そのポジションになぜか不適格な人物が居座っているのには、表面には出てこないなんらかの意思が作用している。
マスメディアやジャーナリストは、問題の枝葉末節にスポットを当てたり、捨て石のような人物に注目させて騒いだりするだけでは失格である。
自分たちマスメディアこそが社会の秩序をコントロールしている、などといった勘違いを卒業し、記者クラブなどという奇妙な仕組みでエサを待つのでなく、海外にも胸を張れるマスメディア、ジャーナリストであってほしい。
自分の都合のいいように変えてしまった前政権の最悪の付けです。