ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

素直に、等身大のものと、自然体で、

2011年06月14日 | 沈思黙考

リクツっぽい話が続きましたので、ちょっと楽になれるかもしれない話をひとつ。

私がまだ20代前半だったころ、友人の知り合いの若い女性の家へ行った時のことです。そのとき私は、若いながらにも「あぁ、人は素直に、等身大のものを相手として、自然体で生きるのがいいのではないのだろうか」と、感動にも似た感慨を持ったことを、40代半ばの今でも鮮明に覚えています。
もちろんそのような、言葉として理解していたわけではありませんが、いまあの時のことを追想してみると、そんな言葉で表現できるような気がします。

Pb100152

そのころ私は、友人の男性何人かでバンドを組み、毎週近所のスタジオに入っては演奏し、年に1回ほどはライブハウスのようなところで演奏をしていました。まぁお客さんは圧倒的に知り合いが多いという状況ですが。

そんな日々を送っているある日、理由は忘れましたがバンドメンバーの一人が、彼の知り合いの女性を誘って街へ出かけようということになりました。
そのころのバンドメンバーといえば、貧乏な学生や若い会社員のあつまりで、ボーカルとギターの男性は、なんと3畳一間でトイレ共同、風呂なしという木造アパートに住んでいました。まぁじきに、ボーカルは4畳半の別の似たようなアパートに引っ越してはいましたが。
私にしても似たようなもので、新聞販売店の2階に住み込み、朝夕刊の配達や集金、「拡張」と呼ばれる営業活動をしながら学校に通う日々でした。私に個室はあるものの、部屋の面積は一畳半、それが2段になっていて総床面積は3畳。つまり押入れを改造したような「部屋」であり、下の段は中腰にもなれない高さしかありません。
まぁそんな状況でした。昭和60年になるかならないかの頃です。

Pb100066

青空が広がって陽気もよく、出かけるにはもってこいのその日、数人のメンバーでぞろぞろとその彼女の家へ歩いて行きました。私はその彼女のことは全く知りません。ほかのメンバーに従うようなかっこうで、みんなの少し後ろを歩いていました。
2階建ての古い木造家屋が、あまり秩序正しくなく立ち並ぶ、ゆったり曲がっている狭い道を入って行くと、メンバーの一人がある家の前で止まりました。そこには、周りの家並みに溶け込むように、決して中流生活ともいえなさそうな家が建っています。玄関は、味わいがあるといえばそうかもしれませんが、かなり古く、細い木枠が並んだところにガラスがはめ込まれている引き違いで、家の壁にはトタンが波打っています。そのトタンの一部に無理やり開けられたような破れた開口部があり、そこにガス管や水道管が通っているようでした。

だいたい訪れる時刻を電話してあったのか、メンバーの一人は道に立ったまま彼女を呼びました。2階の窓からその彼女が顔を出しました。ほどなくして別の窓からは、彼女の母親と思われるおばさんも顔を出しました。そして二人ともニコニコと我々を見ています。
しかし残念ながらこの日、彼女は出かけることができませんでした。
それにしても、道端と窓際の1分足らずのシーンは、私にとって今でも心に残っているのです。

バンドのメンバーが見上げる古びた家の2階の窓に姿を見せた彼女は、決して高価とは見えない、それほど新しくもなさそうなワンピースに身を包んでいました。それでも誘ってくれたことがとてもうれしいらしく、屈託のない表情をみせていました。私が感動したのは、そんな彼女が、まったく恥ずかしそうな様子もなく、卑屈そうなところもまるでなく、その母親とともに笑顔で我々を迎えてくれたことです。

もし私があの時の彼女の立場だったら、恥ずかしくてたまらない気分になっていたのではないかと、その後の道々思いました。
よく言われることではありますが、どんな家に住んでいようと、どんな服を着ていようと、それは本質的な問題ではないということを、観念ではなく、実際に目の当たりにしたわけです。その衝撃は、20代前半の私にとっては、その後も褪せることのない鮮明な記憶として残ったのでした。

Pb100099

思えば、私は見栄っ張りな性格です。子供のころは、いうまでもないほどの貧乏で、それが原因でさまざまなことが起きていました。貧乏でさえなければ・・・、と思うことは、小学校低学年のころから、よくあることでした。それがいつしか、貧乏はいけないこと、貧乏は恥ずかしいこと、人には見せられないこと、と変化していき、思春期の頃にそれは私の中で最大化し、固定化し、確信となっていったのかもしれません。

若い男性にとって、もっともカッコをつけたい対象は、若い女性です。その若い女性が、私の当時の価値観では、恥ずかしがるべき、隠れるべき、人とは少し距離を置くべきシーンで、あんな屈託のない笑顔を見せてくれたこと、そしてそのお母さんも笑顔で我々を迎えてくれたことが、いまでもしみじみと思い出されます。
古い家の2階の窓を、数人のバンドのメンバーが見上げながら、出かけようよと誘う、ある晴れた日。その窓から笑顔を見せる女の子。それを見守りながら笑顔で佇んでいるお母さん。そんな、色鉛筆で画用紙に書いてみたくなるようなシーンも、よりいっそう私を感傷的にさせていたのかもしれません。

素直な心で、等身大のものと接し、自然体で生きる。
いくつになっても、どこに行っても忘れたくないと思っていることです。

Pb100247

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 燃油サーチャージを予測する | トップ | 原子力発電をどう考えるか »

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして。「ガイドブックに載らない・・」旧... (HKC)
2011-06-24 16:38:20
はじめまして。「ガイドブックに載らない・・」旧バージョンより数年来、いつも楽しく記事を読ませていただいています。ネット広しといえども、他にはなかなか出会えることのない高度な視点・洞察力・文章力・構成力、読後にはいつも何かを考えさせられます。

私は1年の約半分の時間をハワイで、日本の子ども向けの教育事業に費やしています。今回のブログ記事は、深く共感させられる内容でした。花馬米さんの旅行記続編も、また楽しみにお待ちしています。
返信する
> HKC さま (花馬 米)
2011-06-24 22:55:51
> HKC さま

恐縮です。
教育に携わっていらっしゃるとのこと。素晴らしい人生であり、少しうらやましい気も致します。未来を創っていく人間を育むという、尊い使命を担っていらっしゃるということだと思います。
もちろん、すべて毎日が充実したよいことばかりではないとは思いますが。

ふと思い浮かびましたのは、オアフ島の西部、ナナクリ地区の小学校を取材したときのことです。
このあたりは低所得者層の多い地域であり、犯罪発生率も高く、麻薬の蔓延も問題になっています。
観光業者は決してそこに案内することなどありません。

しかし、ある思いがあってそこへ取材に行き、日本人の血を引く男性の小学校教員に出会うことができました。
言葉はあまり通じませんでしたが、間違いなく、言語にできない「何か」を交換(交歓)したという実感がありました。
いつか必ず、再訪したいと思っています。

このところ純粋に一人旅として渡布していないので、もうそろそろ企画したいなと思っているところです。
返信する
花馬米さま。コメントありがとうございます。ナナ... (HKC)
2011-06-25 00:49:57
花馬米さま。コメントありがとうございます。ナナクリも間違いなくオアフの一部であり、ハワイアン・スピリットの源泉があるところですね。次回の取材旅行の際にでも、現地でお目に掛かれれば幸いです。今後とも緩やかに、よろしくお願いします。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。