ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

東京五輪は「令和のインパール作戦」

2021年05月24日 | 沈思黙考

たとえ緊急事態宣言下であっても東京五輪は実施する、とIOCコーツ調整委員長が断言した。IOCの腹の底に「刈り取り」が済んだ後で極東の有色島民がどうなろうと知ったことではない、という感覚が潜んでいるのかどうかはわからないが、少なくとも日本の政府も経済界も「強行2020五輪」を表明している。
「ほら、やっぱり日本人って歴史から学習できないヤツらなんだよ」という声が国外から聞こえてきそうだ。

給料ゼロでも愛と絆で来月も生きて行け!

インパール作戦とは、第2次世界大戦中に日本が実行した最低最悪の軍事作戦である。兵站(へいたん=ロジスティクス)が考慮されないまま、つまり食べ物や飲み物が与えられないまま、東南アジアのジャングルに送り込まれた10万もの歩兵は、飢えと病に苦しみ7万人が死亡する。戦闘行為の結果ではなく、飢え、感染症などの病気、ケガの手当てができないなどで密林の奥深くでこれだけ死んでいるということである。
このとても信じられないような歴史の事実は、1944年(昭和19年)インド北東部の街インパールを攻略すべく、当時の大日本帝国陸軍が実行した文字通り死の強行軍である。

こういった異常な命令が下され実行されてしまうのは、1905年(明治38年)に日本が大国ロシアに「うっかり勝利してしまった」ことが、その源と言われている。
「われわれ日本人は(他に比べて)潜在的にスゴイものを持っている。だからこそ大国であるロシアに勝てたのだ」と舞い上がってしまったのだ。
しかしそこには、なんら科学的・合理的な根拠も思考も存在していなかった。むしろそういったものは悪であり、日本人が持つ(他民族にはない特別な)愛、勇気、絆、情熱、精神力といったものが、科学的・合理的なものさえ超越していけるのだと信じていた。そんなほとんど錯乱状態のような陶酔感のなかで、近代のある時期を過ごしてきたのである。

美しい言葉、力強い言葉をちりばめた挙句の果てには、むごい死に方さえも「玉砕(ぎょくさい=美しき宝玉のように砕け散る)」と言い張って美化し、正当化する。失敗などありえず、すべては大成功であったと結論づけ、過去のことは考えない。
こういった傾向は現在のどこかの国とも通じるような感さえある。

昨今、「考えるな、感じろ!」などといったフレーズに感動し、踊らされてしまう日本人が増えているような気がしてならない。しかし冷静に考えることが出来ない人間は、結局いつまでたっても誰かに飼われた人間として生きていくしかない。そしてその状態に気づくことすら出来ない。
「サルでもわかる〇〇」と題する本などが出され続ける現象も、考える努力をせずに手っ取り早く「わかった気」になりたい日本人が増えている証左なのかもしれない。

そして五輪で華々しく玉砕セヨ

近代史に関心のある方ならもう常識だけれども、日本人は何度も何度も同じ構造の失敗を繰り返している。それは失敗を失敗と認めようとせず、過去の自分たちを分析・総括せず、忘れてしまうか美化してしまうためである。
その結果、政治の選択であれ自然災害への対応であれ、当然の成り行きで同じ失敗を繰り返すのである。なんと悲しく愚かなことだろうか。

ここでいったん、「強行五輪」批判の対象としやすい政府、与党、組織委員会、IOC/JOCなどを横に置いて考えてみたい。
我々のようなごく普通の日本人の中に、これまで述べてきたような、抽象的で美しい言葉、強い言葉に突き動かされてしまうクセが、たとえば「アミロイドβ(脳にできるゴミ)」のようにこびり付いてはいないだろうか。
愛、勇気、絆、感動、友人、仲間、同士、考えるな肌で感じろ!走りながら考えろ!こういった言葉に酔いしれて、科学的合理的に考えることをサボってはいないだろうか。

仮に日本人の多くがその傾向にあるのだとしたら、「強行2020五輪」はおそらく玉砕プロジェクトとなる(ただし美談を集めたり奇妙な評価をしつつ「成功」のレッテルは貼られる)。
その玉砕とはなにもコロナで重症化したり、亡くなったり、後遺症を引きずるといったことに限らない。
オリンピックを強行するために様々な社会的リソースが持っていかれた結果、仕事や生活が破綻したり、人生を狂わされたりする人たちの不利益も含まれるのである。

仮に全国の新規感染者数がゼロになったとしても、日本の医療システムはすでに疲弊しているし、統計に表れない人たちも含む多くの失業者、本来の教育を受けられなかったり不本意な進路を選ばざるを得なかった若者たち、再就職がまだまだ困難な女性たち、疲弊した業界の再構築やそこで持ちこたえている人たちの再起、くわえて今後発生するかも知れないワクチン難民として取り残される人たちの怯え、新たな変異株のまん延など、無視できない問題が山積ではないだろうか。

しかしきっとこれらの問題は「考えない」→「意識しない」→「存在しない」ということにされるのだろう。美しい言葉で飾りたてた悲しきオリンピックのために、日本人は令和になってもまた、飲まず食わずでジャングルを歩かされるのだ。

ここでは詳述しないが、日本は過去に何度も国民を見捨てたことがある国だ。いや今の時代にも見捨てられている人は少なくない(棄民という。わかりやすい例は満州居留民や、無策を含む国策による被害者など)。困難な事態に立ち至った時、国家はいとも簡単に国民を見捨てるものだということを、よく噛みしめておかなければならない。

さぁ、日本人なら「強行2020」

インパール作戦の指揮官はこう言っている(現代語訳と意訳は筆者)

「皇軍(こうぐん=天皇の軍隊)は食糧がなくても戦わねばならない。武器や弾薬、食糧がないからというのは戦いを放棄する理由になどならない。
弾薬がないなら銃剣(じゅうけん=銃の先に短剣を取り付けたもの)がある。銃剣が無くなれば自分の腕がある。腕が無くなれば足で蹴れ。足もやられたら口で咬みつけ。日本男児には大和魂があるのだ。」

なんともめちゃくちゃである。しかし、このめちゃくちゃな文脈や表現のようなものが、令和日本の状況と相似していることにも気づく。我々日本人は、例えばこういう過去を背負った人間集団なのだと言うことは忘れない方がいいだろう。

ちなみに述べておくならば、戦争について当事者として語る人間には2種類あることに注意しておかなければならない。
現場で文字通り血を流すような体験を経て一定の哲学を築いてきた人と、安全な場所に身を置きながら「戦争ゲーム」を観察していた、博徒のような精神構造の人間である。
令和日本のあらゆる場所にいるリーダーたちが、このどちらの物語に影響されて生きているかを知っておくことは、大変重要なことである。

五輪に利害関係を持つあらゆるリーダー層は、ずっと以前から抽象的な言葉しか吐けなくなっている。
たしかに理想を持ち、希望を持って生きることが大切であることに間違いはない。しかし集団のリーダーなのであれば、そのための明確なビジョンと周到な計画を示せなくてはならない。
具体的に言うならば、何を以って「実行/再延期/中止(返上)」の判断基準とするかの客観的、数値的な目標値の設定と説明、責任の所在の明確化、事態が変化した場合の対応などである(想定外とか仕方がなかったなどと言わせない)。
そしておそらく日本人が最も苦手であろう事後の分析と議論、総括と学習をしなければならない。またこれらは、成功・失敗といったレッテル貼りや、責任追及とはまったく切り離されたフィールドで冷静に行われなければならない。

オリンピックまで2か月を切った。
オリンピックそのものは素晴らしい行事だ。問題なのはそのオリンピックを利用して、自分たちの利益や影響力を拡大しようと考えている人間たちである。自分の欲のために、真摯に努力を積み重ねているアスリートすら弄(もてあそ)ぶ内外の人間たちに、正常な感覚の日本人は明確に態度を示さねばならない。


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