ほぼ1年半が経過し、少なくとも2021年中は続きそうなコロナ禍。そのコロナ禍に関連した、気持ちが「ほっこり」とさせられるニュースやちょっとした美談などに、つかの間の癒しを感じることがある。しかし知らず知らずのうちに、ある方向へ持っていかれているかもしれないという感覚も、頭の隅には置いておきたい。
マスメディアもSNSも注意は必要
周知のとおりマスメディアとはテレビ・新聞・雑誌などであり、大きな資本力や組織力を背景に世の中に情報を発信している集団である。得られた情報は複数の人間で精査され、表現手法が検討され、その組織の最終審査を経て世の中へ発信される。組織として世間からもそれなりに批判や注視を受けており、基本的に信頼性の高い情報ソースであるといえる。
対してSNSのようなメディアは、利用者・情報発信者にとっては「資本力」というような資本力は不要で、いつでも・だれでも・どこからでも(原理的には)世界中へ発信が可能である。少々テクニックに明るい者であれば、いっぱしのマスメディアのように装うことも難しくはない。
またTwitterのようなものは個人のふとした思いつきが十分な思考過程を経ることなく発信され、また匿名かつ短文であるがゆえに、発信者の意図とは異なった事態を引き起こすこともある(筆者は「思いつきメディア」と呼んでいる)。
こうして「マスメディア対SNS」というような対立構造で眺めたとき、「マスメディアは正確であり、SNSの情報には振り回されないように注意しよう」といった見方が語られる。
しかし、どちらが善でどちらが悪というような見方は誤りだろう。それぞれに成り立ちが異なる情報メディアなのであり、単純に結論付けるのは物事を見誤ることになる。
大切なのはそれぞれの出来(でき)、すなわち情報が発信される仕組みに、どんな立場の人間がどのようにかかわっているのかを意識したうえで理解することだ。
立派な中学生
先日、首都圏ローカルのニュース番組を見ていたところ、千葉県のある町で集団接種の予約業務に関連して、高齢者からの聴き取りとパソコン操作の手伝いを、19人のボランティア中学生が手伝ったという話題が取り上げられていた。孫のような中学生に助けられ笑顔で感謝しているお年寄りのコメント、社会の役に立てた達成感に胸を張る凛々しくも微笑ましい中学生のコメントでまとめられていた。
もしかしたら「今どきの若者にもマトモな子がいる。よかった。」などと感じた視聴者もいたかもしれない。V明け(VTRが終わってスタジオなどに戻ること)では、キャスターが「地域の中学生も頑張っていますね!」といったような受けコメントで「ほっこり」とまとめていた。
たしかに高齢者には有り難いことであるし、中学生にとっても貴重な体験であることに違いはない。微笑ましいニュースである。しかし筆者は同時に、これはある意味「学徒出陣」ではないかと考えたのだ(学徒出陣(がくとしゅつじん):学生まで動員して兵士として戦地に送り込むこと)。
中学生が高齢者をサポートしたこと自体は素晴らしいことだが、そもそもこんな話題が発生する状況自体が異常なのだし、これを一種の美談として取り上げることがどのような意味や影響を持つのかを考えたからである。
自衛隊の集団接種
この「微笑ましいニュース」の数日前、東京と大阪では自衛隊の医師・看護師(正確には医官・看護官と呼ばれる自衛官)らによる大規模な集団接種が始まっていた。コロナ禍において自衛隊が出動したのは、最初に北海道で医療システムがひっ迫した時ではなかったかと記憶している。
自衛隊は以前から、震災や水害などあらゆる自然災害のシーンで大きな役割を果たし、関係自治体や住民は深い感謝を覚えているはずだ。これらの活動は治安出動、海外派遣、不発弾処理などと並ぶ「国民保護等派遣」と呼ばれる、法律で定められた自衛隊の行動類型のひとつである。
ただ考えてみると彼らの第一の使命は国防なのであり、国外からの不正な侵攻に備え、対応することが最も大切な仕事である。その彼らが、国内の緊急事態に対応してくれるということは、一時的にせよ国防力を弱めることになる。それゆえどの程度、自衛隊のリソースを災害対応に振り向けるかには、一定の手続きや承認が必要とされている。
自衛官という戦力の配置変更(医官・看護官の自衛隊外部への派遣)が、そう簡単な判断でないということは多くの方が理解できるのではないかと思う。
こんな時は普通、国家安全保障会議(略称:NSC)で話し合いを行う。NSCは内閣に置かれる組織で、日本の安全保障に関する重要事項や重大緊急事態への対処を審議する機関である。
しかし今回はどうやら事務手続きだけで「戦力の配置変更」が行われたようだ。
筆者は別に、今回の派遣手続きが拙速で問題だなどと主張するつもりはない。しかし少なくとも、「自衛隊が集団接種の応援に加わってくれてよかった。ありがたやありがたや。めでたし めでたし。」といった具合に済ませてしまうことは、思考停止という意味において疑問と不安を感じてしまうのだ。
「自衛隊が動くということはどういうことか」、「そういえばNSCって何なのか」といった素朴な疑問を知ろうとするクセを持ち、考えてみることがとても重要だと思うのである。
筆者が言いたいことは「我々はいま、自分たちに提示されているものを鵜呑みにしてはならない」ということである。
通常時でもそうだが、パンデミックとそれに伴う様々な不安が覆っている現下の状況で、我々の思考力や判断力がぼやけてしまっていないかを、いま一度点検する必要があると思っている。
鵜呑みはラクだが役に立たない
マスメディアが発信する報道は一般に、時間枠や文字数、紙数を考慮したうえで、「バランス」を整えて制作されがちである。
たとえばニュース番組では、(報道特番などでない限り)悲惨なニュースばかりや微笑ましい話題ばかりでその時間帯が埋められてしまうと、総合的なニュース番組としてはおさまりが悪いためだ。
Good NewsとBad Newsのバランスは番組制作上とても重要だし、特に夜のニュースなどでは「いろいろある世の中だけど、ほっこりニュースでゆっくりお休みなさい…。」と締めなければならない宿命がある(朝は「行ってらっしゃい」に着地)。しかし当然ながら現実の物事は、そんなきちんとしたバランスで動いているわけではない。
それだけではない。たとえば大震災に関するニュースのように報道が事後長期に及ぶ場合、その災害に関連する悲惨なニュースと明るいニュースの割合が、だんだんと変化していく現象を感じたことはないだろうか。それは「たしかに悲惨な事実もあるけれど、被災地は着々と復興し始めている」ことを感じさせるようなグラデーション的変化であり、量的・質的変化でもある。
そこにはあらかじめイメージされた復興の流れに、無意識に合わせてしまおうとする力学が働いてはいないだろうか。
それどころかマスメディアの中には、
「非常時は騒いで煽っていくことがマスメディアの使命だ。それによって義援金が集まったりするからだ。そしてそのあと復興を支えるために、今度は力が湧いてくるような話題を入れ込んでいくんだ」
などと断言する者さえいるという。
しかしこれは、自分たちマスメディアが社会の秩序を維持しているのだという勘違いではないだろうか。マスメディアは現実にある事柄と、その多面的な捉え方や議論を提示することが使命であり、それらを踏まえて判断をするのはあくまでも我々一般市民であると思う。
まとめ
大切なのは情報を受け取って判断する、我々の側の姿勢であり認識だ。
たとえばお気に入りのニュース番組だけ、特定の新聞社だけ、NHKだけ、あの出演者が出ている番組だけ、スマホのニュースアプリだけ、そして歴史本など読まないといったような姿勢は、やはりバランスの取れたものの見方とは言い難い。
社会の状況を知る手段がSNSだけという若者たちを笑えないのではないだろうか。
マスメディアからの情報が、社会の状況を正しく反映しているとは限らないという当然のことを認識しておくべきである。目の前に提示されたものを、まるでエサを与えられた家畜であるかのように鵜呑みにしていてはならない。
美談や動物の赤ちゃんに「ほっこり」するのもいいけれど、そこで問題意識や一種怒りのようなものが萎えてしまうのだとしたら、撒かれたエサしか目に入らない「悲しき国民A」である。
「問題はこうなのではないか」と考えたり、ましてや人に向かって言葉を使ったりするのであれば、「常に人は(自分は)偏った状態でしか存在できない宿命にある」という自戒を持ち続ける必要があるだろう。そして目の前に提示された情報や状況をどう捉えるべきなのかを考えぬく必要がある。
コロナ禍(下)のこの国で、日本人はどのような判断・選択を見せるのか、世界の人々はじっと眺めている。