例年通り、年明けに年賀状の行き違いを調整する数日が過ぎ、年末にできなかった部屋の大掃除をし(年「始」大掃除)、思い切って溜まっていた過去の年賀状を整理しました。
古い紙箱や缶々などを開けてみると、なんと小学校時代のものまで出てきてびっくり。自分は本当にたくさんの人とかかわりながら生きてきたんだなぁ、としみじみとしてしまいました。
しかし、たくさんの手紙類は、田舎の旧家などでもなければ取っておいてもスペースを取ります。それに、基本的に人に見せるようなものではありません。
手紙を書いた本人でさえ、おそらく「そんな昔のものは捨ててくれ」というに違いありません。
自分だって、若輩の頃や幼いころに人に宛てた手紙を目にするとしたら、こっ恥ずかしいことこの上ないと思います。
そこで、今年いただいた年賀状まですべて、ドキュメントスキャナで画像ファイル化し、自宅の「RAID-HDD」にアーカイヴするとともに、万一に備えセキュアなクラウドサービスにもアップロードしました。
そして古い年賀状は、近藤麻理恵さんがテレビでいっていたように「感謝して捨てる」ことにしました。もちろんシュレッダーを使って。
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最近は年賀状をはじめとして、暑中見舞いや普通の手紙などを送ったり受け取ったりすることはとても少なくなりました。
私もICT推進派?に属する人間ではあるのですが、年賀状という習慣は嫌いではありませんし、出来る限り出していきたいと思っているタイプの人間です。
それどころか、こんな時代だからこそ肉筆の手紙や葉書は、ズシンと相手の心に響いていく、一種のチカラを持つようになっているのではないかという気もします。
であれば、もっとこれを活用してもよいのではないかと思います。
とはいえ郵便としての手紙や葉書は、そこまでする理由がある話題でなければ、少々気が引けますし、最近は相手の住所を知らない人間関係も多くなっているはずです。
であれば、郵便ではない直接手渡すカードとか、メモのようなものでもいいのではないかと思うのです。
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オフィスで仕事をしているような人たちなら、ちょっとしたことを伝えるのに、付箋紙(ふせんし)を、相手のデスクやパソコン画面に貼っておくといったことをしているかもしれません。
これだって立派な肉筆コミュニケーションです。
そういえば、「ふせんし」といってもわからない人がいるかもしれません。「ポストイット」という商品名の方が知られている職場もあるかもしれませんね。
なにかで知ったのですが、7cm四方程度の付箋紙に、接着ラインを下にして連絡事項を書き、これを相手のデスクやキーボードに折り曲げて立てるように貼る、という方法があります。
普通は接着ラインを上にして利用することが多いかと思いますが、こうすることによって相手が自席に戻ってきた時に、ちょっと特別な雰囲気を醸し出すことができます。
くわえてこういった連絡の方法は、周囲の人にもオープンな状態になっており、妙な憶測や誤解を避けるという効果もあるのではないかと思います。
最近では、ちょっとした連絡ですら、社内メッセージングシステムで処理する職場もあるでしょうが、これが過度になると「それぞれのメンバーが裏側で別のつながりを持っている集団」のようになってしまい、特定の契約や理屈、条件でのみつながった、表面的な集団になってしまうような気がするのです。
私はこういった人間集団の状態を「冷たいつながり」と呼んでいます。昨今こういった「冷たいつながり」が増えてきているのではないかという気がします。
もちろん、会社などは契約で集まった集団なんだからある意味当然なのですが、それでももう少し「あたたかいつながり」があってもよいのではないかという気がするのです。
毎日たわいもないテキストメッセージをやり取りする人間関係と、年に一回年賀状のやり取りぐらいしかしない、でも決して忘れてはいない人間関係を並べて考えてみると、ひとつ自分の生き方について考えるきっかけになるかもしれません。
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いま振り返ってみて、自分が所属・参加している様々な集団は、どの程度体温が感じられる人間集団となっているでしょうか。「冷たいつながり」でしょうか、「あたたかいつながり」でしょうか。