ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

ウイルスと宗教

2021年06月14日 | 沈思黙考

昨今はウイルス、ワクチン、免疫などというものについて、素人でも少しは勉強せざるを得ないような状況になってきている。そんな中で気づくことは、科学と宗教が必ずしも対立する概念ではないと言うことだ。また科学に似非(えせ)科学が存在するように、宗教にも首をかしげたくなるものがあることに共通点も感じる。今回はコロナ禍を機に誰もが多少なりとも考え始めている「人間とは何か」といったようなことを、あれこれと考えてみる。

【注意】筆者は医療従事者等ではなく、本稿では一般に公表されている情報をもとにした個人的思考・見解を述べています。病気の予防や治療に関してはご自身の責任において判断してください。

ウイルスと菌の違いも知らなかった

恥ずかしながら筆者は中年になるまで、「ウイルス」と「菌」の違いをよく知らなかった。また小学生の時(昭和50年前後)には、「風邪」と「インフルエンザ」の違いも知らなかった。
いま筆者流にざっと整理するならば次のとおりである。

  • 菌は「生き物」だが、ウイルスは「生き物かどうかハッキリしない」。
  • 菌は通常の光学顕微鏡で見ることが出来るが、ウイルスは電子顕微鏡でないと確認できない。
  • 菌は人間にとって有益なもの、無害のもの、有害なもの、さらにはこういった特性が変化するものなどがある。
  • ウイルス、菌、寄生虫はわかっているだけでも多くの種類があり、病原体として人間の体に入ってくると非常に困ったことになる。そして今後も人類が未知のウイルスなどに悩まされ続けることはまず間違いない。
  • インフルエンザは「特別な風邪」

ウイルスは菌の50~100分の1の大きさだが、そもそも細胞で出来ているわけではないし、自分だけでは増殖できない。自分の外にある何かを「食べ」てエネルギーにしたり排泄したりといった代謝系も持たない。だから生き物ではないという説明が可能だ(細菌より大きいウイルスも一部確認されている)。
しかし他の生物の細胞に入り込んで炎症(細胞の死滅)を起こさせながら自分のコピーを増やすという振る舞いや、ウイルスが「死んで」しまって感染力を失ってしまう(不活化)というところなど、なにやら生き物のようでもある。
こう考えてくると、「生き物」とか「生命」とは一体いかなるものか、さらには「生きている」とか「死んでしまった」と言うことの意味をどう捉えるべきなのか、といった疑問もわいてくる。

さて、生き物かどうか判然としないウイルスと違って、菌は「生き物」である。菌には「真菌」と「細菌(バクテリア)」という区別があるそうなのだが、我々の体に入ってきて悪さをする病原体という意味で大きさの順に並べてみると、

ウイルス < 細菌 < 真菌 < 寄生虫

ということになる(一部例外あり)。
真菌とは要するにカビであり、水虫を引き起こす白癬菌も真菌である。また真菌よりも小さいがウイルスよりも大きい細菌には、大腸菌やサルモネラ菌などの名前が思い浮かぶ。
しかし菌には知っての通り、乳酸菌や麹菌、納豆菌など我々にとって有用なものも存在する。
だいたいキノコや酵母は真菌である。また細菌性の食中毒などに対しては、食べ物をしっかり加熱していれば何でもないことを我々は知っている。菌ではないがノロウイルス(人から人へ容易に感染しワクチンも治療薬もない)も、やはりきちんと加熱することによって「死滅」する。
それに悪い菌が体にちょっとぐらい入り込んだとしても、我々の体の免疫システムが駆動し、胃酸などでやっつけてくれる。

そもそも我々の体(口腔、腸、皮膚)は、もとより菌だらけである。なんだか気味が悪いかもしれないが、消化を助けてくれていることは有名だし、虫歯を予防していたりお肌をキレイに保ってくれたりしている菌もあるらしい。つまり彼ら「良質細菌部隊」なしでは、我々はおそらく健康に生きていられない。
こういう役に立つ彼らには「常在菌」という称号が与えられ、細菌に「感染」しているのではなく「定着」している、というのだそうだ。

我々は多くの種類、膨大な数の微生物を体の中や表面に住まわせることにより、自分の命を生きていられるともいえる。
そして「自分の中におけるバランス」と「自分と他者との関係におけるバランス」のどちらかでも崩してしまうと、もはや「自分」は正常な状態ではいられなくなるということなのだと思う。
若かりし頃、まともな大人から「オマエ一人で生きていると思っていたら大間違いだぞ!」と言われたことがある。なるほど、と思う(ちょっと違うか?)。

素粒子もまた不可思議なるもの

落語だったかで、豆腐を半分に切り続けるという話があったと記憶している。半分の半分で4分の1になり、8分の1、16分の1...と続くわけである。そうしていつまでたっても「ね、無くなっちまったりしねぇじゃねぇですか」という理屈だったと思う。

ただ現代の科学を知っている我々がこの話をマジメに考えた場合、分子、原子へと到達することを知っている。さらには陽子や中性子、電子のレベルになっていくことも、多くの人々が知っている。
そしてこの辺になってくると、我々の常識が成り立たなくなる世界に入っていく。それはたとえば「存在」ということの意味が、もはや人間の常識的感覚を超えてしまうようなことである。

我々はふつう、存在するというのならたとえ僅かでも質量があるはずだ、という気がするけれど、質量のない存在も成立するといったようなことである。
また何らかの状態にある存在を確認するために、例えば光をあてて確認しようとすると、その光を当てたことによってもう元の状態の存在ではなくなってしまい、ある意味永遠に「存在を直接確認できない存在がある」のだとか、はたまた「その場」に存在しているに違いないけれど、「同時に」別の場所にも存在する、といったような(自分で書いていても)わけのわからないことが成立するというのだ。

じゃぁいったい、「存在している」とか「場(場所)」とは何なのだということを考え始めてしまう。

科学と宗教の出発点

聞くところによると人間の体は7年かそこらあたりで、原子レベルではまったく別のものに入れ替わっているのだそうだ。筆者もあなたも7年前と今では、物質的には「別モノ」だということになる。そして今現在も着々と物質としては入れ替わり続けていることになる。
ところが本人はもちろん家族や友人も、同僚も医者も国家もあなたをあなたとして認識しているし、それで世の中は昔から回っている。
「俺はもう、物質的にあの時のオレじゃないから借金は返さんゼ」なんて言ってみたいものだが、おそらく通用しないだろう。

それはさておき生命とは、原子や分子といった物質を、「何らかの意味において結びつけ運動させているエネルギー的な現象」とでも解するべきなのだろうか。なんだかスピリチュアル(霊的)な気分にもなってくるが、ここで安易に奇妙な物語でも創作してそこへ飛躍してしまうと、怪しい宗教になってしまいそうだ。

だけど人間の体も、こうして思考する脳も、もとはと言えば素粒子だ。そして膨大な数の細胞や、高度なバランスを保とうとする体内の仕組みに支えられ、また微生物に助けられたり痛い目にあわされたりして生きている以上、まったくスピリチュアルな話と無縁だとも言い切れない。
人間が何らかの形でこの世界を整理して生きていこうとする姿は、決して不自然なことでも無意味なことでもない。そもそも人間と世界の成り立ちに疑問を持ち続けるからこそ人間なのだともいえる。

それに素粒子の話を聞いていると、素人ながらもなにか宇宙にも当てはまるような気がしてくる。
ブラックホールという不思議な場所があるのだとか、夜空に輝いているあの星は、本当はもう存在していないのだとか、光の速さ以上の宇宙船に乗ってみて初めて見えてくる世界がある、などといった話と無縁でない気がしてくるのだ。
我々人間は宇宙のありようと素粒子における現象を、その大きさという意味で両極に置いてとらえているけれど、もしかしたらその感覚はいかにも人間らしい偏った認識なのかも知れない。

こうして考えてくると科学も宗教も、「人間とは何か」そして「この世はどう作られているのか」という同じ問いから出発していることがわかる。だとすれば、科学と宗教はまったく相いれないものではなく、人間が真実を求める時のアプローチの違いと考えることが出来る。

まとめ

ところで、ここまで「科学」という言葉を何度となく使ってきたが、科学とは何だろう。
「新型コロナウイルス撲滅のために、皆で集まって(密になって)一心不乱に御祈祷しましょう」とか、「ワクチンなんてものを体に入れてはいけない。輸血などしてはならない」といったような考え方は非科学的である、という話を聞いたことがあるはずだ。
ここで言っている科学はおそらく近代自然科学(理学)を意識している。

しかしもっと広い意味での科学もある。人間の精神活動、抽象度の高い思考なども含めたうえで体系的に考える科学である。
「科学と宗教は必ずしも対立しない」という文脈における科学とは、この広い意味での科学である。だから近代自然科学にすら逆行しているような宗教は、すでに真実の探究という道を逸脱しており、陶酔したい創作物語へと進路をとってしまったと言わざるを得ない。つまり、すでに実証されているメカニズムや知見を無視している以上、社会の中で正常に機能している宗教とはいい難い。
また同時に「科学は正しく宗教は(すべて)気休め」といったような安直な整理も、人間というものに対する真実の探究からは脱線した、視野の狭い考え方だ。

新型コロナウイルスは、今後の変異も含めて専門家ですらまだまだわからないことが多い。けれど過去にないほど驚異的なスピードでワクチン開発が進んできたことも事実である。
現時点で明確に証明されている事実、いちおう可能性の高いことがら、事実ではあるが事例が少ないもの、自分(たち)とは異なる環境における事例、常識的に考えてわけのわからない言説。
そういった雑多な情報を見据えたうえで、これをどのように読み解き、考えるのか。まさに広い意味での科学的思考が試される。

「〇〇ドリンクを飲むと免疫力が上昇する!」みたいなことは医学的には証明されてはいない。なぜなら免疫力というものが数値化できないためだ。宣伝広告によくある「免疫力アップとは〇〇値の上昇が見られたという意味です。当社測定値」みたいな極小文字がエクスキューズとなっている。
反対に、睡眠・栄養・運動といった生活の基本バランスを崩していたり、強いストレスやステロイド剤の影響があったりすると免疫力が低下することはわかっている。「免疫力アップ!」を信じてドリンクを飲んだりするのは、一つのエセ宗教信仰とも言えそうだ。

断片的でセンセーショナルな情報にあおられて、過度な期待をしてみたり余計な心配をしたりする前に、さっさと寝たほうがいいのかもしれない。


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