OJTという言葉やその概念を都合よく解釈して、じつのところ教育放棄をしている会社をよく見聞きします。いや正確に言うと、教育を放棄しているというよりも、教育のしかたを知らない、そもそも教育というものを教えられてもいない先輩社員、管理職が増えてきている時代に入ってきたということなのかも知れません。
私は学校を卒業してひとつの会社にずっと勤めているわけではなく、さまざまな業種、職種を渡り歩いてきています。その数十年の過程で、ある時代の変化を感じています。
それは、企業組織のなかで、先輩、上司と呼ばれる人たちが、後輩や部下を教育できなくなってきているということです。
具体的に言えば、説明の仕方、相手に合わせて物言いを変えていく対機話法が稚拙で、教えられている方も「わかった気」になった状態で、「言われたことをこなす」だけのような仕事になっているという状態です。これでは会社や組織に改善やクリエイティヴィティなど望むべくもありません。
昨今は数十年前に比べて、「転職」ということがそれほど人生上の重大事といったような感覚はなくなってきたといっていいでしょう。そういうこともあって、同じ業界や職種で転職してくる人々も少なくないはずです。
もちろん、まるで畑違いの人を採用するよりも、ある程度業界の経験があったり、似たような職種に携わっていた人を採用する方が合理的だからです。
しかし、このことが却って「んなこと、わかってんだろ」的な受け入れ側の思い込みを招いている場合が少なくないように感じます。
教える側では、「業界の常識」「この仕事の常識」と思い込んでいることがあります。その人はたいてい、その組織で一定の経験を積んできているはずで、「この仕事はこういうもの」という確信があります。
しかし、これは狭い自分の経験でしか物事を見てきていないがゆえの、思い込みであることもしばしばです。その仕事を長くやってきたというよりも、「その組織の土壌に長く根付いてきただけ」である場合が少なくないのです。
教えられる立場としては、「あなたの視野と経験で見えているものだけで、この仕事を語ることには限界があるのですよ」と言いたくなるのですが、当然これはかなり難しい話です。
その企業・組織に入りたてという意味では、どんなに経験や年齢を重ねていても、新入りであり、一年生であるからです。それに教える側は「自分は先輩として教える側だ」という一定の自信や誇りに満ち満ちてしまっている場合もあります。
わかりやすい説明、教育をしてくれる人というのは得てして、自分が年上であれ経験豊富であれ、一定の謙虚さを持っているものです。新しい仲間として尊重してくれます。
まちがっても「オマエはオレの下なんだ。わかってるよな」的な空気を漂わせるようなことはありません。そんな人は有能な人でもなんでもなく、ただ長くそれをやっていただけでしかなく、その「スゴさ」も「その組織内では」という限定条件付きなのです。
しかし一概に教える側を責められないというのもまた事実です。
なぜなら、教える側は「教え方」というものをほとんど教えられてきていないからです。これは業界によっても偏りがあるかも知れません。
組織の中で即戦力として使われてきた世代の人々は、人間的な教育などまったく無駄なこととされた組織の中で、奴隷的に、しかし本人たちは意気揚々と働いてきたからです。
当然、なんで自分の仕事を置いてまでコイツの面倒を見なけりゃならないんだという発想も出てくるし、そもそも仕事を教えるということがどういうことなのか身についていない場合があるのです。
そこで自己流の「教育」を始めてしまうのですが、組織という一定の区切られた空間で長年やってきたがゆえに、相手に合わせた比喩なども思いつかず、単調にマニュアルブックを再確認するような「教育」をしてしまうのです。
OJTとは、現場の未熟な先任従業員に無責任に新人を押し付けることではありません。一定の教育プログラムとして考えられていなければならないのです。また本来は、OJTだけで教育が完了するものでもありません。
「教育プログラム」というと何か大げさな気がするかもしれませんが、そうではありません。現場の仲間がより良いOJTについて話し合うだけでもいいのです。
OJTという言葉を都合よく解釈して、現場だけで回せていけるのは、たくさんの使い捨て従業員でビジネスを回せる業態だけでしょう。
本当に長年続く企業・組織であるならば、目先の効率や利益だけに振り回されるのでなく、人材育成に心配りをして将来に備えているはずなのです。