ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

マヌケに見えないスマホ術

2017年03月25日 | 沈思黙考

スマートフォンを操作する人々というのは、もはや日常風景です。
ただその様子が、「知的ではない人」に見えてしまうのはなぜでしょうか。


 ◆

スマートフォン(以下「スマホ」)を操作しているからと言って、その人が知的でないことをしているとか、その人自身が知的でない、などということはできません。
ゲームをしたりマンガを読んでいるのではなく、仕事の連絡や資料の整理、情報収集をやっているのかもしれません。それにゲームもマンガも、ある程度の知識やセンスを持っていないと楽しめないものもあるので、一概に幼稚と捉えてしまうのも時代錯誤的といえます。
そもそも、ここ数年で普及してきたスマホを自在に操作していること自体が、ある意味においては「知的」であるともいえるでしょう。
ただ、こういったことを踏まえてもなお、知的に見えない場合が少なくないのです。

それでは、その人の風体(ふうてい)がそう見せているのか。
そうでもないようです。キチンとスーツを身に着けたビジネスマンのそれであっても、なぜか「ダメ系サラリーマン」が当てはまるような場合もあります。
もちろん、見てくれが志村けん演ずるところのダメオヤジのようであれば、たとえ知的な活動や思考をしていたとしても、誰もそうだとは思わないでしょうけれども。

けっきょく、スマホで知的なことをしていたとしてもマヌケに見えてしまう理由は、スマホ画面を顔の近くに持ってきていることが、もっとも大きいのではないかと思うのです。つまりスマホそのものの具体的な取り扱い方が大きく影響していると思うのです。
というわけで、私なりにマヌケに見えてしまうポイントを整理し、その重要度順に並べてみました。

  1. スマホと顔の距離が近すぎる
  2. 猫背になっている
  3. 歩きながら操作している
  4. 長時間操作している
  5. 目が死んでいる、または逆に目を剥くように爛々と見つめている


 ◆ 

人々を観察していると、かなり多くの人がスマホを顔のそばまで持ってきて操作しています。これはスマホ本体そのものが大きくないことに加え、高解像度であるがゆえに、物理的に細かい文字を読んだり人物写真の表情を読み取ろうとしたりするためでしょう。いつのまにか猫背になってしまうのも同じ理由からと考えられます。
視力の問題もあるのでしょうが、こういった現象は、スマホで何をやっているかにかかわらず、スマホの内容に没入すればするほど、傾向として強くなると考えられます。

さらに、「歩きスマホ」はどうしてもマヌケ度を上げてしまいます。
ガイドブックを見ながら観光地を歩いている人とは次元の違うマヌケ度が露呈しています。ガイドブックの場合は、「観光地」という一定の環境条件で、目の前の事柄についての情報を、それ専用の紙資料を引きながら、まさに目前の行動を判断しています。つまり周囲の人々が、何をやっているのかが一目でわかり、かつ(不満があったとしても)一定の理解はしてくれる状況です。

しかしスマホは違います。場所や時間、場の状況にかかわりなく、その場に存在しない他者とのコミュニケーション、(一方的に与えられる)情報の閲覧、液晶ウィンドウショッピング、読書、思い出の写真などを見たり、ゲームに興じたり...。
周囲の人から見て何をしているのかわからないだけでなく、その人個人の都合で周囲の状況を無視している態度として映ります。この状況は、自分の楽しみのためだけに周囲に受動喫煙させている喫煙者とも構造が似ています。
スマホを使用している自分は周囲に注意しているつもりでも、じつはほとんど周囲の状況、およびその変化に気づいておらず、またそんな自分にすら気づいていない。こんなところがマヌケ度を押し上げています。
特に人々が行きかう混雑した場所では、知らないうちに人の目の前に割り込んでしまったり、その結果ぶつかったりすると、そこで初めて顔を上げ、(逆に)周囲の人に非難の視線を向けたりして、マヌケ度は最高潮に達します。


 ◆

いったい、パーソナル・メディアというものは、視野だけではなく意識の狭窄(きょうさく)までも助長してしまうものだろうかと考えてしまいます。
皆が皆そうなのではないでしょうけれど、どうもここ最近、「その場の状況が意識にのぼっていない人」「居合わせている他人に配慮できない人」、つまり一社会人として未熟な人々が増えてきているような気がしてなりません。
そしてこれは若者に限ったことでなく、各世代で増えているような気がするのです。

何かの本で読んだのですが、以前の日本人と今の日本人の違いの一つに、公共の場で居合わせた他人との会話が圧倒的に少なくなっている、という話がありました。
まぁ、他人にやたらと(相手の様子を読み取れずに)話しかけるのもどうかと思いますが、乗り物や待合室などで隣り合わせて無難な会話があったり、店先で値段や商品についてちょっとした会話があったりというのは、ごく自然な社会のありように思うのですが、これが年配者以外ではほとんど見られないというのです。

ちょっと踏み込んで言えば、物理的に接近している他人同士において、「敵意はない」「あなたを不安にさせる私ではない」ということを伝えるための、動物的感覚に近いマナーである、との考え方もあるようです。縁もゆかりもない他人を安心させようとする心理が働いているなんて、お互いに安心して過ごそうとする日本人らしい感覚ともいえるかもしれません。無用なトラブルの防止にもなっているのかもしれません。

昨今はなんだか日本人が内向きに、内向きになってきている気がします。
思春期の子どもじゃあるまいし、いい大人が他人との距離感も測れず、ちょっとしたその場の会話もできないというのは、なんとも心理的な発達を遂げられていない幼さを感じてしまいます。


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話がそれましたが、マヌケに見えないスマホ術。ポイントはこんなところでしょうか。

  1. 端末と顔の間に一定の距離をとる。
    画面を他人に見られて困るなら、ほかのタイミングでやればよろしい。金を出して、のぞき見防止スクリーンを貼るもよし。ちなみに法的には、見えてしまった方に罪があるのだとか(なんじゃそりゃ)。
     
  2. 姿勢をよくする。
    背筋を伸ばしておくだけでかなり見た目は違ってくるもの。ダメ系サラリーマンでも、イイ系ビジネスマンに見えるかも。どんなにいい衣服や小物を身に着けていても、姿勢や振る舞いが悪けりゃ、ダメ系バレバレ。
     
  3. スマホ操作をサッと済ませ、しまう。
    パソコンでもスマホでも、情報端末を操作しながらものを考える人や、長時間操作している人にデキる人物はいない。ほんとうのエリートビジネスマンやアイディアマンは、有用な人物との生身の会話をする時間や、一人静かな思考の時間を大切にする。
    自分の中に物事を考える「軸」がなく、ただ与えられる情報に一喜一憂し、踊らされ、最終的にマヌケな消費行動に走ってしまう幼い自分から卒業しよう。
     
  4. 歩きスマホをしない。
    周囲に配慮できない未熟な自分をアピールしているのと同じ。つまり「私、大人になりきれてないコドモなんです」と言っているのと同じだ。月額料金が高いドコモ端末を使っててもコドモだ!

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