2008年11月27日、高知県鳥獣対策課井上某課長に対して質問状を提出しましたが
本日(12月5日)まで全く返答が有りませんので無力ですが戦います。
これから何回かに分けて何故「高知県鳥獣対策課井上某」が無知で愚かを証明します。
別途に改めて本日郵送(配達証明)で質問状を発送します。
今回から何故私が私の所有林を植林で無く広葉樹にしているのか・・の事情を説明します。
村田式猟銃と「南無八幡大菩薩の銃弾」(1)
この話は私が子供のころ(50年程前)父から聞いた話です。
私の父の父、つまり私の祖父の話です。
祖父は村田式銃という猟銃で森に入り狩猟をしていたそうです。その頃はまだ森に沢山の魔物が住んでいた時代です。人の手の入らない森には精霊の宿った樹木や何百年も生きた獣も住んでいたそうです。
当時の猟師は自分の全霊を注ぎ鉛の弾を一つだけ作り、その弾に「南無八幡大菩薩」と彫り、狩猟に行く時は肌身離さず持ち歩き自分の守り神としたそうです。
深山に一人で入り生活の糧として止むに止まれず鳥獣を捕獲していた時代です。
決して無用な殺生はしてはいけないという不文律が有りました。
山には夜間に殆ど一人で入り狩猟をしていました。もちろん懐中電灯も無く、明かりと言えば田舎では松(タイマツ)か獣油の火位だったそうです。
出かけには全く穏やかだったが、山に入り深夜になると突然山全体が揺らぎだし耐えがたい地鳴りがし、身が震え上がるような叫び声を聞いたり、幾千もの獣の眼光に取り囲まれたりと、山では度々想像を絶する不思議な現象に遭遇したそうです。
一匹でも多くの獲物を持ち帰らないと飢えてしまう家族が家で待っている、と恐ろしい思いを必死にこらえ夜通し猟をしたと言います。
私の祖父は当時数少ない鉄砲(村田式銃)を持ち度々深山に分け入り狩猟で糧を得ていたそうです。父が子供の時の「ある時点」まではよく祖父の取ってきた鳥獣の肉が食卓に並んだそうです。
つづく
本日(12月5日)まで全く返答が有りませんので無力ですが戦います。
これから何回かに分けて何故「高知県鳥獣対策課井上某」が無知で愚かを証明します。
別途に改めて本日郵送(配達証明)で質問状を発送します。
今回から何故私が私の所有林を植林で無く広葉樹にしているのか・・の事情を説明します。
村田式猟銃と「南無八幡大菩薩の銃弾」(1)
この話は私が子供のころ(50年程前)父から聞いた話です。
私の父の父、つまり私の祖父の話です。
祖父は村田式銃という猟銃で森に入り狩猟をしていたそうです。その頃はまだ森に沢山の魔物が住んでいた時代です。人の手の入らない森には精霊の宿った樹木や何百年も生きた獣も住んでいたそうです。
当時の猟師は自分の全霊を注ぎ鉛の弾を一つだけ作り、その弾に「南無八幡大菩薩」と彫り、狩猟に行く時は肌身離さず持ち歩き自分の守り神としたそうです。
深山に一人で入り生活の糧として止むに止まれず鳥獣を捕獲していた時代です。
決して無用な殺生はしてはいけないという不文律が有りました。
山には夜間に殆ど一人で入り狩猟をしていました。もちろん懐中電灯も無く、明かりと言えば田舎では松(タイマツ)か獣油の火位だったそうです。
出かけには全く穏やかだったが、山に入り深夜になると突然山全体が揺らぎだし耐えがたい地鳴りがし、身が震え上がるような叫び声を聞いたり、幾千もの獣の眼光に取り囲まれたりと、山では度々想像を絶する不思議な現象に遭遇したそうです。
一匹でも多くの獲物を持ち帰らないと飢えてしまう家族が家で待っている、と恐ろしい思いを必死にこらえ夜通し猟をしたと言います。
私の祖父は当時数少ない鉄砲(村田式銃)を持ち度々深山に分け入り狩猟で糧を得ていたそうです。父が子供の時の「ある時点」まではよく祖父の取ってきた鳥獣の肉が食卓に並んだそうです。
つづく
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