先に食事をとっていた二葉とはタイミングがずれた苗雅だったが、気づけば同じペースにまで追いついていた。
そうして共にパスタを口に運びながら進む、ことごとく曲のイメージを、同じ脳内スケッチにできる間柄という偶然の合席に、初対面という距離感はすでに雲散霧消していた。
ほぼ同時に食事を終える頃には、合席をすることになった時の、生来口数の少ない者同士という構えのようなものは、すっかり他人事だったかのような空気に包まれていた。
となれば、二葉の頭の中には聞いてみたいことが自然と溢れ出す。
日常使いの和装なのか
板についた丁寧な言葉遣いについて
ほとんど変わらないようにも、うんと離れた歳にも思える年齢について
学生にも見えるが、どうなのか
学生だとすれば、どこの学生なのか
すでに社会人なのか
そうだとすれば、何をやっている人なのか
同じ旅行者なのか
そうだとすれば、旅の目的は何なのか
ここにいるということは、自分と同じように法金剛院も旅程に入っているのか
それはもう、恋仲になったばかりの乙女のように、湯水のごとく溢れ出した。
それそれは好奇心の申し子のように、質問の泉と化していた。
すでにそれを許し合える共感さえ成立していることが暗黙の了解となっている、
という自信すら抱くことができそうな気がしていた。
それは一般には昼時の喫茶店では歓迎されない、まるっきり他のテーブルとは異なるテンポの空間だったのだが、店員にも周りの客たちにも、不思議なくらいに容認される異彩ぶりであった。
「申し遅れました。私は、白駒二葉といいます。この春から大学生になります」
何よりも先に自己紹介をしてくれたこと、疑いなく安心のできる偶然の出会いへの信頼、たくさんの話を聞いてみたい思いへの礼儀、それらが三位一体となって、無垢に自らを名乗った。
「二葉さん、ですね。そして、少し前までは高校生でいらしたのですね。落ち着いた物腰でいらっしゃるので、すでに大学生の方なのかと思っておりました」
「お褒めいただき、ありがとうございます。けれど、恥ずかしながら昨日まで高校生だったような、何も世の中のことを知らない未熟者です。それが証拠に、今回の旅はとても急な計画だったものですから、宿の手配はすべて父にしてもらったような始末なのです」
さすがに桜咲く春休みの京都旅行で、宿の手配を二日前にするというのは至難の業だ。
そういう時にはやはり旧家の威光、父親の人脈というものが大いに役に立つのである。
「わたくしの方こそ、この四月より大学の四年生となるのですが、まるで世の中の条理というものを何一つ理解できていない、言わずもがなの未熟者です」
「大学四年生だったのですか。同年代のように見えても、とても大人びて見えましたので一層親近感が湧きました」
「この装いと言葉遣いが、そうさせるのだろうと常々思っております」
「確かにそうですね。その両方が、いたって日常使いのものとすぐにも判断がつきますから。やはり、京都の方でいらっしゃるのですか?」
「いえ、東京からの旅行者です。しかしわたくし自身も、東京よりもこちらの方が、
この格好は馴染むと感じております」
「そうでしたか。東京の方だったのですね」
「はい。京都へは大学での研究対象の調査のためによく参るのですが、今回もその一環といったところです」
「そうだったのですか。観光ではなくフィールド調査のためのご来訪だったのですね」
「ほう、これから大学生になられるというのに、すでにフィールド調査などという言葉をご存知なのですね。しかし実のところ、正直なことを申せば、それほど大仰なものでもなく、単なる趣味の延長のようなものなのですけれども」
「もしも差し支えがなければ、何をご研究されているのか教えていただけませんか?」
と言ったところで、彼女は口をつぐんだ。
しかし、そのわずかな空気感の変化を苗雅は逃さなかった。
他の出会いとはまるで比較にならない、高密度の出会いであったとはいえ、いくらなんでも初対面で踏み込み過ぎていると思った彼女の心を掬う(すくう)ように、
躊躇なく答えた。
「西行という歌人を追いかけています」
「――西行」
あとの言葉が続かなかった。
――こんなことが、本当にあるのだろうか。何もかもが揃い過ぎたような出会いというものがあるのだろうか。
二葉は天文学的数値が乗法で膨らんでいくような目眩を感じた。
「『尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし 花と散りにし 君が行へを』という歌を西行は残しているのですが、その歌に所縁のある人物が眠っている場所が、駅の向こうにある法金剛院というところなのです。今回はそこから旅を始めようと思っておりまして、その前に腹ごしらえをしようと、このお店に立ち寄ったという次第なのです」
そう言って、きれいになった食器を少しずらしながら苗雅は彼女の方を見た。
すると、ほんの数分前とまったく同じ瞳でこちらを見ていることに気づき、その時と同じような心配りの言葉を重ねた。
「また、我田引水の偏執的なことをお話してしまいましたね。突然このような歌を諳んじられても困らせてしまうだけでしたね。相すみません」
「待賢門院璋子(たまこ)――」
もう、事ここに至っては、二葉には固有名詞を口にするのがぎりぎりなくらいの驚嘆だった。
「ご存知なのですか。これは瞠目(どうもく)いたしました」
「中学生の頃から和歌に興味を持ちまして、それから特に平安末期の歌を好んで詠むようになりました。その中でも、飾り気のない直覚的な心模様のあらわれた西行の歌に惹かれました」
それは嘘偽りのない事実だった。
しかしそれ以上に、詠誦することで耳に蘇る声と一昨夜の出来事が、今の彼女には西行を身近に感じさせる最強の要因だった。
でも、それらはあまりにもオカルト染みている気がして、反射的に伏せた。
「炯眼(けいがん)に感服いたしました。それほどの知識であれば、歌のみならず、
そこからあぶり出される出家説や彼の人生観、思想などについての持論もあるように拝察するのですが、もしよろしければ、どのような仮説をお持ちかお聞かせ願えないでしょうか」
「そのようなことを言われると、浅学の身にして恥ずかしいばかりですので、ただの小娘の戯言として聞いていただけると助かります」
そう言って一息吐いてから、二葉はこれまで誰にも話したことのない、独特の説を簡潔な言葉にしてみせた。
私は知っている
確固たる自信を持って、私には分かる
その歌人が語り継がれてきた本当の理由を
残された歌が、単に名歌だったからではないことを
歌人の命は、何よりも声だ
えも言われぬ、絶対的に魅了されてしまう声だ
西行が大歌人となった理由
西行が西行たる所以
それは、秀歌ということだけではない
それ以上に声が魅力的だったこと、人を虜にしてしまう絶世の声があったからこそ
(つづく)
そうして共にパスタを口に運びながら進む、ことごとく曲のイメージを、同じ脳内スケッチにできる間柄という偶然の合席に、初対面という距離感はすでに雲散霧消していた。
ほぼ同時に食事を終える頃には、合席をすることになった時の、生来口数の少ない者同士という構えのようなものは、すっかり他人事だったかのような空気に包まれていた。
となれば、二葉の頭の中には聞いてみたいことが自然と溢れ出す。
日常使いの和装なのか
板についた丁寧な言葉遣いについて
ほとんど変わらないようにも、うんと離れた歳にも思える年齢について
学生にも見えるが、どうなのか
学生だとすれば、どこの学生なのか
すでに社会人なのか
そうだとすれば、何をやっている人なのか
同じ旅行者なのか
そうだとすれば、旅の目的は何なのか
ここにいるということは、自分と同じように法金剛院も旅程に入っているのか
それはもう、恋仲になったばかりの乙女のように、湯水のごとく溢れ出した。
それそれは好奇心の申し子のように、質問の泉と化していた。
すでにそれを許し合える共感さえ成立していることが暗黙の了解となっている、
という自信すら抱くことができそうな気がしていた。
それは一般には昼時の喫茶店では歓迎されない、まるっきり他のテーブルとは異なるテンポの空間だったのだが、店員にも周りの客たちにも、不思議なくらいに容認される異彩ぶりであった。
「申し遅れました。私は、白駒二葉といいます。この春から大学生になります」
何よりも先に自己紹介をしてくれたこと、疑いなく安心のできる偶然の出会いへの信頼、たくさんの話を聞いてみたい思いへの礼儀、それらが三位一体となって、無垢に自らを名乗った。
「二葉さん、ですね。そして、少し前までは高校生でいらしたのですね。落ち着いた物腰でいらっしゃるので、すでに大学生の方なのかと思っておりました」
「お褒めいただき、ありがとうございます。けれど、恥ずかしながら昨日まで高校生だったような、何も世の中のことを知らない未熟者です。それが証拠に、今回の旅はとても急な計画だったものですから、宿の手配はすべて父にしてもらったような始末なのです」
さすがに桜咲く春休みの京都旅行で、宿の手配を二日前にするというのは至難の業だ。
そういう時にはやはり旧家の威光、父親の人脈というものが大いに役に立つのである。
「わたくしの方こそ、この四月より大学の四年生となるのですが、まるで世の中の条理というものを何一つ理解できていない、言わずもがなの未熟者です」
「大学四年生だったのですか。同年代のように見えても、とても大人びて見えましたので一層親近感が湧きました」
「この装いと言葉遣いが、そうさせるのだろうと常々思っております」
「確かにそうですね。その両方が、いたって日常使いのものとすぐにも判断がつきますから。やはり、京都の方でいらっしゃるのですか?」
「いえ、東京からの旅行者です。しかしわたくし自身も、東京よりもこちらの方が、
この格好は馴染むと感じております」
「そうでしたか。東京の方だったのですね」
「はい。京都へは大学での研究対象の調査のためによく参るのですが、今回もその一環といったところです」
「そうだったのですか。観光ではなくフィールド調査のためのご来訪だったのですね」
「ほう、これから大学生になられるというのに、すでにフィールド調査などという言葉をご存知なのですね。しかし実のところ、正直なことを申せば、それほど大仰なものでもなく、単なる趣味の延長のようなものなのですけれども」
「もしも差し支えがなければ、何をご研究されているのか教えていただけませんか?」
と言ったところで、彼女は口をつぐんだ。
しかし、そのわずかな空気感の変化を苗雅は逃さなかった。
他の出会いとはまるで比較にならない、高密度の出会いであったとはいえ、いくらなんでも初対面で踏み込み過ぎていると思った彼女の心を掬う(すくう)ように、
躊躇なく答えた。
「西行という歌人を追いかけています」
「――西行」
あとの言葉が続かなかった。
――こんなことが、本当にあるのだろうか。何もかもが揃い過ぎたような出会いというものがあるのだろうか。
二葉は天文学的数値が乗法で膨らんでいくような目眩を感じた。
「『尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし 花と散りにし 君が行へを』という歌を西行は残しているのですが、その歌に所縁のある人物が眠っている場所が、駅の向こうにある法金剛院というところなのです。今回はそこから旅を始めようと思っておりまして、その前に腹ごしらえをしようと、このお店に立ち寄ったという次第なのです」
そう言って、きれいになった食器を少しずらしながら苗雅は彼女の方を見た。
すると、ほんの数分前とまったく同じ瞳でこちらを見ていることに気づき、その時と同じような心配りの言葉を重ねた。
「また、我田引水の偏執的なことをお話してしまいましたね。突然このような歌を諳んじられても困らせてしまうだけでしたね。相すみません」
「待賢門院璋子(たまこ)――」
もう、事ここに至っては、二葉には固有名詞を口にするのがぎりぎりなくらいの驚嘆だった。
「ご存知なのですか。これは瞠目(どうもく)いたしました」
「中学生の頃から和歌に興味を持ちまして、それから特に平安末期の歌を好んで詠むようになりました。その中でも、飾り気のない直覚的な心模様のあらわれた西行の歌に惹かれました」
それは嘘偽りのない事実だった。
しかしそれ以上に、詠誦することで耳に蘇る声と一昨夜の出来事が、今の彼女には西行を身近に感じさせる最強の要因だった。
でも、それらはあまりにもオカルト染みている気がして、反射的に伏せた。
「炯眼(けいがん)に感服いたしました。それほどの知識であれば、歌のみならず、
そこからあぶり出される出家説や彼の人生観、思想などについての持論もあるように拝察するのですが、もしよろしければ、どのような仮説をお持ちかお聞かせ願えないでしょうか」
「そのようなことを言われると、浅学の身にして恥ずかしいばかりですので、ただの小娘の戯言として聞いていただけると助かります」
そう言って一息吐いてから、二葉はこれまで誰にも話したことのない、独特の説を簡潔な言葉にしてみせた。
私は知っている
確固たる自信を持って、私には分かる
その歌人が語り継がれてきた本当の理由を
残された歌が、単に名歌だったからではないことを
歌人の命は、何よりも声だ
えも言われぬ、絶対的に魅了されてしまう声だ
西行が大歌人となった理由
西行が西行たる所以
それは、秀歌ということだけではない
それ以上に声が魅力的だったこと、人を虜にしてしまう絶世の声があったからこそ
(つづく)