京都駅に着くと、売店で地図と時刻表を買い込んだ。
あてのない旅とはいえ、地図くらいはないといくら何でも不自由に思えたのだ。
朝のラッシュアワー前の駅というのは、どことなく寂しげな風景に映る。
まだまだ客もまばらなこともあるだろう。
行き交う人がまばらなものだから、一人ひとりの空間は広くなる。
そのことで、歩く速度や手足の振り方が、通常の七掛け程度の速度に見えるのかもしれない。
それがあと一時間もすれば、我先にと競うエネルギーの吹き溜まりのような風景に変わる。
それはそれで、別の淋しさを感じさせるものである。
そんな、未だ人影も薄い時間帯の寂寞を映し出している構内を、売店で買った缶コーヒーを飲みながら、広角レンズのような焦点で眺めていた。
「僕はもう、出勤しないんだよな」
特別な感慨や感傷が含まれていない棒切れのような言葉が口をついた。
広角な目線と棒状の言葉。
まったく目的がない者の状態である。
――お遍路さん。
とその時、白が鮮やかなお遍路装束の二人にフォーカスした。
――讃岐だ。四国を眺めに行こう。
斯くして、緩くて瞬間的な決断により、二日目の目的地が決まった。
『吉備岡山』
瀬戸内海越しの讃岐を最短距離で拝むには、岡山。
ということで、早速時刻表をめくりホームへと急いだ。
待ち構えていたように、出発に向けて室内準備がせっせと進められている列車が停まっている。
用意が整い扉が開くまでの時間で、今度は買ったばかりの地図を広げてみる。
途端、社会人として働いていた数日前までの仕事脳が、あの限りなく嘘っぽい、人工的な回転に支配された仕事脳が戻ってきたかのように、おあつらえ向きの海岸を摘出した。
特急で岡山に向かう間、本日の目的地となりそうな駅と、そこまでの乗り継ぎを確認した。
驚いたことにそこは、人生で最も見慣れた名を持つ『宇野』なる駅だった。
まるで行ったことも、その存在を知ることもなかった、なんとも所縁のありそうな駅である。
――やっぱり、何かのお導きかな。
そんな独り言でも呟こうかと思うくらいに、見えざる何かがつながっていくような気もしていた。
岡山駅で乗り換えた宇野駅へ向かう列車からは、流れる桜が満開となっていて、桜前線を南下してきたことが実感できた。
春休みということもあり、観光客で少しは混雑しているものかと構えていたのだが、
二人がけのシートが向かい合うボックス席で構成された車輌には、存外空席が目立っていた。
家族づれや老夫婦、若者カップルといった複数で成立した乗客は、何の遠慮もなく一島のボックスを占領していたが、桐詠のような単独での乗客は、皆一様に少し気が引ける思いで、一島に身を置いているように見えた。
たった一人で四人がけの空間を占有する贅沢に、若干の後ろめたさを感じるのは事実なのだが、かといってそこに見知らぬ誰かが合席でもして来ようものなら、まるで私有地にでも踏み入られたかのごとき嫌悪感が芽生えることは、容易に想像ができた。
いい大人になっても、こんな良識と我利のせめぎ合う醜さを実感して、苦笑いをしながら天井を仰いだ。
視線の先には、読み捨てられた週刊誌が、無造作に網棚に放置されていた。
背景が黒なのか赤なのかはっきりしない悪趣味な配色の表紙のそれは、何も乗せられていない網棚の中央で、無駄な存在感を放っていた。
車窓から流れる春の日差しに覆われた風景を感じていれば、どうやったってそんな毒々しい雑誌に誘惑されることはない。
きっと春の日差しも桜の絨毯も、この界隈のものはくまなく見慣れたものとなってしまった人の暇つぶしとして、重用されたのだろう。
――桜。
そういえば、学生時代に桜の生態について学んだがことがあったことを思い出した。
桜といえば、ソメイヨシノ。
その下で所狭しとお花見、宴会。
春先に短い命をほころばせ潔く散りゆく桜吹雪は、もののあはれの代表格。
そんな皮相的なイメージに浸されていた桜も、かなり多様的な植物だったことをその講義で知った。
春先に限らず、桜はほぼ一年中日本のどこかで咲いていて、シキザクラと呼ばれる十月桜なるものもあり、春ではなく秋に咲くとのことだった。
そして日本の南端ともなれば、本州ではまだ暫くは新芽の息吹など感じることもできない寒さの厳しい時期に、すでに花をつける寒緋桜(かんひざくら)という種が存在するらしい。
ちなみに、桜といえばこれ、とほとんど無条件に全国民の見解を統一できそうな、
日本の桜の代名詞ソメイヨシノとは、もともとは存在しなかった品種で、エドヒガン桜とオオシマ桜の交配種だと聞いて驚いたことを覚えている。
しかもこの桜という種は、いわゆる両性花であるにもかかわらず、同じ木での雌雄による受粉では実ることのない、自家不和合性の植物とのことだった。
なかには樹齢千年を越すような木もある一方で、ほとんどの桜の寿命はそれほど長くなく、ソメイヨシノにいたっては数十年という短命なのだそうだ。
そうして、自家不和合性、比較的短命という宿命をもつ桜は、接ぎ木という文字通り二つ以上の植物体を接着させることで新たな命をつないでいくという手段によって、古来より受け継がれてきたとのことだった。
そういうこともあって、ソメイヨシノのようなクローン桜が国土中に拡散した、
というようなことを言っていた気がする。
京都を出発してから四時間余り。
本日の終着駅、どこか縁のありそうな宇野駅は、もう次というところに迫っていた。
(つづく)
あてのない旅とはいえ、地図くらいはないといくら何でも不自由に思えたのだ。
朝のラッシュアワー前の駅というのは、どことなく寂しげな風景に映る。
まだまだ客もまばらなこともあるだろう。
行き交う人がまばらなものだから、一人ひとりの空間は広くなる。
そのことで、歩く速度や手足の振り方が、通常の七掛け程度の速度に見えるのかもしれない。
それがあと一時間もすれば、我先にと競うエネルギーの吹き溜まりのような風景に変わる。
それはそれで、別の淋しさを感じさせるものである。
そんな、未だ人影も薄い時間帯の寂寞を映し出している構内を、売店で買った缶コーヒーを飲みながら、広角レンズのような焦点で眺めていた。
「僕はもう、出勤しないんだよな」
特別な感慨や感傷が含まれていない棒切れのような言葉が口をついた。
広角な目線と棒状の言葉。
まったく目的がない者の状態である。
――お遍路さん。
とその時、白が鮮やかなお遍路装束の二人にフォーカスした。
――讃岐だ。四国を眺めに行こう。
斯くして、緩くて瞬間的な決断により、二日目の目的地が決まった。
『吉備岡山』
瀬戸内海越しの讃岐を最短距離で拝むには、岡山。
ということで、早速時刻表をめくりホームへと急いだ。
待ち構えていたように、出発に向けて室内準備がせっせと進められている列車が停まっている。
用意が整い扉が開くまでの時間で、今度は買ったばかりの地図を広げてみる。
途端、社会人として働いていた数日前までの仕事脳が、あの限りなく嘘っぽい、人工的な回転に支配された仕事脳が戻ってきたかのように、おあつらえ向きの海岸を摘出した。
特急で岡山に向かう間、本日の目的地となりそうな駅と、そこまでの乗り継ぎを確認した。
驚いたことにそこは、人生で最も見慣れた名を持つ『宇野』なる駅だった。
まるで行ったことも、その存在を知ることもなかった、なんとも所縁のありそうな駅である。
――やっぱり、何かのお導きかな。
そんな独り言でも呟こうかと思うくらいに、見えざる何かがつながっていくような気もしていた。
岡山駅で乗り換えた宇野駅へ向かう列車からは、流れる桜が満開となっていて、桜前線を南下してきたことが実感できた。
春休みということもあり、観光客で少しは混雑しているものかと構えていたのだが、
二人がけのシートが向かい合うボックス席で構成された車輌には、存外空席が目立っていた。
家族づれや老夫婦、若者カップルといった複数で成立した乗客は、何の遠慮もなく一島のボックスを占領していたが、桐詠のような単独での乗客は、皆一様に少し気が引ける思いで、一島に身を置いているように見えた。
たった一人で四人がけの空間を占有する贅沢に、若干の後ろめたさを感じるのは事実なのだが、かといってそこに見知らぬ誰かが合席でもして来ようものなら、まるで私有地にでも踏み入られたかのごとき嫌悪感が芽生えることは、容易に想像ができた。
いい大人になっても、こんな良識と我利のせめぎ合う醜さを実感して、苦笑いをしながら天井を仰いだ。
視線の先には、読み捨てられた週刊誌が、無造作に網棚に放置されていた。
背景が黒なのか赤なのかはっきりしない悪趣味な配色の表紙のそれは、何も乗せられていない網棚の中央で、無駄な存在感を放っていた。
車窓から流れる春の日差しに覆われた風景を感じていれば、どうやったってそんな毒々しい雑誌に誘惑されることはない。
きっと春の日差しも桜の絨毯も、この界隈のものはくまなく見慣れたものとなってしまった人の暇つぶしとして、重用されたのだろう。
――桜。
そういえば、学生時代に桜の生態について学んだがことがあったことを思い出した。
桜といえば、ソメイヨシノ。
その下で所狭しとお花見、宴会。
春先に短い命をほころばせ潔く散りゆく桜吹雪は、もののあはれの代表格。
そんな皮相的なイメージに浸されていた桜も、かなり多様的な植物だったことをその講義で知った。
春先に限らず、桜はほぼ一年中日本のどこかで咲いていて、シキザクラと呼ばれる十月桜なるものもあり、春ではなく秋に咲くとのことだった。
そして日本の南端ともなれば、本州ではまだ暫くは新芽の息吹など感じることもできない寒さの厳しい時期に、すでに花をつける寒緋桜(かんひざくら)という種が存在するらしい。
ちなみに、桜といえばこれ、とほとんど無条件に全国民の見解を統一できそうな、
日本の桜の代名詞ソメイヨシノとは、もともとは存在しなかった品種で、エドヒガン桜とオオシマ桜の交配種だと聞いて驚いたことを覚えている。
しかもこの桜という種は、いわゆる両性花であるにもかかわらず、同じ木での雌雄による受粉では実ることのない、自家不和合性の植物とのことだった。
なかには樹齢千年を越すような木もある一方で、ほとんどの桜の寿命はそれほど長くなく、ソメイヨシノにいたっては数十年という短命なのだそうだ。
そうして、自家不和合性、比較的短命という宿命をもつ桜は、接ぎ木という文字通り二つ以上の植物体を接着させることで新たな命をつないでいくという手段によって、古来より受け継がれてきたとのことだった。
そういうこともあって、ソメイヨシノのようなクローン桜が国土中に拡散した、
というようなことを言っていた気がする。
京都を出発してから四時間余り。
本日の終着駅、どこか縁のありそうな宇野駅は、もう次というところに迫っていた。
(つづく)