はな to つき

花鳥風月

桜の下にて、面影を(24)

2019-09-23 22:28:32 | 【桜の下にて、面影を】
そんな、幕開けから再会サプライズが待っていた二葉の大学生活は、見事に順風満帆で船出した。
そして、入学式ウィークが終息して、大学が普段のペースを取り戻す頃には、すでに学内ベストカップルと称される二人になっていた。
すべてにおいて効率重視の苗雅は、最終学年を迎えるにあたり、すでに卒業に必要な単位のほとんどを修得し、残すはゼミの二単位と卒業論文だけという状態だった。
四年生に進級するのを待たず、卒論の執筆にも取り掛かっていたので、そちらもいたって順調そのものだった。
それにくわえて、就職活動なぞ我関せずといった彼の学生生活は、とにかく優雅の一言に尽きた。
一方の二葉は、入学直前に天命のごとく研究対象が舞い降りて来たことで、脇目も振らずまっしぐらに九百年前の歌人を追い始めていた。
生まれついての本好き少女には、これまで誰の何の心配もなく優秀な成績を収めてきた実績があることで、ここでもそつなくこなすことは、衆目一致するところだった。
とはいえ一年生の時間割は、大学生活の中でもっとも空きが無くなるのが定石ということもあり、週に一度のゼミ通いという、初手の打たれたばかりの碁盤のような苗雅のスケジュールが、冗談のように羨ましかった。
それでも、講義と講義の合間も、講義が引けた夕方も、いつでも苗雅のいる研究会へと足を運んだ。
和歌のみならず古代文学から現代文学まで、おそろしく造詣の深かった彼のいる場所は、彼女にとっては、さながらもう一つの大学のようであった。
そんな彼に、実証不可能な西行研究の進捗を話す時間が、二葉にとっては至福の時でもあり、二人の間に流れる感覚の一致は、すべての会話に彩りを与えてくれるようで、日常会話さえ楽しかった。
疑いようもない引力に導かれているような時間。
それまでに経験したことのない、光速で過ぎていく日々が流れていた。
まだ気づくことのない、ほんの少しの違和感も同居しながら。
「苗雅さん――」
西行研究会秘密のアジトに向かう途中、二葉は突然立ち止まった。
「はい、いかが致しましたか?」
一拍置いて苗雅は足を止め、前を見据えていた顔を糸を引くような滑らかな動きで、
二葉の方へずらして言った。
「聞いていただきたいお話があるのです」
清水の舞台から飛び降りんばかりの面持ちで、意を決したように彼女は切り出す。
「それでは、どこか落ち着いてお話ができるところにでも掛けますか。それとも、このまま歩きながらの方がよろしいですか?」
「このまま歩きながらの方が良さそうです」
どこまでも気の利く性質だなと感心しつつ、どうしてか変に落ち着いた環境になるよりも、このままの方がうまく話せそうな気がして答えた。
「そうですか。それでは、このまま歩くことに致しましょう。要点をまとめようなどとはせずに、思いつくままにお話ください。あらたまった話をする時には、大概その方がうまく話せたりするものです」
「ありがとうございます。そう言っていただけると気が楽になります」
あたかも二葉がこれから言い出そうとしていることを、すべて見通しているような先制打に思えた。
と同時に、そうであるならば余計な気を回さずに、素直に言葉にしてしまおうと心も決まった。
「では、二葉さんのタイミングで始めてくださって結構ですので」
お膳立ては揃った。
完全に彼女のターンだ。
しかしこれだけ完璧な準備を施してもらうと、かえって何から話して良いものかと詰まってしまったりする。
本当に人間というものは面倒な生き物だな、などといっそ関係のないことに考えを逸らしてみたら、存外するっと最初のキーワードが吐き出された。
「声が聞こえてくるのです」
とはいえあまりにも突飛な冒頭に、論理の飛躍どころではない、物事の段取りさえ無視した暴挙に、二葉は自分で苦笑した。
「西行の声、ですか?」
「えっ。どうしてそれが?」
苗雅のあまりの察しの良さに、どれだけ話を端折っても、すぐに理解してくれる超能力かと思えた。
「隠し立てしても仕方ないので正直に申しますと、初めてお会いした喫茶店でも、
あなたが同じことを口にしようとしていた気がしたのです。声が聞こえるということを」
「すごい。読心術みたい」
超能力なのか鍛えられた技術なのかは、この際問題ではない。
とにかく、それらを平然とやってのける苗雅に、話すことも忘れて魅入ってしまいそうになる。
「大袈裟ですね、二葉さんは。でも、ということは、わたくしの洞察は正しかったということですね?」
そう言って、脇道に逸れそうだった展開を、何事もなかったかのように軌道に戻した。
「はい。確かにあの時も、この話を聞いていただきたいと思っていました。けれど、お会いしたばかりの人間が、突然そのような話を始めたら、さぞかし気味悪く映ってしまうと思って自重したのです。でも、どうしてそれがお分かりになったのでしょう」
「わたくしが、一度だけ西行の声が聞こえたような気がした、というようなことを申し上げた時のあなたの表情が、そのように見えたのです」
「そうでしたか。まったくその通りで、苗雅さんが声を聞いたことがあると教えてくれた時、驚いたのと同時に、私も同じ経験をしたことがある、と喉元まで出かかっていました」
同志を見つけたと跳ね上がらんばかりの嬉しさを覚えた、その時のことを思い出しながら言った。
「やはりそうでしたか。それで今日、漸く告白をしてくださったのですね」
「はい。告白、しました」
「とても勇気のいる告白だったことでしょうね」
「ええ、とても時間がかかってしまいました」
旅先で出会い、その後すぐに大学で再会してから、ほとんど毎日のように顔を合わせていたにもかかわらず、その勇気が持てずに今日まで来てしまったのである。
「大切なのは、今日それが打ち破れたことだと思います。勇気が持てたことだと思います。そして、もう何も怖がることはないということです。なぜならわたくしは、
そのことを疑念なく受け入れていますから。オカルトなどとは思いませんから」
「よかった。自分自身でも、信じるに値する根拠のない不確かなものでしたから、
初めて肯定してもらえたようでとても安心します」
「ええ、どうぞ安心なさってください。そう致しますと、西行の声が聞こえるということと、それをわたくしに打ち明けることとは、どのようなつながりになりますか?」
段取りを考えさせずに自由に切り出させておいて、その後は知らぬうちに会話をリードしてくれる苗雅に、彼女はそのまま委ねた。

 和歌に親しむようになってから、平安末期の歌人に限って声が聞こえること。
 その中でも西行の声が、際立って耳に馴染むこと。
 そしてたった一つだけ、どうしても声が響かない歌があること。

まるで大好きな映画のストーリーでも話すかのようにすらすらと口にした。
苗雅は変わらずにまっすぐ前を見つめながら歩き続けている。
時折小さく頷きながら。  
あまりに普通の日常会話をしているような流れのまま、彼女は白桜の下での出来事も続けざまに話していた。
その時の後ろ姿と声が苗雅のものだったことも、その二日後に苗雅に出会ったことも。
それまで封印してきたものを、一遍に開放してしまったことへの後悔に気づくのは、
大抵その直後と相場が決まっている。
御多分に洩れず、二葉も激しい後悔に襲われた。
さすがに見えるはずのないものを見たとか、それがあなただったとか、仮に話すにしても、言い方やタイミングというものがある。
そんな遅すぎる後悔と反省の目で彼の横顔を見上げると、苗雅は囁くように、その夜二葉が耳にした一首を口にした。
二つ、驚いた。
一つは、二葉の心配をよそに何の疑問も持たずに話を聞いていたこと。
もう一つは、そのたった一つの歌を一発で見抜いたこと。
そしてそれは、二葉の確信に変わる根拠となった。
「どうして、その歌だと分かったのですか?」
「それならば簡単なことです。あなたはあの時、西行の西行たる所以が、秀歌というだけではなく、それを詠んだ声だと仰いました。そして出家説の一つとして、恋愛説の立場を取っていることもお話くださいました。さらに、そのお相手の君は待賢門院ではないかと。根拠はないが絶対的な自信があると。そして最後に、この一首が待賢門院に捧げられた歌だということも分かると仰いました。それでこの歌は、あなたにとってとても大切なものなのだと思えたのです」
まるで昨日のことのように鮮明に苗雅の記憶が語られた。
「そうか――そうでしたね。まさしくそのことをお話した際に、自分自身でその歌を諳んじたことを思い出しました。確かにその話の展開をたどれば、私にとって大切な一首がそれになるということは、推測可能かもしれませんね」
とはいえ卓見であることに間違いはない。
そして、さらなる卓見は止まることを知らない。
「そうすると、今まで聞くことのできなかった唯一の歌と、わたくしと思しき後ろ姿の男性に関係がある話、ということになるのでしょうか?」
「はい」
もう二葉には、驚きの色さえ見えない。
非日常のことを受け入れる柔軟性と、散乱した物事を一直線に結ぶ合理性、ただただ一級品である。
「わたくしが、それを詠ったということなのですね?」
「はい」
一歩間違えれば、というか話す相手を間違えれば、完全にストーカーと思われてもおかしくないような妄想話にも成り得る。
「それはこういうことでしょうか?西行の声では聞こえない歌も、西行以外の声であれば聞こえる。とすると逆説的に、西行の声でその歌だけが聞こえない理由が存在する、という仮説立てをしたということでしょうか?」
彼女は静かに頷く。
「なるほど、筋は通っていますね」
そう言うと、彼はそのまま言葉を止めた。
「あらま、起こしちゃったか。二葉ちゃん、カフェラテ、おかわり持って来るかい?」
西行研究会のアジトと称される珈琲店のいつもの席で、苗雅の来るのを待ちわびた二葉は、いつの間にか夢の中へと迷い込んでいた。
「あ、梅雀さん。すみません、うたた寝していました」
「いいの、いいの。学生というのは、いつだって眠たい生き物だから」
ふくよかで、ほんのりピンクががったつやつやした頬。
まるで七福神の中に紛れ込んでいそうなマスターが、いつもの笑顔で気遣った。
「ありがとうございます。それにしても、どのくらい寝てたのかな」
ずいぶん長く眠っていた気もするが、腕時計を見るとほんの十分も経っていない。妙にクリアな夢だったことで、時間の感覚がおかしくなったようだ。
「そろそろ、殿も二寂さんたちも来る頃だろうから、おかわりはその時にするかい?」
「はい。よろしければ、そうさせていただけますか?」
「了解」
そう言って、空になったカップだけを持って、丸い背中はカウンターへと戻って行った。
「――夢で、よかった」
少し脚色されていた夢に、後悔が先に立ってよかったと心底思った。
それから、お冷の入ったグラスだけが乗るテーブルに『ふたばノート』を広げ、忘れないうちに今見た夢の逐語録のようなメモを残した。
最後には筆圧を上げた文字で、『決して口にしないこと』と結んでひっそりと閉じた。
マスターの予想通り、苗雅たち一行はそれから間も無くやって来た。

(つづく)