健太郎は、この地を離れてから久振りに降り立った奥羽の駅は、駅舎も新しく装い、正面の通りも広くなり町並みに新しいビルが整然と建ち並び、雪国特有の重苦しい雰囲気から脱皮して、都会的な明るさが感じられた。
合併で市や街の名前が変更され、なにか心の片隅に寂しさもよぎったが、それよりも、駅のホームに健太郎の大好きな明るいメロデイーである「青い山脈」が流されていた。
街の片隅の建物や路地裏に目をやると昔の面影が残っており、それらが郷愁を甦らせて懐かしさがこみ上げてきた。
節子さんの妹さん夫婦が迎えに来てくれた車に乗り、少しゆっくりと走って貰い、説明をうけながら街並みを感慨をこめて見ながら家路に向かった。
越後同様に雪解けが遅いが、ここ奥羽の街も山の懐に抱かれ地形的や季節的にも似ており、遅れて訪れた春も短く、郊外の田圃の早苗が揃った頃には早くも初夏の香りが随所に漂ってていた。
幸い好天に恵まれ、空が真っ青に晴れわたっており、暖かい微風が野や山そして街にも心地よく吹きめぐり、促されたかのように林檎や桃などが淡白な色の花を咲かせて清楚な趣を感じさせくれ、健太郎が若き日に感じた郷愁を一層強く想い起こさせてくれた。
若き日に勤めていた学校の裏山の林檎園も見ごろで、校舎裏にそびえて立つ欅の大木も悠然と昔日の姿を残し、新しい芽吹きで新緑が鮮やかである。
山の麓から西側に緩やかに続くその地帯は丘陵となっており、昼休み時間などに生徒と欅の葉陰で日差しを避けて雑草の上に寝転んで戯れた日を懐かしく思い出した。
欅の大木を見て思い起こしたが、新任教師として勤めていた頃。
昼休みに熊笹を掻き分けて辿り着いた青草の広場で、普段は乱暴気味の男子生徒が、このときばかりは女生徒の指図におとなしく従い、持ち寄りの野菜や肉を不器用に調理して作った即席鍋をおかずに弁当を食べ、教室では得られない、生徒達の無邪気な会話に混じって大笑いしたこと。更には、健康美そのものの素足を惜しげもなく野原に投げ出して昼寝やお喋りする女学生の様子など、現代の高校生には見られない素朴で純真な学園生活が脳裏をかすめた。
当時、高校3年生であった節子さんは、その中にいたかどうかは思い出せないのが残念だった。
街並みを外れて、田と畑の中に周囲を防風の杉木立に囲まれヒバの垣をめぐらした広い一劃が節子さんの家で、母屋と白壁の土蔵がただずむ姿は昔日のままである。
家の前の道路が舗装されている以外に、往時、下宿していたころの面影をそのまま残しており、家の中は改装されていたが、間取りは変わりなく、床柱と梁の欅の赤茶けた重量感のあるその造りは往時のままで心から懐かしさが甦った。
用意された茶の間の囲炉裏には、炭火が赤々とたかれ、吊るされた鉄瓶からは湯気を吹いて部屋の雰囲気を温めていた。 広い囲炉裏の片隅にすえられた銅壷には、お銚子が並び燗のついた酒と串刺しのイワナの焼ける香ばしい香りが部屋に漂っていた。
健太郎は、節子さんの母親や妹夫婦の気配りに、改めて親しい気遣いを察し、昔日の懐かしい思い出に感傷的に若き日の自分を回顧した。
家族一同の心の篭ったもてなしで早目の宴を、思い出話しを織り交ぜて楽しく御馳走になった後、母親が、陽もまだ明るいようだし、お風呂の支度が整うまでの間、近所に散歩に行ってくれば。と、薦めてくれたので、節子さんと鎮守のお宮様に出かけた。
入り口の脇に、お稲荷さんを祭った小さな祠があり、健太郎は節子さんに従い杉林に囲まれた石畳を踏みしめて境内に入って行った。お稲荷様の入口前には一対のキツネに似た石像が夕日を浴びていた。
節子さんも、今晩は何時も以上に機嫌が良く、狛犬に向かい
「キツネさん、今晩わ~。お久しぶりねぇ。今日は私達の邪魔をしないでね~」
「あなたのお陰で、私達、今度夫婦になるのょ。あなたも、祝福してネ」
と囁いて、晩春の夕暮れとはいえ冷たい石像のキツネの頭をなでていた。
石畳に残した自分達の足音も途絶えると、境内は一層静寂の杉の森に囲まれ、神秘的な世界に入って来た様な気分を誘った。
彼女は、スプリングコートからハンカチーフを2枚取り出すと縁台に並べて敷いて、その上に健太郎と並んで座った。
健太郎は、樹齢を重ねた見事な杉木立に目を奪われ紫煙をくゆらせていたところ、節子さんが夕餉の歓談から連想して、遠い昔の出来事を思い出したかのように、誰に言うともなく呟くように
「健さんが、転勤するとゆう前の晩も、名残り雪が残っていたこの場所で、お別れの言葉を交わしたわね。 覚えているかしら。 帰宅したその夜、わたし、早々と床に入って、訳もわからずに泣けてしかたなったわ」
「その晩、お宮様で健さんと二人で逢って、どうして転勤なんかするの?。と、訳も判らずに聞いたわね」
「まだ、高校を卒業したばかりで社会のことなどわからず、3年も一諸に過ごして家族同様にと思っていたのに、急にわたしの前から去るなんて、わたしには理解できず、ただ、健さんのオーバーのボタンを弄り回しながら、降っては消える春の糊雪の様に、心の中で思ってはすぐ消えるモヤモヤとした思いを、上手にお話すことができず、無性に寂しい思いをしたゎ」
と話しだし、続けて
健太郎が家を後にしたあと、暫くの間、父親は口数がすくなくなり、母は情けなさそうな顔をして、お前が意気地がないからだ。と、愚痴を零し、見かねた妹の悦子は自分に代わって先生にラブレターを手紙を出してやろうか。と、詰め寄り、家の中の雰囲気が急に冷え込んでしまった。と、当時の家の中の模様を小さい声で話し、更に
わたしは、後日、これが恋なのか。と、自分なりに生まれて初めて知ったことを、しみじみと懐かしそうに話し終えると、健太郎の膝に手を当てて
「あのとき、囲炉裏を囲んで、健在だった父と晩酌を酌み交わす健さんの笑い声が、とても明るく廊下に漏れて聞こえ、母の用意したお刺身を運ぶとき、わたしったら、幸せだわ。と思いつつも、何故か涙が目ににじみ、その様子を母に見られ恥ずかしさから、慌てて横を向いてしまったが、そのときの母の微笑が今でも胸にしみてるわ」
と、感慨深く語りだし「そう、そうだったのか」と、深く息を吸い込みながら返事する健太郎に、彼女は少し声に力を込め
「健さんったら、毎日生徒を相手にしていたのに、案外、女心を理解出来ない人なんだから・・」
と言って、健太郎の太ももを軽くつねり苦笑した。
黙って聞いていた健太郎に対し、更に
「その当時の、わたしの気持ち、今では少しは理解して頂けるかしら。どうなの・・」
と返答を迫ったので、健太郎は余り話したくない事を聞かれて返答に窮しながらも、その頃の想い出を語り始めた。
彼は、節子さんの話を頼りに記憶を辿りながら
「う~ん、また、なんでそんな遠い昔のことを聞くの」
「人生は正に”諸行無常”で、一口で話なんか出来ないなぁ」
「確かにあの頃、春の田圃の耕しや秋の稲刈り等、休日に君の父親の手伝いをして、田の畦で君達家族と一緒に輪を作って昼食をとり、力仕事をした後のお昼のお握りの美味しかったことを今でもよく覚えているなぁ」
「その頃、父親の普段の話しぶりから、なんとなく君と僕が結ばれることを望んでいるのかなぁ。と、僕なりに薄々感じたことが度々あったわ」
「けれども、当時は社会の価値観が今とは違い、教師と教え子とゆう垣根は厳然と仕切られていた時代であり、それに、君と僕はまだ若過ぎたし、君も僕も家の跡継ぎと言う宿命を背負っていたこと等、お互いに種々問題が大きく被さっていたので、若い僕の力ではどうにも答えを見つけだせなかった。と、ゆう以外、説明のしようがないわ」
と答えた後、その後の人生について、転勤先の同じ高校で音楽を担当していた律子(亡妻)と見合い結婚したが、3年後に父を看取ったあと、結婚生活8年目に律子が子宮癌であっけなくこの世を去り、それを追い駆ける様に今度は自分が結腸癌を患らい、幸いにも奇跡的に回復したが、その後は、先祖伝来の家・屋敷のことより自分の健康を第一に考えて、時折、秋子さんの世話になりながらも一人で慎ましく過ごして来たことを簡単に話た。
節子さんは、すでに秋子さんから詳しいことを聞かされていたとみえ、頷くだけで深く聞くこともなく、自分のこれまでの辛かった思いと重ねて静かに聴いていた。
健太郎は話終えると、彼女を抱き寄せキスをしたところ、彼女は、それまでの思いを全て拭い去るかの様に、彼の背中に廻した指先に力を込めて抱きつき、熱い唇を何時までも離そうとしなかった。
緩やかに傾斜して街に連なる棚田の稲も生育して、緑のそよ風を丘から街へと爽やかに吹き抜けてゆく。
雪解け水で増量した小川の流れも勢いがよく、それが川淵の残雪を削り落とし川面に光を反射させて、名も知らぬ草の緑を一層輝かせている。
毎朝、散歩の時に見る堰堤の桜並木もすっかり葉桜となり、川淵の猫柳も芽を膨らませ、日ごとに初夏の香りを漂わせている。
理恵子も、高校1年生として元気に通学しているが、慣れぬ学園生活に戸惑っているようだ。 それでも本人はもとより母親の秋子さんも、やれやれといった安堵感で一息つき、健太郎も彼女の愛くるしい笑顔を見ると、わが子のようで祝福せずにはいられない気持ちになる。
秋子さんが、実家と里帰りしている節子さんに根回しして、自分の体調を考慮し、この暖かいときに予定より少し早いが帰郷したいと連絡したとみえ、実家の人達もそれが良いと賛成してくれたので、明日、列車を利用して三人で行きましょうよ。と、健太郎を誘いに来た。 理恵子もその気になり早々と支度を整えていた。
彼も、若いとき勤務した土地が懐かしく思い出され、秋子さんの意見に即座に賛成して旅立つことにした。
最も、節子さんから電話の度に母親も逢うのを楽しみしているので是非一緒に来て欲しいと言はれていた。
翌朝、店の美容師が運転する車で秋子さんと理恵子が迎えに来た。 理恵ちゃんが玄関先で弾むような明るい声で
「おじちゃん おはよう~。ちゃんと支度できたかね~」
と少しませた、母親の何時もの口癖をまねて呼びかけ、健太郎を見るや「OK! OK!」と指先を丸くして笑い、皆が駅まで送ってもらった。
理恵ちゃんは、お土産を入れているらしい膨らんだリュックを背負い手にはボストンバックを提げていたが、きっと母親の体力を気ずかつてのことだろう。と、その優しい思いやりのある心ずかいが、高校生となって一段と成長したようで、微笑ましく見えた。
山形に向かうローカル線は、いまや全国でも珍しくなった旧国鉄時代の気動車を使用しており、近く新車に入れ替えるらしいが、写真マニヤの間でも人気者の気動車で、単線ではあるが、この時期、通学通勤客を乗せる以外余り利用がなく座席がすいていて楽々と足を伸ばすことが出来て彼等には良かった。
山合いの平野部を、二両連結で60k位のスピードで未だに残る残雪を雪煙をあげて進み、小さく固まっている村々や黒々と茂る杉林を後に残し、やがて峡谷沿いに飯豊山麓に差し掛かると、スピードは40k位に減速され、警笛を鳴らす度に短いトンネルを潜り抜け、赤く塗られた橋を何度となく渡る。
窓外から眺める景観は、峡谷の狭い川は所々で水を藍色に染めた様に澄んで、流れがよどんで湖の様で、静寂の世界そのもである。
縄文時代、人々は、ここで狩猟やクリの実を集め、ひたすら信仰の生活をしていたのであろうと思うと、永い伝統に基ずいた人間の知恵に、健太郎は今更ながら感心して思いをめぐらして景観を眺めていた。
理恵ちゃんは、地図を手にして興味深々と現在地を確認したり、移り行く景色を眺めて、時折、気にいつた風景を写真に撮っていたが、横顔を覗いて見ると薄化粧をしているようで、目が合うや
「おじちゃん! イヤ~ッ。 そんなにしげしげと見ないでよ~!」
と言って地図で顔を隠してしまった。
秋子さんが笑いながら
「この子。朝、美容師のお姉さんから、お化粧を習っていたらしく、いたずらしたみたいだわ」
と、内心娘の成長を喜んで説明するや、理恵ちゃんは
「天気も良く、紫外線に焼けないようにと、お姉さんが肌の手入れを教えてくれただけなのよ」
「女性なら当たり前のことでしょう~。ねえ~母さん!」
と少し抗議ぽっく話したあと健太郎にむかい
「見るなら、母さんの顔をみてよう~」「今日の母さんは何時にもまして、綺麗でしょう」
「何時もこんなに綺麗なら、わたしも嬉しいんだけど・・」「ついでに、もう少し優しくしてくれたら・・」
と、ニヤット笑いながら答えていた。 秋子さんも娘の返事に、今日は言い返すこともなく
「ハイ ハイ。 それよりも今晩お家にいつたら、ちゃんと手をついて丁寧に挨拶してよ。お願いよ!」
と、理恵ちゃんの心が確実に成長している姿を家族に見せたい気持ちにかられ答えていた。
列車はいつの間にか山間を過ぎて、村々が散見され、やがて都会のビルが近くに見える様になると、まもなく山形駅に着き、そこで奥羽本線に乗り換えて新庄に向かった。 鈍行ののんびりとした旅とは異なり、今度は新幹線だけにスピード感があり、座席も柔らかく、理恵ちゃんは、TVで見るバレーボールの選手の様に、この歳にしては背丈に比例して脛が長く、その脛を横崩しにして大機嫌で、窓外の景色に見とれながら月末に合唱する「花かげ」の楽譜を見ながら口ずさんでいたが、途中で
「ね~ おじちゃん」 「一番の歌詞にある 車に揺られて とゆう車とゆう文字には何故 人偏がついているの?」
と聞いたので、健太郎は、いいところに気ずいたなと感心し
「それは、いまから80年位前、田舎では遠い村や町にお嫁に行く時は、タクシーのない時代だから、人力車に乗って嫁いだのだよ。 人が引くから人偏が付いているのだよ。空想してごらん、のんびりしていて優雅な嫁入りでしょう」
と、説明したら納得して歌い続けていたら、途中から乗車した隣席の四人連れの中高生らしき女性達から「貴女 綺麗な声ね~」と言われ、一寸はにかんで薄笑いを浮かべ軽く会釈したあと、なおも窓の方に向かって気分良く歌い続けていたが、最後の歌詞を習った通り感情を込めてゆっくりと
「わたしは 一人に なりました~ ♪」
と歌い終わるや、その歌う後ろ姿と歌詞が秋子さんの胸に厳しく刺さった。
彼女は、その瞬間感情が込み上げて、健太郎の左手こぶしの上に右手のひらを重ねて乗せたので、彼はオヤッ!と思い彼女の顔を覗くと、健太郎の顔を食い入るように見つめ、目にはうっすらと涙を浮かべているので「どうしたの?」と、理恵ちゃんに気ずかれない様に小声で聞くと、声を出すと涙がこぼれるのを精一杯こらえている様に見えたので、健太郎は勝手に心情を解釈して、右手で握り返し顎をひいて「判った」とうなずき、心情をいたわってやつた。
健太郎は、彼女が理恵ちゃんの歌を聴いていて、きっと、もし、自分が(マーゲン・クレイブス)で、この世を去るようなことになったら、理恵子は、歌詞の通り本当に一人ぼっちになってしまうのかな~。と、病人特有の後ろ向きの思考になり、悲しくなったのであろうと考えた。
秋子さんの以前の強気はすっかり影を潜め、なにかと弱気になり、逢う度に、理恵子の行く末を頼みますと言われ続けている事とあわせ、久し振りに実家に帰るとはいえ、綺麗に髪型を整え、普段より少し厚めに化粧した、その姿がいじらしくも悲しく思えてならなかった。
願わくば、三百六十五夜泣き暮らすことなく、少しでも元の秋子さんの姿に戻って貰いたいと、医学は医学として、運と精神力それに免疫力の向上で、同じ病を経験し、死線を乗り越へてきた者として、この病の本質を知るだけに、精神的苦悩はよくわかり、秋子さんを目の前にして、健太郎も旅の途中とはいえ心が重苦しくなった。