節子と理恵子は、夕食後片付けをしたのち、ジュウースを飲みながら洗濯物にアイロンをかけたり、折りたたんだりしながら和やかに話している途中、節子が
「理恵ちゃん 今日、サマーセイターの背中に芝草がついていたわ」
と何気なく呟くと、理恵子は、ドキッと胸を突かれたように心に衝動を覚えたが、なるべく平静を装い小さい声で、母の顔をチラット覗き見して
「う~ん 今日ね、学校が引けてから、織田君と校舎裏の公園で、お昼にお世話になったお礼を言ったあと、部活や夏休みの話など、とりとめもない話をしていたの」
「素足で野草を踏みしめる感触は気持ちよく、織田君と寝転んで浮雲を見ながら、あれこれ話しあって、すごく楽しかったゎ」
と返事をしたが、正直に全部話そうかと思いつつも、恥ずかしい気もあり、それに自分自身、そのときのことを正確に覚えておらず、話すのをやめてしまった。
節子も、出来事を全て判っているかの様に澄ました顔で、彼女の話に特別に不審感を抱かずに
「あら~ そうだったの。 日焼けしない様にね。 それに、もう高校生なのだから自分の体のことはよく考えて、生理品はちゃんと用意しておくのよ」
と、さりげなく言って、深く聞くこともなかった。
理恵子も「わかったわ~ 今度からきちんとしますから」と返事したあと、なんとなく胸の騒ぎが治まらず、節子に甘え声で
「ねぇ~ 母さん わたし小説や友達の話を聞いて思うんだけど・・」
「初恋とゆうのは たいてい稔らないって言はれているが どうしてなのかしら?。わたし 不思議に思えるんだけど」
と、年頃の娘らしく聞くと、節子は
「どうしてなのかしらね~。 母さんにもよく判らないわ~。人それぞれで事情なども違うでしょうし・・」
と笑いながら答えると
理恵子は、今日の出来事が果たして人の言う恋の始まりなのか、或いはその場の単なる一瞬の出来事なのか自分でも理解できず
「ふ~ん 難しいのね~」 「ねぇ~ 母さん聞いてもいい」
「母さんは 何歳くらいのとき、その様なことを経験したの?」
「もし そんなことがあったとしたならば 相手の人は今、何処で、何をしているかしら?」
と、節子の膝に手を置き、その目が明らかに心の迷いを表しているようで、節子は、或いは彼女が生理日のため体調が不安定のせいかなとも思いつつ、少し返事をためらったが、思案の末
「そうね~ 高校3年位のときかしら、はっきりと覚えていないわ」「片思いと言うのがあるでしょう」
と言葉を濁して答えたが、理恵子は納得できない顔をしたので、節子は自身が高校3年の春、下宿していた若き日の健太郎に対し淡い思いを抱いたことを想起して、名前を出さずに簡単に話すと、理恵子は
「へぇ~ 高校生のとき、そんなことがあったの」 「母さんに思われるなんて・・。 その人、キット素晴らしい人だったのでしょうねぇ~」
「わたしにも 将来、そんな素敵な人が現れるかしら」 「でも 仮にその様な人と巡りあっても 片思いで終わってもつまんないわぁ」
と呟くやきながら、一寸、ため息をついたあと
「ねぇ~ その人、今頃、何処でどんな暮らしをしているのかしらねぇ~」
「母さんは、たまに思い出すことはないの?」
と、いかにも自分がその場に遭遇した時を想像して寂びしそうな顔つきで、母親に同情するかのように、伏目がちに言うので、節子は薄笑いを浮かべて顎で健太郎の寝室の方に、理恵子の顔をうながして
「その人はね~ あそこで、いびきをかいて休んでいるわ」
と囁くと理恵子は驚いて
「うそ~!! まさか~ そんなことってあるの~」
と、絶句して慌てて手で自分の口を押さえて声を殺し、納得したのか笑い返した。
理恵子は、明日の用意を終えると自室に入ったが、その夜は満月で月明かりが部屋を薄く照らしていた。
彼女は、昼間の興奮がかすかに残っているのか眠る気になれず、窓辺に寄り椅子に腰掛けて、ぼんやりと月を眺めていたが、そのうちに亡き秋子母さんの面影を思い出し、心の中で「お陰さまで自分も棚田の稲の様にすくすくと育っており心配しないでね。今日、公園の野原で織田君とフアーストキスを交わしたゎ」と、呟いた。
亡き母さんは納得したのか苦笑している様にも思えた。