1 夢
帰りつかない夢ばかりみている。
見知らぬ駅にわたしは立っていた。もうすぐ列車が入ってくるらしい。それなのになかなか切符が買えないでいる。券売機が故障しているのだ。何度いれても硬貨がもどってきてしまう。日常にもたまにあることだが、心がせいてならない。別の切符売場でようやく切符を買い、いざ改札をぬけると、自分の乗る列車のホームが、またずいぶんと遠くにあった。階段を上がり下がりしても、なかなかそのホームに出られない。線路をまたぐ跨線橋がゆるいスロープになっていて、それ自体が迷路のように入り組んでいるのだ。心がせいてならない。
やっとホームに立つ。重い音をたてて入ってきた列車は、欧州の鉄道のように大きな客車だった。長距離の旅客ばかりが乗っているような感じだ。それでも、わたしは漠然と自分が埼玉の大宮のあたりにいて、自分の実家のある川越に帰ろうとしているのだと思っている。少年時代によく通った路線だった。
発車のベルがなり、わたしはあわてて乗り込んだ。ところが、車内は贅沢なソファーがしつらえられ、まるでオリエント急行の一等車のラウンジのようだった。ソファーも窓の垂れ幕も臙脂色のビロードである。席はいくらもあいていたが、とてもこんな車両には座れないと思い、後方の車両のほうへ渡っていくと、こんどは修学旅行生の一団らしい制服をきた少年たちが、ぎっちりと座っていて、なかなか一般の客がいる車両がない。少年たちは、理解できない見知らぬ言葉でやかましく喋りあっていた。
通路をあるきながら窓の外に眼をやると、右手に海岸が見えはじめた。埼玉は海がない県だから、そんなわけはない。しかも右手に海が見えるとなれば、列車は海沿いに北上していることになる。列車がちがうのだ。再び、あわててデッキに出で、次の停車駅で飛び降りた。人のすくない鄙びた駅で、なんだか東海道本線の真鶴あたりを思わせる。いよいよどこに来てしまったかわからないが、とにかく今度反対から来た列車で、もとの駅にもどらねばならないと思う。
ところが、もどるはずの列車は、線路を歩いて五十メートルも先の別のホームに入線してくるではないか。わたしは線路を走り、あわててその列車に飛び乗った。
ところが、乗り込んだ列車は乗ってきたものとは似ても似つかない軽便鉄道だった。そのうえ軌道が大きくカーブしながら、とんでもない方角に走りはじめていくではないか。こうして次から次へと、思いもしない方角に連れて行かれることになった。
わたしは半ば放心し、短い間隔で停車する小さな駅には降りる気にもなれない。どうやら、山に向かっているような気配だった。白いペンキ塗りの標示板にあらわれる駅名に覚えのあるものはひとつもない。だが、なんとなく、秩父あたりに自分はいるような気がしている。子どものときに遠足かなにかで来たことがあるような景色にも見えた。
そのうち、驚いたことに、列車はわたしのいくべき駅の隣の駅にちゃんと停車していた。そこが終点だという。現実ならば川越の駅につながっているはずなのだが、しかたなくわたしは改札を出て、駅前の広場にたった。駅前のたたずまいは、昭和三十年代の頃の風景だ。軒の低い商店がずらりと立ち並び、ボンネットバスが走っている。まるでタイムスリップしてきたような気持で、どうやったら、実家のある川越駅にいけるのかうろうろする。バスの路線はどれも見知らぬ町へむかうものばかりなので、いっそ歩こうかと思う。しかし、歩くにしても道がまったくわからない。古びたパチンコ屋が、不景気な音楽を流している。店の奥がやけに深い菓子屋が、平たいガラスケースにさまざまな菓子を陳列して売っているのが見える。この景色は子どもの頃、母に連れられて見たような気がする。町に人の姿はないのが奇妙だ。
しかし、その頃になると、わたしもだいぶ落ち着いてきて、これが夢だと気づき始める。それでようやく、心を落ち着けて、その見知らぬ町のなかを歩き出していく気になっていた。見るものがみな珍しく、日頃よその町を徘徊するみたいに、のんびりと歩き出していくのだ。せっかくだから、見るべき物はなんでも見てやれと思い始める。けれども、こちらが夢だとさとった刹那から、夢はまるで秘密を知られた女のように、そそくさと立ち去っていくのだった。同じ町に二度と行けたためしはなかった。
帰りつかない夢ばかりみている。
帰るというのは故郷のことばかりではない。なるほど、故郷の町は捨てるように出てしまったが、その気になりさえすれば一時間ほどで帰ることができる。父母の家も残っている。帰ってみたいと思うのは、むしろ少年の頃のことだった。
謎の多いことばかりだった。
友だちというものは、ついぞできなかった。近隣の子の家に自分から遊びにゆくということがない。ひとり遊びばかりして、それに熱中している。たまさか、ひょっこり誰かが遊びにくることはあっても、ただ相手が来たからのことで、なにを話し、なにをして遊んだかもよく覚えていない。
それにしても、少年の頃、頻繁にあのデ・ジャ・ヴュという現象におそわれて、長い間おそろしくてしかたなかった。
たとえば、たまさか訪ねてきた少年が、なにか話しかけたとする。話しかけられた瞬間、それを話している少年も、その言葉もすこしまえの夢で見たような気がするのだ。底抜けに明るい顔をして、なにか語ろうとしている相手が、これから何を話すのか、すでに知っていた。あっ、まただ、と息をのんでいるこちらの気配を感じて、相手は怪訝な顔をして、すぐに黙ってしまう。
「ねえ、どうするのさ」
少年は、近くの川に遊びに行きたいらしかった。
「やめとくよ。あそこは危ないっていわれてる」
そういう返事も、すでに一度した覚えがある。
学校の教室でも、校庭でも、デ・ジャ・ヴュは頻繁に起こった。むこうから、こちらにむかって走ってくる子。その子はもうすぐ転ぶはずだ。わたしのところへ来るつもりだったのに、小さな石で膝を怪我して、近くにいた子に連れられて校舎にもどっていくだろう。果たしてそのとおりになった。それからあと、その子がこちらに走ってくることもなく、なんでこちらに走ってきたのかもわからなくなった。
不思議だったのは、ひとりの少年のことだ。古びた図書館が校庭の隅にあって、放課後になるとひとりで図鑑などをめくってすごしていた時期があった。
その少年は、おなじクラスの子であったが、話したりしたこともない、ただ顔を知っているだけの子にすぎなかった。
ある初夏の午後、いつものようにずっしりと重い図録をひっぱりだして、熱心に眺め入ると、その少年がとなりの席にすわって、こちらをのぞきこんでいた。平家物語の絵巻であった。壇ノ浦の合戦の知盛の最後の場面だった。少年は息がかかるほどちかくに顔をよせてきて、わたしと同じ場所をじっとみつめていた。わたしが、少年のほうを見ると、少年もにっと笑ってこちらを見た。どういう意味かわからなかった。
「これさ・・・・」
と、知盛の軍船を指でさしながら、奇妙に親しげに言うのだった。
「これが君で、こっちの首を抱えられているほうがぼくだね。そのあと、いっしょに海に飛び込んで死んだんだ」
なんのことか思った。なにかの聞き間違えであったのかもしれない。こちらがあっけにとられて、黙ったままなので、少年はそれだけ言うと、ふっと表情をしまいこんで図書館を出ていってしまった。やはりなにも覚えていないんだねとてもいうふうに。頭がおかしいのでも、奇妙なふるまいをするような子でもなかったが、その日だけはちがっていた。それから、数日、あれはなんのことかと問いただそうと思いながら、いつものようにこちらからはなにもせぬまま、とうとうそのままになってしまった。
それでも、中学校へ進んで、別の学校になり、会うこともなくなるまでのあいだ、何度か、じっとこちらを見つめている少年の視線に出会ったものだ。
いや、思いすごしか、気のせいか、大人になるまでのうちに、何人かそのような謎めいたことを話しかけては、すいと立ち去ってしまう者が幾人かいた。こちらが深追いしないので、それ以上は近づきもせず、腑に落ちないことが連なっていく。そして、その者たちはいつしか目の前から遠ざかってしまうのだ。
最後に思い出すのは、はやくに死んでしまったひとりの女のことだ。女、というよりは少女であったけれど、ときどき通学の電車のなかで話しかけてきては、謎めいた言葉を残してさっと離れていく。そのときは、何度かこちらから手紙をだしもした。会って話してみたいとも思った。返信は一度もなかった。偶然に駅で出会うと、親しげに微笑んでくれるのだが、こちらの問いかけには答えてくれない。そして、やはりそのまま音信もなく遠ざかってしまった。
その後何年も過ぎて、長じてから、その少女の友人だったという女性と偶然に会った。その人がいうには、彼女は思いがけない病気であっけなく死んでしまったという。
「ちょっと変わってましたよね」と、いったわたしの感想に、「あら、そうだったかしら。とても気さくで、よく相談にのってくれていたのよ」と、かえって怪訝な顔をされた。
わたしたちの間にあった、どうにも理解不能な謎かけのような会話のことは言わずにおいた。
少女はいっしょに乗っている電車の窓の外を指さして、
「ほら、あの霧・・・」
と、夕間暮れの濃霧のことを言うのだった。
「思い出すわね、あんな霧のなかにいたときのこと」
それだけいうと、なにか思い出してほしそうな眼をしてみつめるのだった。
それから、長い長い月日がたつのに、きまって旅の途上の宿かになかで、その少女と歩いている夢を見る。あるときはヨーロッパを旅していときにまで、少女が連れのように寄りそって歩いている夢を見た。ああ、そうだ。と、わたしは今度こそ、ちゃんと話を聞こうと思い、少年の日にもどったように高揚して話しかけていたりする。ところが、ふたりは、迷路のような町や建物にふみこんでしまい、たちまちにはぐれたり、いったんは約束の場所を決めて別れたりはするが、どうしてもそこに行きつけぬまま、もどかしく夢がさめてしまうばかりだった。これもまた、帰りつかない夢なのだった。
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