老女は、交番で出されたお茶をまえにし、これもだしてもらった茶菓子のようなものをモグモグと食べていた。
さきにいった年長の巡査は、せかせるようすもなく、ゆっくりと住所などを聞きとろうとしていた。
「あ、御足労をおかけします」
こちらにもパイプ椅子をすすめて、
「簡単でいいんですが、どちらでお会いになったのですか」
と、第一発見者にむかって質問をはじめた。自分のことだ。
「神田明神の裏手ですよ。男坂を登ってきたようです」
中村巡査が地図帳をひろげている。
「で、お婆ちゃん、御自宅はどちらですか? 何町かな?」
「姉の家ですか?」
「いえ、お婆ちゃんの住んでるとこ」
しばらく沈黙が続いた。
「谷中墓地のすぐそば」
と、それだけはっきりと答えた。
「谷中あ?」年長の巡査はため息をつくように復唱した。
「はい」
ずいぶん遠くまで歩いてきたものだ。
「おい、電話帳!」
と、中村巡査に命じた。
「それから、本署に捜索願が出てないか照会してくれ」
「名前は?」
「ナミエ・フサさんだ」
受け取った電話帳で台東区谷中のナミエ姓をさがしている。中村巡査は中央指令室を呼び出しているらしい。広域手配ということだ。
「あった!」
年長の巡査が、老女の名前を発見した。一瞬あとで、中村巡査が捜索願いが出ていないことを報告した。
「ま、ここにかけてみよう。御家族がいるといいんだが」
メガネをはずし、こまかい電話番号をメモしている。
「中村、電話」
と、いって番号を大声で伝えている。
「はっ」と、応答して、ダイヤルをまわしている。中村巡査は神妙な顔をして応答を待っていた。
「出たか?」
「まだです。呼び出していますが」
一分ほどコールしつづけて、中村巡査が首をふった。
「よし、いったん切れ! やっぱり独り暮らしかもしれないな」
本人があの調子ではどこに連絡してよいやら、大変だなと、思っていると。巡査長はまた電話帳を繰り始めた。巡査長というのは、中村巡査がそう呼びかけたからだ。年長の警官の肩に階級章がついている。
「ここらへんを、あたってみるかね」
と、巡査長はつぶやいた。どうやら、ナミエ・フサの住所の近辺の家の電話番号をひろいだしていたようだ。なるほど、親戚縁者が無理なら近所にあたってみることだ。
巡査長は壁の掛け時計に眼をやった。
「まだ、そんなに遅くはないな」
自らダイヤルをまわしている。
「あ、夜分に恐縮です。文京区管内の警察の者ですが、つかぬことをおたずねいたしますが、そちらの御近所に、ナミエ・フサさんという御年配の方がお住まいではないでしょうか? そうです、お婆ちゃんです。お独り暮らしかと」
電話の相手にすこし待たされているらしい。しばらく黙っている。相手が代わったようだ。巡査長は同じことをもう一度くりかえした。
「御茶ノ水付近で保護いたしました。道に迷ったようで」
また、聞き入っている。
「はい、そうです。七十すぎている小柄なかたです。はい、ナミエと名乗ってらっしゃいます。はい、はい、そうですか、御近所ですね、はい」
巡査長の手元のメモにどんどん情報が増えていく。独居。長男。週に一、二度。徘徊癖。近所でたびたび保護。
「それで、御子息の連絡先は? わからない? はい、それはこちらで調べます」
巡査長は、丁寧に詫びをいって電話を切った。
「中村、記録!」
巡査長は、電話で聞いたことを書きとらせていった。現住所は電話帳のとおり。独居、週に一二度息子が来ている。息子の連絡さき不明。徘徊癖あり。要保護・・・。
そこまで書き取らせると、じっとすわっていたこちらに向き直った。
「聞いてのとおりです。お年寄りの足でずいぶん遠くまで歩いてきてしまったようですな。住所の近くの青果業の店にかけてみたんですよ。八百屋なら、毎日のように買い物にもいくでしょうからね」
さすがに聞き込みは慣れたものだった。電話帳に本人の名前があったのが幸いしたのだ。
「御苦労さまです。御本人はこちらで自宅までお送りします。御自宅へ行けば御子息などの電話番号もわかるでしょう。聞いたところ民生委員も生活ぶりを見回ってくれているようですから、そちらにも連絡します」
と、説明してくれた。
「じゃ、ぼくはもういいですか」
「念のため、発見者の御連絡先をお名前と一緒に書いていってください」
「自宅には電話がないので会社でいいですか」
「はい、けっこうです」
中村巡査が紙バサミにはさんだ調書を差しだしてきた。
紅花舎の住所と電話番号、自分の名前を書いてやる。御丁寧に母音を押せともいっている。遺失物をひきとるときに必要なのか? 迷子の老人の引き取りでがみつからなかったら、拾った者のものなのか? そんなことはありえないが、ふと、そんな馬鹿なことを考えながら拇印をついた。中村巡査がティッシュペーパーを差しだしてくれた。
「あ、すいません」
と、口ではいってみたけれど、警察の調書に拇印を押すのはあまり気持ちのいいものではなかった。それに、今夜の徘徊はなんとか解決するようだったけれど、老女の行く末は暗澹たるもののような気がした。交番に来て以来、老女は一度もこちらに関心をしめさなかった。すでにして忘れてしまっているのかもしれない。巡査たちの言うことに、いちいち「はい、はい」とうなずくばかりだった。
交番を辞去して、御茶ノ水橋を渡って順天堂病院の方角に歩きだした。病院のわきから都の水道局は眼と鼻の先だ。そこらから本郷二丁目の自分のテリトリーに戻れるわけだ。おもてに出たとたん、アスファルトからまだ昼の熱気の名残りがたちのぼっていて、疲れがますようだった。それでも、身元不明者の居所をさがす手順をすこし学んだような気がした。素人臭いにもほどがあるけれど。赤塚さんのことを思い出していたのだ。それに、謎の依頼人、白根晃の所在も気になった。
夜間は閉じている水道局裏の公園の下の暗がりを歩きながら、そもそものはじまりがわからなくなっているの気がついた。すべて紅花舎に転がりこんでからのことのようだったが、それよりずっと以前になにか自分が関わった人や事件が尾をひいているような気もしてきたのだ。思い出そうとしても思い出せないなにかがある。井戸の底になにか光っているが、それがなにかわからないもどかしさだ。それが、金貨であるか、ただのコインであるのか、それとも自分の眼が映っているだけなのか。それに、自分がおきざりにしてきてしまった人間がいるような漠然とした記憶もある。さきほどの老女のように、忘れてしまったことさえ気がつかなければ、安穏でいられるのに。記憶の隅でときおり残像のように浮かび上がる景色や人の顔もある。夢の中で見た景色かもわからない。