ぼくたちの行進は続く。
猫の崇りだって?そんなものは先を歩いている祭司が祠ってくれるか、全部引き受けてくれるはずだ。儀式が始まると、ぼくたちは一切猫には触れてはならない。祭司がそれを禁じているのだ。祭司はあらゆる猫の崇りに通じていて、儀式のできぬ雨の日などに語ってきかせた。そのときだけ祭司は寡黙な少年ではなくなるのだ。
あの化猫南瓜の話を知っているだろうか。
飼い猫が主人の膳から魚を盗みとったので、怒った主人が薪でその猫をたたき殺した。死骸を埋めておくと、翌年その場所から南瓜が芽を出し、やがて大きな実をつけた。それを煮て家中の者で食べると、みなひどい下痢を起こした。医者に診せてもよくわからない。もしやと思って地面を掘ると、猫の頭蓋の眼が光り、そこから南瓜の蔓が生えていた。猫の骸を土に埋めるとそこから毒草が生える。だから猫の死骸は河に流すのだ、と祭司の少年は真顔でいったものだ。
ぼくは地中で次第に腐乱していく猫の死骸を想いうかべた。あの柔らかい猫毛が抜け落ちて、ぶよぶよの皮膚が露出する。皮を破って青緑色に腐った肉が舌をだす。やがて肉も内蔵もどろりとした黒い液体になって腹のほうにたまってくる。液体は露わになった骨格に抱かれ青光りし始めるのだ。そのとき、猫が呑みこんでいた植物の種が芽をふく。根のほうは白い蛇のように腐った腹綿のなかに伸びていき、芽はすばらしい速さで地面へはいのぼっていく。そうして、とある晩に、怪しげな双葉が開くのだ。腐った猫の養分を吸い上げて蔓はどんどん虚空へ伸びていき、やがて、誰もいない夜の畑で、その蔓草は月の出を待ってぽっかりと黄色い花を咲かせる。花は月の雫を浴びて猫の目のように光るだろう。熟して地に墜ちた実は猫の息のように生臭い。
化猫南瓜の話は、その年の夏じゅう南瓜を食べない弟の口実になった。
その南瓜を食べない弟は行進の先頭で石油罐の太鼓をひっきりなしにたたいている。あの太鼓に皮をはってやったらと思う。学校の鼓笛隊の太鼓には上等な皮が使われているが、ぼくらの太鼓には猫の皮を張ってやったらどうだろうか。猫皮の太鼓だ。どんな音色がでることやら。三味線のように艶っぽい音をたてるかしら。それとも、ごろごろと喉を鳴らすようなまやかしの音だろうか。ぼくらの町内の病院の裏の空き地に棲みついていた喘息持ちの黒猫の皮はどうだろう。冬のあいだじゅうあいつは奇妙な咳をして、空き地の日だまりに寝そべっていた。あの絶え間のない咳の試練にたえた胸の皮はさぞかし丈夫だろう。が、あいつは春になってぼくたちの儀式が始まると、どこかへ姿をくらましてしまった。空地にはよぼよぼした灰色猫が後がまで棲みついたていたが、そいつはとっくに水に帰してしまった。
猫たちはいつもちがう川に連れていかれた。それがなぜか、祭司の少年はいわなかたし、ぼくたちもたずねなかった。儀式の場所はその日その日で様々にかわった。祭司が東へむかうとき、ぼくたちは遠く農村地帯を流れる荒川の河川敷きを期待したし、西にむかえば入間川の広い土手があった。どちらもぼくたちの町の外縁を流れている。そのほか大小の支流が、その日の気分によって選ばれたものだ。
しかし、あの赤間川と呼ばれる子供たちが汚い川の代名詞として口にするドブ川での儀式は完全に不首尾に終わった。その川は市街の下水溝を水源に、郊外の処理場にながれていたのだ。ぼくたちはその川筋を歩きはしたが、ついその行き着く先を見ずに終わった。 野菜クズが流れてくる。男物の革靴の片方が浅瀬の泥の上に座礁している。しがらみには水を吸ってふくれあがった鼠の死骸がひっかかっていたり、中身の知れぬ怪しげなダンボール箱がプカプカ浮いていたりした。
仲間に家が汲取り業をしている少年がいた。ある夜、でかけようとしている父親の新型のバキューム・カーの助手席にとび乗った。夜のドライブを愉しもうというわけだ。しばらく走ってふと気がつくと、車は淋しい川っぷちに止まっていた。父親は車のライトを消し、川にバキュームの太いホースをズルズルと下ろし、タンク一杯の汚穢を放出しはじめた。少年は初めて父親の仕事を理解した。そして、冷汗をじっとりかいた。その川は昼間アメリカザリガニを採って遊んでいた川だったのだ。仲間のなかには釣り上げたザリガニを焚火の火で焙って食べてみせる連中がいて、彼も一度は味見してみたいと思っていた。それ以来彼はザリガニ釣りに加わろうとはしなかったし、父親の車にも乗らなかった。そして、新学期に行われる回虫検査の検便を恐れた。(検便には当初マッチ箱が使われていたが、いつの間にか丸い金属製の容器に変わった。母親が割り箸で詰めてくれたものだが、それが嫌で自分の家の犬の糞を詰めてきて叱られた子もいた。)
ともあれ、そんなドブ川で神に捧げられる猫は災難だ。だが、儀式は行われたのだ。 祭司の少年は黒ぶちの若い雄猫を、頭上高くもちあげると、深く切れこんでいる堀割りのなかへ投げ落とした。猫は回転しながら水面にぶつかっていった。水音というよりも、ドブンと泥が跳ねる音がした。流れは浅く、ドブ泥が深く積もっていたのだ。猫は泥に呑みこまれてしまった。
しかし、すぐに川のなかほどで泥の塊が立ちあがった。その塊は狂暴な大ナマズかなにかのように、無茶苦茶としかいいようのない勢いで対岸へ移動していった。大ナマズは向こう岸にとりつくと、はじめてすがたらしきものを現した。堤のコンクリートに爪をたて、気が狂ったようにはいのぼっていく。ようやくにして堤防の上にたどりつくと、こんどは激しいくしゃみがはじまった。鼻につまった泥を吐き出しているのだ。泥水もたっぷり呑んだに違いない。しゃっくりもはじまった。それに加えて体を振るって水気を振り落とそうともしているので、見ているぼくたちには猫が完全に発狂しているとしか思えなかった。
そこでぼくたちは歓声をあげたのだ。
猫はひどい目に逢わせた子どもたちを対岸にみとめると、はじかれたように堤防のうえを走りだした。逃げろ、逃げろ。人間の子どもはなにをするかわからない。
ぼくたちが逃げていく猫を大喜びではやしていたとき、祭司の少年はつまらなそうに唇をとがらせ、猫が這いあがっていったコンクリートの斜面を眺めていた。斜面にはこわれた筆で描いたような泥の筋が半乾きで残っているだけだった。祭司の様子でぼくたちは儀式が失敗したことに思いいたるのだ。ぼくたちは猫を水の国に送りそこなったのだ。