運河をわたる犬
一匹の犬が運河を越える鉄橋をこちらに渡ってくのが見えた。中途ですこしたちどまり、斜め上方の灰色の空を見上げてい。おそらく鳩の羽ばたきでも耳にしたのだろう。すこしばかり鼻をひくつかせ、再びすたすたと歩みはじめた。
「あの犬はどこへ行くの?」
管理人のマルセルの膝の上に乗って窓の外を見ていた少女が、ふいにそんなことをいった。一時間ほどまえ、このアパルトマンに迷い込んできた子だった。所番地を書いた紙切れをマルセルにつきだして、四号室のおばあちゃんにワインとクッキーを届けるのだという。マルセルが紙のしわをのしてよく見ると、番地が1になっていた。それが7に見えたので、6番地もはなれたアパルトマンのベルを押してしまったらしい。マルセルが何度説明しても、おばあちゃんはここにいるはずよ、といって譲らなかった。根負けしたマルセルは電話帳をくり、7番地のアパルトマンの管理人に電話をかけた。
「名前は、マドモアゼル?」
「おばあちゃんの? それともあたしの?」
「両方だよ」
「あたしは、マドレーヌ・ミラベルよ。おばあちゃんは、おばあちゃんって名前よ」
先方にミラベル姓の間借り人はいなかったが、四号室の老婦人はいるのたそうだ。だが、そうとう体が弱っていて、電話にでられないし、ましてや迎えにも来れないという。いろいろ考えたあげく、マルセルがそのアパルトマンまで少女を連れていくことになった。
それが三十分ほどまえのことだ。いくらいっても、ここがおばあちゃんのアパルトマンだと言い張るマドレーヌを、よく似ているけれど、もうすこし先に同じような建物があるのだとようやく説得した。それが十五分ほどまえ。それから、マドレーヌは管理人室の中をくまなく歩き回り、最後に窓に行きついた。
「窓の外見せてよ。運河に橋があればやっぱりおばあちゃんのアパルトマンなんだから」と、またむしかえしそうになった。
「運河に橋はいくつもかかってるんだよ」
「よく見えないわ、おじさんの膝の上に立ってもいいかかしら」
マドレーヌは椅子にすわっているマルセルの大きな膝のうえにアクロバットのようにたちあがり、窓に首をのばした。そうして、橋を渡る犬を見つけたのだ。
「あの犬が引き返したら、言うとおりに出かけるわ。でも、ちゃんとこちらに渡ってきたら、もう一度住んでる人の名前を調べなおしてよね」
マルセルは面食らって返すことばがなかった。だが、どうやら少女が彼のことをからかっているのがわかって、かぶりを振った。
犬は尻尾をたらして、橋の階段を降りはじめ、もうすぐ下の舗道にくるところだった。なにか言いだすかと思ったが、マドレーヌはじっと犬をみつめていた。
「行くところなんかないんじゃないか。ただ散歩しているのだよ」
と、マルセル・シャンピニオンは、低い声でそういってやる。
「あら、目的もなく歩くのはろくてもにい人間だけだって、ママがいってたわ」
少女にやりこめられて、マルセルは微笑んだ。
「そうだな、だからあんたも目的の場所にいかねばな、マドモアゼル」
少女も微笑んだ。
「でも、アパルトマンをまちがえてよかったわ。あの犬も見られたし」
どうやら感謝されたようだった。マルセル・シャンピニオンは、ここ何十年もなかったように心から笑った。少女はまだ彼の膝から降りようとしない。