天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

電子書籍 理想書店からのわたしの作品です。

2011年04月29日 11時17分11秒 | 文芸

    運河をわたる犬

 

 一匹の犬が運河を越える鉄橋をこちらに渡ってくのが見えた。中途ですこしたちどまり、斜め上方の灰色の空を見上げてい。おそらく鳩の羽ばたきでも耳にしたのだろう。すこしばかり鼻をひくつかせ、再びすたすたと歩みはじめた。

「あの犬はどこへ行くの?」

 管理人のマルセルの膝の上に乗って窓の外を見ていた少女が、ふいにそんなことをいった。一時間ほどまえ、このアパルトマンに迷い込んできた子だった。所番地を書いた紙切れをマルセルにつきだして、四号室のおばあちゃんにワインとクッキーを届けるのだという。マルセルが紙のしわをのしてよく見ると、番地が1になっていた。それが7に見えたので、6番地もはなれたアパルトマンのベルを押してしまったらしい。マルセルが何度説明しても、おばあちゃんはここにいるはずよ、といって譲らなかった。根負けしたマルセルは電話帳をくり、7番地のアパルトマンの管理人に電話をかけた。

「名前は、マドモアゼル?」

「おばあちゃんの? それともあたしの?」

「両方だよ」

「あたしは、マドレーヌ・ミラベルよ。おばあちゃんは、おばあちゃんって名前よ」 

 先方にミラベル姓の間借り人はいなかったが、四号室の老婦人はいるのたそうだ。だが、そうとう体が弱っていて、電話にでられないし、ましてや迎えにも来れないという。いろいろ考えたあげく、マルセルがそのアパルトマンまで少女を連れていくことになった。

 それが三十分ほどまえのことだ。いくらいっても、ここがおばあちゃんのアパルトマンだと言い張るマドレーヌを、よく似ているけれど、もうすこし先に同じような建物があるのだとようやく説得した。それが十五分ほどまえ。それから、マドレーヌは管理人室の中をくまなく歩き回り、最後に窓に行きついた。

「窓の外見せてよ。運河に橋があればやっぱりおばあちゃんのアパルトマンなんだから」と、またむしかえしそうになった。

「運河に橋はいくつもかかってるんだよ」

「よく見えないわ、おじさんの膝の上に立ってもいいかかしら」

 マドレーヌは椅子にすわっているマルセルの大きな膝のうえにアクロバットのようにたちあがり、窓に首をのばした。そうして、橋を渡る犬を見つけたのだ。

「あの犬が引き返したら、言うとおりに出かけるわ。でも、ちゃんとこちらに渡ってきたら、もう一度住んでる人の名前を調べなおしてよね」

 マルセルは面食らって返すことばがなかった。だが、どうやら少女が彼のことをからかっているのがわかって、かぶりを振った。

 犬は尻尾をたらして、橋の階段を降りはじめ、もうすぐ下の舗道にくるところだった。なにか言いだすかと思ったが、マドレーヌはじっと犬をみつめていた。

「行くところなんかないんじゃないか。ただ散歩しているのだよ」

 と、マルセル・シャンピニオンは、低い声でそういってやる。

「あら、目的もなく歩くのはろくてもにい人間だけだって、ママがいってたわ」

 少女にやりこめられて、マルセルは微笑んだ。

「そうだな、だからあんたも目的の場所にいかねばな、マドモアゼル」

 少女も微笑んだ。

「でも、アパルトマンをまちがえてよかったわ。あの犬も見られたし」

 どうやら感謝されたようだった。マルセル・シャンピニオンは、ここ何十年もなかったように心から笑った。少女はまだ彼の膝から降りようとしない。

 

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  Photo by Yusuke Wakabayashi


猫迷宮  93 

2011年04月23日 11時38分02秒 | 文芸

 まず、だれをヨソオウカ? これは赤塚さんのまえの勤め先の者といえばいい。会社からかけていることにしておく。なんの調べか? 離職票とか年金手続き、または健康保険のことでとかを口実にしてみよう。なんで、さがしているのか?  本人が最近転居したために、連絡先がわからない。おかしくはないよな、と自問してみねる。赤塚さんから依頼があったのに、連絡がないのでとかなんとかで誤魔化す。メモ用紙に考えられるだけの口実を書き連ねてみた。すべて、ウソともいえるし、本人の居場所をつきとめるための方便ともいえる。あんまり期待はできないが、こういう調査をしてみたという実績が大事だ。あとはもあの《庚申研修会》なる団体の筋だろう。そちらは、なんだか厄介な筋のようなので後まわしだ。

 デスクの電話機をひきよせて、電話帳からひろいだした生保の営業所の番号をまわしはじめた。千代田区と文京区だ。赤塚さんの住居に近いところははずした。六月の雨の午後、赤塚さんは、紅花舎を経由してどこかへでかけていったのだ。本郷、水道橋から神田方面にちがいない。と、ただの推理だけれど。

 探してみると、それらしい生保の営業所は五つほどだった。大手が二か所、聞いたことのない社名のところもあった。

 いちばんマイナーっぽい生保会社からにした。

 しばらく呼び出し音がつづいた。もう終業時ちかかったので、ダメかとも思う。

 よし、次だと思った瞬間、電話口に人がでた。

 

「はい、お電話ありがとうございます。*保険です」

 若い女の声だ。

「あの、つかぬことを、おたずねいたしますが、そちらの社員の方で、アカツカ ヨリコ様という方は御在籍でしょうか?」

 そういうと、きゅうに不審そうな応対になった。

「アカツカ様が以前に勤めていた会社の経理部の者です。ハイ、御転職先が生保だとうかがっていたもので・・・・」

「少々お待ちください」

 女はだれか同僚か上司とやりとりしている。そのやりとりがまる聞こえだった。なんだか、脈がありそうな、心当たりがありそうな会話だ。一発目でアタリなのだろうか。

「はい、モシモシ、エー、電話変わりました。人事のサトウと申します。どういった御用件でしょう?」

 年配の男の声だ。すかさず、考えていた書類送付の件を伝える。本人が最近転居したらしく、電話が通じない。新しい就職先が千代田区の生保だとは聞いていたので、オタクあたりではないかと・・・・。あらましそんなことを説明した。

「はあ、そうなんですか」と、人事の男は一応は納得した。女の事務員のつぎにすぐに人事の男が出てくるくらいだから、ワンフロアーの小さな事務所なのだろう。それに人事なんていっているが、どうせ支店長だ。

「アカツカは赤い塚で、ヨリコは信頼の下の字、頼朝のヨリです」

 わざとクドクいってやる。これは交番の巡査のマネだ。

「赤塚頼子ですよね」と、むこうが復唱した。頭に漢字を浮かべたような発音だ。「はい、確かに六月から契約社員になって、試用期間で勤めていただいてましたけど」

 アタリだった。でも、興奮しないようにしながら、落ち着いて返す。

「そうでしたか。で、いまも御在籍ですか。二か月前からですよね」

「いえ、本人の御希望で、七月二十日に契約を切らせていただきましたよ」

 赤塚さんはひと月半でヤメたのだ。

「わかりました。お手数をおかけしました。あとはこちらで調べてみますので、お邪魔いたしました」

 いかにもこのての照会電話に慣れているといった物言いで、礼を言って電話を切った。それにしても、ショボそうな生保に勤めていたわけだ。自分のカンがピタリと当たっても嬉しくはなかった。アシドリの一部がみつかっただけだ。赤塚さんはすぐに辞めていたのだから。それでも、聴き取った情報をすべて書き留めておく。電話帳に記載してあるその生保会社の所番地と電話番号、人事のサトウ、これは佐藤でまちがいないだろうが、すべて書き出す。短期だが契約して働いていた期間と本人希望により退職の事実も。電話一本で得た情報だったが、都内を歩きまわってようやくそこまでつきとめたようにも見える。アコギな興信所なら、都内全域をくまなく聞き込み調査した結果云々と但し書きを添えるところだ。それだけ経費がかかっていることをにおわせる作文だ。でも、そんな虚飾はいらないだろう。今度、旦那から電話があったときに話してやれる材料がひとつでもできたのにホッとしただけだった。どこに勤めていようが、砂土原町のマンションか、あの神楽坂奥の隠れ家かにもどっていなければ意味のないことなのだけれど。

「さあて、庚申研修会かあ・・・たしか神奈川の住所だったよなあ」

 と、つぶやく。神奈川の電話帳はなかったので、ちょうど蒲田に集金にでかける用事があるから、そのとき電話ボックスで調べてみようかと思う。ともかく、十万円の経費ぶんの仕事はしたかった。まず、なんとしても赤塚さんに会ってからだ。、旦那への報告は本人の意向を聞いてからでないと、恨まれるかもしれない。赤塚さんと秘密を共有しているのは確かなのだから。たいした秘密でもない気がしたけれど。それでも、一晩泊めてもらったアブナイ一夜があったわけだし。赤塚さんの二重生活のことも知っているのだ。


猫迷宮  92

2011年04月22日 22時02分04秒 | 文芸

            

 

 丸尾印刷の月末の集金は、あっけなく終わってしまった。近隣で、小口ばかりだった。あとは、蒲田方面の会社が一つ残るだけとなる。

「神尾君なあ、そこが済んだら、うちの当座に直接入金しといてくんないかな。口座はここにあるよ。うちも明日から夏休みだ。機械を動かすほどの仕事もねえしな。盆明けに、あれだ、大口の依頼がくることになってるから、それまで骨休みだな。島ちゃんも帰ってこないし、カミさんも実家の墓参りにいきてえらしいや」

 丸尾社長は体をゆすって立ち上がってきた。当座預金の口座番号を書いた紙きれを手渡された。

「おっ、それから、こいつをな。月末だし」

 そういって、茶封筒をさしだした。

「今月分の校正料だよ。それに、集金やらなにやらだいぶスケてもらったから、すこしイロをつけたよ」

「たすかります」

 と、頭をさげて受けとった。アパートの家賃が払えるかの瀬戸際だ。払えたとしても食費がなくなりそうだったのだ。

「じゃあ、お盆明けに顔をだします」

「おう。紅花舎も閉めちまったらどうだ。困りゃあしないだろう」

 丸尾社長は、そのまま奥にひっこんでいった。印刷機も止まって、しんとした社屋のなかにミシミシという足音だけが響いている。社員も来ていないようだ。出しなに柱時計を見ると、午後四時を過ぎていた。紅花舎を夏期休業ににしたとして、お盆明けまでなにをしていればよいのか。ミドリちゃんも休んだままだといっていたが、アパートにも戻っていないのだろうか。帰りしなにそっちに寄ってみようかとも思う。

 階段をあがり、紅花舎の事務所にもどると、そこらをすこし整頓したり、なにも入っていない冷蔵庫のコンセントをぬいてしまったり、窓の鍵をかけてまわったり、一応の片づけごとをしてしまう。あとは、休業を告知する張り紙をだせばいい。コピー機からA4の用紙を一枚ぬいて、マジックで「八月十三日まで夏期休業いたします」と下手な文字で書いてみた。これをシャッターにはりつけておけばいい。夏期休業どころか、ずっと休業になるのではないかと皮肉な気持ちになった。秋口には、あの『昭和戯文集成』の仕事が再開されるだろうが、もうひとつの『猫文書』はどうなることか。著者がこの夏を越せなかったら、またしても流れてしまう。ヘンな予感がしているのだった。

 思い出して、丸尾印刷からの手数料の封筒をあけてみた。七万円入っていた。最初にもらったときと同額だった。どういう計算かはわからないが、結局十万に届かない仕事だったわけだ。赤塚さんの旦那から預かった十万は、まだ手をつけぬまま持っている。あれを使おうとすれば、探偵もどきの調査もすこしはせねばならない。このつぎ電話がかかってきたら、なにかの情報を持っていないとタダトリになってしまう。

 それで、ふと思いついて、電話帳をひっぱりだしてきた。

 千代田区の保険会社の支店の電話番号を調べてみようと思ったのだ。先日の交番で覚えた捜索法を試してみようと思いついたのだ。


猫迷宮 91

2011年04月10日 23時30分26秒 | 文芸

 寝苦しい夜になった。

 山尾素子が帰ったあとで、布団を延べ、扇風機を首振りにして横になった。深夜になってから、今度は白井薫のほうが恨みごとを言いにやってくるのではないかと嫌な予感がしていた。一人の体のなかに二人の人格がいるというのは、いったいどんな感じなのだろう。ジキル博士とハイド氏みたいに、一方が犯罪者だったらたまらない。

 まてよ、と思いあたったことがあった。稲葉峯生氏の文書のなかに、嘘かまことか、幻覚なのか、自分の体の中に一匹のケモノが棲んでいるいるというのがあったのだ。猫だ。身の内に潜んでいた猫が、ある夜のこと本性を現わし、その身も猫に変身して夜の町に走り出ていくというのだ。それはもう、精神の病というよりは、怪奇現象の部類だろう。いや、怪奇幻想小説の世界だ。猫になって夜の町を走りぬけていくときの気分はどんなものなのだろう。もはや人間らしい感覚は消え失せて、猫そのもになって走っていくのだろうか。・・・・そんなことを空想しているうちに、眠ってしまった。浅い眠りのなかで夢を見ていた。

 紅花舎の事務所に自分はいる。デスクに明かりがついているが、室内の明かりはすべて消えていた。いつもの泊まり込み仕事と変わりはない。変わりがあるとすれば、デスクの明かりが届かない事務所の隅に誰かが背をむけてうずくまっている。後ろ姿からすると、二十歳かそこらの青年だ。

 「そこでなにしてる?」

 こちらはイラだって、乱暴に問いかけていた。

「いつからそこにいる?」

 相手がなにも言わないので、ますますじれったくなり、次々に質問を発するが、うずくまっている青年は顔をあげようともしない。

「おい!」

 とうとうどなり声をあげてしまった。なにかほかのイラだちが、その見知らぬ青年にむかって吐き出されたかんじだった。

 すると、青年は、ようやくこちらに気づいたみたいに、クルリと顔をむけた。

「えっ!」

 と、驚いて息をのんだ。そんな・・・・。

 不安げにこちらをみつめているのは、十年もまえの自分自身だったのだ。

 

 

 


猫迷宮 90

2011年04月10日 00時22分49秒 | 文芸

「あなた変なヒトね。易者さんみたい」

「やめてくださいよ。山尾さんがいっていることが本当だとしたら、理屈ではそういうことになるって言いたかっただけです。精神科のお医者に診てもらったらいいですよ」

「そうね、そしたら白黒がつくかもね」

 そうしたら、この山尾素子のほうが追い出される可能性が高いような気がしたが、そこは黙っていた。

「でもね、白井薫には、この山尾素子が必要なのよ」

「なぜですか?」

「これまでの付き合いでよくわかったの。あの人にすべてをまかせたら、とても悲惨な人生になっちゃいそうで、たまらないもの」

 ずいぶんな言いようだった。悲惨だろうと、なんだろうと、自分のまねいた責任ではないか。他人の価値観で動かしていいわけがない。

「白井さんは苦しんでるみたいですよ。盗癖もストレスからじゃないのかな」

「そうねえ」と、山尾素子は、すこししんみりした。もうすこし言ってやりたかったが、初対面でそんな精神科の医者の言いそうな意見は控えることにした。すでにして、ずいぶんこの奇妙な会話につきあわされている。深入りしてしまいそうな気がした。

「神尾さんて、変わったかたですよね」

 またしても、同じことを言われている。

「なにがですか」

「だって、こんな頭のオカシイヒトのするような話に真面目につきあってくださるんだもの」

「ひとつ聞いてもいいですか」

「なに?」

「白井さんと山尾さんとで話し合うことってないんですか?」

「えっ?・・・・ないわよ。一人が目覚めているときは、相手は眠ってるんだもの。そして、覚えのない現実が進んでいることに気がついて、また、あいつがやったのかって思うの」

「じゃあ、一部屋で顔をあわしたことのない同居人てことですか」

「うーん、どうかな。相手の気持ちみたいなものは伝わってくるの。あ、この気分や感情はわたしのものじゃないな、てわかるの。とっても違和感があるわね」

「今みたいに、ふたりで話し合ってみればいいのに」

「そうねえ、難しいなあ。それって、ふたりで白黒つけて、どちらかを消しちゃうってことでしょ?」

「というか、ふたりで一人になっちまえいいんじゃないの。ぼくなんか、いろいろなタイプの人間がひとつにまざっているような気がするけど。どれももこれも、みんな自分だって気がしますよ」

 山尾素子は、黙りこんでしまった。なにか琴線にれることでもあったのか。

「なんだか、神尾さんとお話していると、夢を見ているような気がしてきたわ」

「夢なんじゃないですか。あれも、これも」

「どうしたらいいのかしら」

「ずっと眠ったらいいですよ。目覚めていたってろくなことがないんだから」

 そこには実感があった。昔、母親が<ああ、人生寝るよりラクはなかりけりだよ>とつぶやいていたのを思い出した。そんなとき、そのまま目覚めないことが<>てことなのかと、子ども心に思ったものだ。死ぬよりラクはなかりけり、か。

「なにかほかのことを考えていたわね」

 山尾素子の眼が光った。

「いけませんか」

 ふっと笑っている。

「あの」と、急にしおらしい顔をになった。「神尾さん。また、話しにうかがってもいいかしら」

 それには、きっぱりと言ってやった。

「だめですよ。お医者に行ってください。それに、ぼくはもうここから引越すんですから」

 いつになく、突き放すような物言いだ。この女につきあっている暇もないわけだし、それでなくとも捜しにいかねばならない人たちが多すぎる。

「あら」

 と、山尾素子は、わかったのかそうでないのか、びっくりしたような声でそれだけ言った。

 


猫迷宮 89

2011年04月10日 00時20分54秒 | 文芸

 あら、このアパート、ほんとに間取りがいっしょね」 

 部屋のなかをみまわして、そんなことをいっている。すこし掃除しておいてよかった。

「新聞代なんかいらないですよ」

 きっぱりといってやった。セコイ男に見られたくなかったこともある。

「そうもいかないわ。ご迷惑をかけたのですし。子どものマン引きとはわけがちがいますもの」

「新聞をヌイていったのはあなたじゃないんですか?」

「わたしが? 白井薫がそういったのかしら」

「どっちにしたって、ひとつの体でしょ」

「むずかしい話にしないでくださらない。盗んだのは白井薫のほう。ずっとまえから、ちょくちょく物を盗むのよ。それに気がつくと、わたしがメゲてひきこもるから、それが狙いらしいの」

 山尾素子のほうが、あけすけに物を言う性質らしかった。

「どちらがその、つまり、その体の持ち主なんですか?」

 こんな機会もめったにないような気がしたので、こちらもあけすけにきいてやった。山尾素子はすこし考えこんでいる。

「うーん、たぶんあの人でしょうね。わたし、しばらくあの人の頭の中で眠っていたかんじなの。気がついたら、もうずいぶんあのひとの人生が進んでいたわ」

「じゃあ、生まれつきひとつのからだに魂がふたつはいってたってことですかね」

 『昭和戯文集成』や『猫文書』で読みかじった知識だ。人が生まれるとき、体の中に魂がスッとはいってくるさまを描いた箇所がたしかあった。

「あら、いろいろ知ってらっしゃるのね。だから、白井さんが眼をつけたのかしら」

 予想外のことをいってきた。

「知りませんよ。新聞をヌカれただけです」

「そうかしら、油断をするとツケこまれてよ」

 当事者の発言とも思えない。

「ずいぶん無責任な言い方ですね」

 こちらも言葉がキツクなった。

「しかたがないわ。戸籍上は白井薫なのだし、一日のほとんどの時間はあの人が支配しているんですもの。わたしは、ときどき、あの人が眠っているときに出てきて、不具合を修正するだけなのよ」

「不具合?」

「そ。あの人の服装のセンスとか、押しの弱さには呆れるわ。それに、このアパート選んだのあの人なのよ・・・・あっ、ごめんなさい、ひどく汚いって意味なんだけど」

 とくに反論はしなかった。

「でも、表札は山尾さんでしたよね」

「そうよ、そこがあの人のズルイところ。男の人につきまとわれたことがあって、ここに引越すときに、ちやっかりわたしの名前を使いだしたの」

「女の独り暮らしは用心しないと」

「それはそうなんだけど、なにもわたしの名前をだすことないでしょう?」

「ちょっと待ってください。白井薫が戸籍に載っているのなら、あなたの山尾素子って名前はどこからきたのですかね」

「あら」と、女はすこし虚をつかれたような顔をした。

「それもそうね、いきなり十四歳で眼をさましたとき、わたし、自分が山尾素子だって知っていたの。それより前の記憶がないわね」

「じゃあ、あなたが後から入り込んだのじゃないですかね」

「そうかなあ。でも、どういうわけで?」

「どこかで、突然死んだんじゃないですか。そのとき、魂がとびだして、白井さんのなかに入ってしまったってこともありますよ」

 すべて思いつきのデマカセだったが、相手はすこし納得したような顔をしている。魂なんてものがあるとしても、そんなに他人にのり移ることがあるものではないだろう。

 


猫迷宮 88

2011年04月10日 00時12分17秒 | 文芸

                  *

 

 

 部屋にもどって、一週間分はある新聞をつぎつぎにひろい読みした。一面のトップ記事などに興味はない。ローカルな記事とか、社会面にあるちょっとしたエピソードのような記事が好きだった。空き巣とか、ボヤ騒ぎとか、線路に置き石があったとか、とうていメジャーな記事にはならないありふれた事件にのなかにいつも心を惹かれる。いつだったか、台風で都内某所が浸水し、下水管からも水があふれた日に、自転車に乗った男性が、口をあけていたマンホールの中に落ちて行方不明になったという記事を読んだ。「マンホール男」の失踪だ。目撃者がいて、自転車ごと落下していったという談話があったが、果たしてそんな大きなマンホールがあるのだろうか。マンホール男が、その後どこかで発見されたという続報はなかった。どこかで遺体があがったのかもしれないが、記事にはしなかったのかもしない。マンホールにのみこまれて、ようやく這いだしたら、別の世界に出てしまったのかもしれない。などと空想したりする。なにやら、アングラ芝居の筋書きみたいだった。もちろん、この一週間にそんな記憶に残りそうな小事件は起きてはいなかった。さきほど、自分の新聞を盗んでいた女の話のほうが、ずっと奇妙で、得体が知れない。山尾素子と白井薫のどっちが本体なのか知らないけれど、その日が暮れて、九時を回った頃、その女がドアをたたいて訪ねてきたときにはさすがにぎょっとしたものだ。

「今晩は、すみません、山尾ですけど」

 と、女ははっきりと表札どおりの名をいった。どう対応したものか。先刻会ったのは、白井薫という女のはずだった。

「えっ、白井さんじゃないんですか?」

 事情を聞いていることをはっきりさせるために、わざとそういってみた。女は、すこしはっとしたようだった。

「あら」と、すこしだけ意外そうな声をだした。一瞬の間があいた。

「あの人、すっかり話しちゃったのかしら」と、独り言のようにつづけた。

「なんか御用でしょうか」

「はい」

 と、用事を思い出したらしく、じっとこちらをみつめた。

「あの、すみません。これまでの新聞代を弁償しようと思って」

「そのことは、白井さんに言いましたよ。もういいんです」

「ちょっと中にはいってもいいかしら。人に聞かれたくないし」

 返事をするよりもさきに、山尾素子は、部屋にあがりこんできた。

「めんどうですね」と、言ってやる。

「すみません、自分たちでもわかっているつもりなんですが」

 やはり複数の自分の話らしい。

「さっきぼくと話したのは白井さんですよね」

「そうみたいですね。そのときのことは、覚えてませんから。神尾さんに押し掛けられたってことだけ聞きました」

 なんか、保護者のような口ぶりだ。明らかに性格がちがうようだった。

 


猫迷宮  87

2011年04月09日 16時31分24秒 | 文芸

 しばらく黙ってむかいあっていたが、ともかくこの女が犯人であったのがわかって、心のおさまりがついた気がした。咎めだてするつもりはなかった。もうしませんといわれても、こちらも新聞の購読をヤメるのだからもう関係はない。

「そこの新聞をもらってかえれば、もういいですよ」

「すみませんでした」

「うん」

 「警察とかにいわないんですか」

「警察に捕まったって、その盗癖はやめられないんでしょ」

 意地悪だったが、本質をついてやった。また、どこかで、べつの何かを盗むのことになるはずだ。大きなヤマはふまないけれど、ちっぽけな他人の物をときどき盗んで、精神の安定をはかろうとするだろう。

「そうですね。あの人が出ていってくれないと・・・」

「誰か相談する人いないんですかね。医者でもいいんじゃないかな」

 女は顔をあげて、こちらをじっとみつめた。

「神尾さんも、わたしが病気だと思いますか」

 自分は名のらぬくせに、こちらの姓名をきちんと呼ぶので、ちょっと嫌な気がした。根拠のないハンデがついたような気がする。

「わかりませんね、医者じゃないし。でも、話していることは、尋常なことじゃないよ」

 丁寧なのだか、タメグチなのかわからない物言いになった。混乱されられたみたいだ。はやく自分の部屋にもどりたい。

「神尾さんのからだのなかには、ほかになにも住んでいませんか?」

「すくなくとも別の人格は住んでない気がするね。ケモノみたいな衝動は住んでるけれど、それも自分の一部だよ」

「ケモノですか?」

 そこに食いついてくるなよ、と思う。

「わたしには、山尾素子って女の人が住んでいるんです」

 自分よりさきに、自分の別人格を教えてもらうとは思わなかった。

「で、あなたの名前は?」

「白井薫といいいます。カオルです」

 いよいよ部屋にひきあげたくなってきた。なんだか、ぞろぞろとほかの人格も出てきそうな気がして薄気味悪いのだ。ほんとに精神科に診てもらうべきだ。一昨日の老女なら警察に保護してもらえたけれど、今回は《窃盗犯》の嫌疑もあるからヤメておいたほうがいいだろう。

「とにかく、万引きとかで捕まらないうちに、なんか手を打ったほうがいいね。お医者さんへいくのがいちばんだと思うな。その山尾素子って人に出ていってもらえばいんでしょ」

 そんな簡単にいかないことはわかっているけれど、「医者へ行け」というのがこの際、最高のアドバイスには違いない。

「お医者さんは、個人のプライバシーはきちんと守ってくれるんじゃないかな。職業上の守秘義務があるからね」

「神尾さんもですか?」

 どうにも、ピントがはずれてくる。

「はい、この件はすぐに忘れちまいますよ。誰にも言いません。それに、このアパートにいつまでいられるかもわからないんです」

 相手を安心させてやるつもりで、余計なことまで言ってしまった。

「引越すんですか?」

「うん、家賃が払えなくなりそうだからね。会社がアブナイんですよ」

「困りますね」

 同情するようなことをいわれて、なんか脱力する。

「とにかく、新聞をひきとって、もう帰りますから」

 女の返事をまたずに、立ち上がると、上り口の新聞の束を拾い上げて、外に出た。ドアをしめるときに、ふと表札がわりのプレートに眼がいって、すこし驚いた。居住者の名前が、白井薫ではなくて、山尾素子だったのだ。

 

 


猫迷宮  86

2011年04月08日 16時16分53秒 | 文芸

                         

 

 

 女の短いスカートから白い膝がのぞいている。長い髪は、最近はやりのワンレンとかいうやつだ。

「今日はデパート、早びけしてきたのです」

 なんの告白がはじまるのだろうか。やはり池袋あたりの百貨店に勤めているらしい。着ている物もそれなりに洗練されている。もうすこし小奇麗なアパートが似合いそうだ。色白の瓜実顔。目鼻立ちはうすくて、眼をふせていると雛人形のにみえる。だまって喋らせることにした。

「神尾さんの夕刊を盗ろうとしたら。もうおかえりでした」

「新聞とってないんですか」

「あまり読みません」

 どういうことだ。単なる盗癖なんだろうか。

「もうひとりのわたしが手癖が悪くて・・・・」

 態度にはみせなかったが、その言葉にすこし動揺していた。またおかしな人が出てきた。もうひとりの自分て、多重人格なのだろうか。それとも、気味の悪いことを言って、この場をのがれようとしているのか。弁解のようにも聞こえなかった。さきほど、自分だって、「やめとけ!」と、もうひとつの声を聞いていた。たぶん、そういう言い方をしているだけなのかもしれない。女は、すこし体をゆらして、座りなおした。

「ときどき無性に物を盗みたくなるんです。子どものとき何度か補導されました」

「なにかが欲しいわけじゃないんだ」

 わざとタメグチぽく応答してやる。こっちはカウンセラーなんかじゃないんだから。

「はい、なんだか小さな罪を犯したくなるんです」

 新聞をヌカれた側にすれば、小さな罪とも言いたくなかったが、黙っていることにした。

「就職した職場で、ときどき、商品を盗みたくなるんです」

「やったことあるの?」

「いえ、さすがにできませんでしたけど」

「それで?」

「神尾さんところの新聞をこっそりヌイていくと、気持ちがスッとして、職場ではそんな気持ちがおこらなくなったんです」

「それ、病気とちがいますか?」

 思い切っていってやった。カウンセラーじゃないんだから。

「そうかもしれません。もうひとりの自分が勝手に動きだすんです。物を盗んでやると、おとなしくなります」

 もうひとりの自分ではなくて、むしろ自分の中にいる他者だろうという気がした。

それに、手癖が悪いのは、その他者じゃなくて、自分だろう。さっきは、そうはいっていなかった気がした。

「いつから、もうひとりが現れたの?」

「十四歳くらいの頃からです」

「そいつが、盗めっていうの?」

「いえ、盗みたいのはわたし。盗んで、いそいでその場をはなれようとしているときには、わたし、ひとりきりになってる。あの人、どっかに隠れて出てこないから」

「でも、これから、うちの新聞を盗めなくなったら、困るね」

 なんだか相談ごとにつきあっているかんじになってしまった。

「来月から新聞やめるんだ」

「そうなんですか・・・」

 女は途方にくれたような顔をした。そのまえに、もっというべきことがあるだろうに。

 「物を盗んだりすると、しばらくあの人出てこないんです」

「出てくると困るのかな」

「はい、あの人がわたしのからだを支配しようとするから」

 多重人格というより、二重人格だな、と密かに思う。比喩ではなく、本物の病気での。

 


猫迷宮 85 

2011年04月08日 01時08分03秒 | 文芸

 咄嗟のことだった。なにを思ったのだろう。部屋のドアをあけて、通路にとびだした。まさか、あの女にこれまでの新聞盗難を問いただすつもりはなかったのに。というより、すこしまえに見た悪夢で懲りていた。それでも、体のほうが先に動いて、帰ってきた女の後姿でもみてやれくらいの気持ちだった。ときどき、そんなことがある。なんでそうしたのか、あとでわからないようなことが。

 通路に出て、アパートの奥のほうを見た。女はドアの鍵をあけているところだった。こちらがあわてて飛び出してきたのに気づかれてしまった。ぎょっとしたようにこちらを見つめている。それから、むこうもあわてたみいたに、鍵をガチャガチャいわせている。なんだか、手がふるえて鍵がうまく入らないみたいだった。驚いたにしても、アヤシイ素振りに見えた。やめておけ!と、心のうちで声がした。その声は、女のいるほうへ歩き出した自分をとめる声だ。やめておけ! あの夢とおんなじことになる。しかし、体がもう動き出してとまらない。

「ちょっと、あんた。まちなさいよ」

 と、夢とまったくおなじ声をかけている。やめておけ!

 むこうは、ようやくドアが開いて、中に逃げ込むかんじになっている。

「ちょっと、話があるんだけどな」

 まだ閉まりきっていないドアのノブを強引につかんでしまった。やめとけ! もうひとりの自分が必死に制している。あの夢では、女は「何なんですか? やめてください!」などと、かん高い声をあげだのだった。

 ノブをすこしだけひっぱると、女は上がり口に突っ立ていた。騒ぎ立てるでもなく、こちらを凝視している。

「あの、一号室の神尾ですけど・・・」

 すこし声をふるわせてしまった。用件をいってやろうとしたとき、女の部屋の上がり口に、新聞の山ができていた。うちでとっている新聞とおなじものだった。読んだようすはなく、きちんと積み重ねてあるだけだった。

「あの、これって、うちのですよね」

 否定されればそれまでだったけれど、ここまで来たら確かめたかった。反駁されたら、アヤマッテしまえばいいや、と肝をすえた。このアパートで、その新聞を購読しているのが自分だけなのは、販売店の主人に確かめてあるから、どんな言い訳ををするのか、嘘をつくのか。こちらは、もちろん、文句をいってやるだけだ。来月から新聞はとらないつもりなのだし。

 女はうつむいてしまった。夢に出てきた女のように気が強くはなさそうだった。黙ってうなだれている。本ボシなのか?

「あの、すいませんけど、新聞がちょくちょくヌカれていたんで、ちょっとね」

 こちらもすこし気おくれした物言いになった。

「困るんですよ」

 女はまだ口をきかない。こういうのは要注意だ。突然に悲鳴をあげて、こちらが変質者の濡れ衣を着せられてしまうことだってある。

「どうぞ、入ってください」

 と、女は顔をあげた。

「えっ?」

「中で話します」

 考えてもみなかった応答だった。

「いいですよ、新聞返してくれれば帰りますから」

 女はハイヒールを脱いで部屋にあがっていった。振り返って、「お返ししますから」と、そういった。

「これ、持って帰るだけでいいよ」

 すこし乱暴な口調になってしまった。

「よくはありません。あがってドアをしめてください。大きな声はこまります」

 女は畳の上に正座して、こちらが上がってくるのをまつふうだった。


猫迷宮  84

2011年04月06日 02時04分13秒 | 文芸

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「あれっ?」

 ようやく練馬のアパートにもどったとき、われながらまたまぬけな声をだしてしまった。郵便受けにも、台所の窓のサッシ枠にも新聞がひとつもはさんでないのだ。先月までは新聞代は払っていたのだからトメらたはずはない。配達分がたまっているので、誰かが気をきかせてとりのけてくれるようなアパートでもなかった。

 かたづかない気分で部屋にはいると、窓を開け放って空気をいれかえ、掃除をはじめた。ざっと畳を掃いて、テーブルの上を拭くぐらいのものだ。すきっぱなしだった布団を干すのは明日になってからだ。生ゴミがなかったのは助かった。ひとあたり片づけて、部屋のなかをみまわし、さて、ほんとうに部屋をでなくてはいけなくなったら、処分しなければならない物を数えてみた。衣類や食器も段ボールひとつにおさまりそうだ。折りたたみのテーブルなどは捨ててしまえと思う。使い込んだテレビも。そうなったら、世の中でなにがおきているかますますわからくなるけれど、流行りものなど知ったことではない。そうだ、もうすぐオリンピックがはじまるのだ。上野の飲み屋で小耳にはさんだまますっかり忘れていた。たぶんテレビでは見ないだろうと思う。事件や出来事をを新聞で読むのが好きなのだ。絶叫調のスポーツのアナウンスなんかごめんこうむりたいし、解説者がわきにいるとなおさらうっとうしく感じる。などとどうでもよいことを考えていると、アパートの通路を聞き覚えのあるヒールの靴音が通っていった。