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その年の四月の最後の週から五月にかけて、ぼくたちは正式な〈儀式〉から遠ざかることになった。儀式そのものは続いていたが、ほとんどが変則的なものだった。ぼくたちは策をめぐらせて密偵を四方に放ったのだ。
と、いっても八人のなかでそれにあてることができるのは半分がいいとこで、本当に四方にしか放てなかった。密偵の任務のひとつは、よその少年たちのグループに紛れ込み、彼らの儀式を妨害することだった。早い話が、彼らが捕らえてきた猫を過失を装って逃がしてしまうのだ。さらに相手が小人数の弱小グループのときは、祭司をのぞくぼくたち七人で急襲し、猫を奪取してしまうのだ。密偵はそこいらの工作を巧みにせねばならなかった。
密偵のなかでめざましい働ききをしたのは、追従屋のヒロシとヒロシが嫌っているうすのろのタツオだった。ヒロシはいくつものグループといつのまにか接触してしまい、彼らの集会場を正確につかんできた。そればかりか、それぞれのグループの大将にとりいって、新参のくせにすぐにはばをきかせるようになった。ヒロシがよその連中と歩いているのを見ると、どこまで彼の忠誠心がつづくか疑わしかった。
タツオには誰でも無警戒だった。タツオはどこのグループでも疎んぜられながら、それでもどこまでもついていって、決定的な瞬間に彼の任務を果たし終えた。猫はタツオの手からいともたやすく逃れ、タツオは放心したように仲間の非難を浴びて立ち尽くしたものだ。果たしてあれは演技だったのだろうか。自分にもほんのすこしでいいから猫にさわらせてくれと申し出て、爪をたてられて猫を逃がしてしまう。そんな失敗はぼくたちの儀式でも二度ばかりあったからだ。いったいにタツオはどういうつもりでこの儀式に加わっていたのかわからないところがある。儀式のために自分の猫のすべてをさしだしたくせに、よその猫だとひどく悲しそうな顔をして、最後に触らせてくれなどと未練がましいことをいう。あげくの果てに猫に逃げられてしまい、その償いのために倍の数の猫を捕らえてこなくてはならなかった。
その日、ぼくと弟は学校帰りにすこしばかり寄り道をして、公園の池を見にいくことにした。緑色の大きな亀がいると弟がいうのだった。亀なんてそう珍しいものではなかったが、甲羅の直径が三十センチといわれては見にいかなくてはならない。
公園の池のなかにいたのは、亀ではなくてタツオだった。池のまわりに、<馬>の手下の少年たちが嘲るような顔をして立っていた。
「おい、早くしろったら。いないのか?」
立っていた少年のひとりがじれったそうに池にむかって声をかけた。
「もうすこし深いところじゃないか」
別の少年が指図した。タツオはアオミドロのような藻でびっしり覆われた池の水をかき回し、底をさらって何かをさがしているようだった。
「いないよ」
と、タツオは情けなさそうな声をあげた。
「いるったら。もっとしっかりさがせよ」
さっきから盛んに命令している生意気そうな少年が言い放った。
「いないよ」
もういちど、タツオは泣きそうな声で呟いた。タツオのズボンは水草や藻でどろどろになっていた。水のなかに突っ込んでいる二の腕あたりまでアマゾンの半魚人のようになっている。また、猫を逃がしたのか、一番損な役まわりをさせられているのかわからなかったが、タツオが〈馬〉のグループに紛れこんでいるとは知らなかった。
〈亀だよね。亀を捕まえるんだ〉
ぼくのほうを見上げた弟の眼がそういっていた。しかし、ぼくのコブシがきつく握り込まれているのを見て、すこしおびえたような顔になった。彼の兄がそういうコブシをつくるときは、たいてい良くないことが起こるということを知っているからだ。タツオは池の半ばにある大岩のあたりにそろそろと移動していっている。火山岩のようにぼつぼつ孔があいている岩だ。その岩に手をつこうとしたとき、なにかを踏んで、ずるりと滑った。尻餅をつくまではいかなかったが不自然によろけている。「もうよせ」と、ぼくは思った。そして、ぼくがそう声に出していおうとしたとき、なにを思ったかタツオは池からはいあがってきた。
池の周りにいた少年たちも仕事を放棄してあがってくるタツオを非難しようとしていたらしかったが、ようすが変なので気味悪そうにみつめている。わけはすぐにわかった。タツオが右のくるぶしから鮮血を流しながら上がってきたからだ。池のなかに投げ込まれていたガラス壜のするどい破片がつきささったらしい。少年たちが、わっ、といって後じさりした。かなり深く切ったようで、手に負えないくらいどくどくと出血していた。
「知らねえよ。自分でやったんだからな」
さきほどまでうるさく指図していた少年が、そういった。タツオはどうしていいのかわからぬように、呆然と立っていた。タツオはこのまま死ぬかもしれない。誰か大人を呼ばなければ手に負えない。
つぎの瞬間、〈馬〉の手下たちはタツオを置き去りにして、わっと逃げ出した。するともうひとり、別の方角に走りだした者がいた。弟だった。弟は公園の管理人の事務所へ走っていったのだ。チビのくせにそういうところは機転がきく。
ぼくはタツオに声をかけて動くなといった。タツオは初めてぼくに気がついたらしく、「ああ」と力なく返事をした。その返事にすべてをこめているようだった。ボーイ・スカウトの連中が教えてくれた止血の方法をまねて、自分のベルトを足首にきつく結んでやった。止血のポイントを知らないのであとでそれが役にたたなかったことを知ったが、タツオは感謝するような眼でぼくを見ていた。
「痛いかい」
「わからないな。シビレてる」
タツオは足が痺れていることを盛んに訴えたが、出血のせいか長時間水につかっていたせいかはわからなかった。
遠くで大人の声がした。管理人らしい男が、どうした、と怒鳴りながら走ってくる。その後ろを弟がちょこちょこ追ってくるのが見えた。
「こりゃあ、ひどいな。医者へいって縫ってもらったほうがいいぞ」
管理人が落ち着い口調でいったので気持ちがらくになった。
「どこの子だ。友だちか?」
ぼくはその男の不精髭をみつめながら、いきさつを簡単に説明した。止血のやりかたをこれじゃあだめだといって直しながら、管理人の男は逃げていった連中のことを「ひどいやつらだな」と呟いた。「軍隊でもそんなやつはいたよ」
男が父親と同じくらいの年格好だった。父親はときおり、陸軍の内務班での経験を譬えに持ち出すことがあったからだ。たいていは、「そんなことでは、軍隊じゃ勤まらないぞ」という意味だった。それはすなわち父親がひどいめにあったということだ。
「近くの診療所へ行こう。それにしても汚いな、まず水で洗ったほうがいい」
管理人の男は傷ついた半魚人を背負って歩きだした。弟はそばについてタツオの傷を覗き込んでいる。止血が効いているのか出血はさきほどよりおさまっていたが、タツオの足首から下は蝋のように白くなっていた。そして、まるで儀式に連れていかれる猫のようにタツオは大人しく運ばれていくのだった。
タツオの傷は三針縫って、それでかたがついた。包帯を厚く巻かれて、診療所から出て来たタツオはこんなに病院で治療してもらうのは初めてだと感慨深げにいった。よく包帯を取り替えて傷口を清潔にしておくようにといわれたらしいが、彼の包帯はたちまちゲートルのような色になってしまった。
ともかく、ぼくたちの密偵はよくその職務を果たした。二週間もすると、あちこちにあったエセ教団に衰亡の兆しが見えはじめたのだから。もともと遊び半分の彼らがこの儀式に倦みはじめる時期ではあった。ひとつの流行が終われば、子どもたちはまた新しいはやりごとにむかって駆けだしていくのだ。ぼくたちはその時期に彼らの補給路を絶つことで決定的な打撃を与えたことになる。そしてこの工作活動はぼくたちにも教訓を残した。つまり、人の連帯というものがいかにモロイものであるかということだ。一匹の猫が逃げただけで仲間割れをおこした少年たちもいた。宿題の多い日には人数が集まらないグループもあった。ぼくたちのグループからはあの追従屋のヒロシがいつのまにか抜けていた。ヒロシは通りひとつむこうの町内の子どもたちを手なづけてそこの大将におさまってしまったのだ。祭司はそのことについては何もいわなかったし、ぼくたちもガレージのアジトに何故七人しか集まらないのか話題にしなかった。ただ、どこかの辻でヒロシのグループとゆきあうとき、ヒロシの瞳に浮かんでいる卑屈な光を見るのは嫌だった。よく事情がわからない弟はヒロシの名を呼んだりしたが、ヒロシは聞こえぬように手下の少年を連れて立ち去ってしまう。追従屋から親分になったヒロシは少しも愉しそうではなく、不機嫌で、子分たちに難題を押し付けるばかりだという噂を聞いたことがある。分に余る地位に就くことはかえってその者の苦痛の種になる、というのもぼくたちが新しく学んだ教訓だった。