17
なにもかも焦がすような夏がやってきた。
空調の壊れた事務所の湿度はあがりにあがって、体を動かすと、とろりと空気をひきずるような重たさがある。なに、それは気分のせいで、けだるいだけのことだとはわかっている。それでも、日が落ちればなんとか一日をやりすごしたようで、片づかない仕事を蛍光灯の下で開いてみたりもした。
炎暑のせいか誰も訪ねてこなかったし、こちらも外へ出ない。
八月がちかづいて、暇な季節がきたわけだ。丸尾印刷のほうも、二週間ほどして内山君が戻ってきてからは、営業でよばれることもなく、呼ばれなければ出向きもせず、うかうかとさらに一週間がすぎていた。電気料金の月末検針の通知が来て、あまりに安いのに呆れた。ほとんど基本料金だった。電話だっておなじことだ。こちらからはあまりかけたりしない。手提げ金庫の残金もわずかとあって、支払いが少なければほっとする。いつまでもつのかとも思わぬわけにはいかなかったが、いよいよとなれば、大曲泰蔵氏の家に下駄をあずけるしかない。こちらは二ヵ月あまり小遣い程度の収入しかない。九月にでもなれば、アパートを引き払わねばならなくなりそうだった。アパートを追い出されたら、このビルの一角を不法占拠してやれと腹をくくったり、不安になったり、すぐにまたそんなことを忘れたり、暑さのために考えはまとまらなかった。
ミドリちゃんが、ときどき食べ物を差し入れてくれる。そんなときだけ人心地がつくのだった。
「赤塚さん、まだ帰ってないんですか?」
と、夕方、大きな夏みかんをひとつ持ってミドリちゃんが階段をあがってきた。ミドリちゃんは、流しのところで、刃物をいれながら思い出したようにそんなことをいっている。柑橘類の清涼なかおりしてくる。
「うん、このあいだ旦那さんから電話があったよ」
「お家から?」
「いや、地方からみたいだった。公衆電話のコインが落ちるおとがしたからね。もう東北からは帰ってきているはずなんだけど」
「赤塚さんがお家にいないんですって?」
「電話にでないらしい」
「失踪かしら?」
赤塚さんが砂土原町にもう一軒家を持っていることはミドリちゃんには言っていなかった。旦那が帰らないので、砂土原町のほうに居つづけているのかもしれない。
「捜してくれっていってるの?」
「そこまで切羽詰まったようではなかったな」
「お金あずかったままなんでしょ?」
そういわれて、最後に会ったとき十万円の入った封筒をおしつけられたのを思い出した。返すつもりで手提げ金庫に入れたままだった。
「捜索もしないんじゃもらうわけにもいかないしね」
「捜してあげたら。あのお金、あると助かるんでしょ?」
「そうだね」と、曖昧に笑って、「あとでよく考えてみるよ。迷惑にならないといいんだけど」
「赤塚さんの?」
「うん」
ミドリちゃんは、なんだか釈然としないようだった。
「赤塚さんは猫みたいな人だからね。気が向かないと帰らないかもしれない」
ますますわからなくさせてしまったようだった。
「お金といえば、シラネアキラの封筒もそのままだな」と、話を変えた。
ミドリちゃんはそれには応えなかった。小さな皿にむいた夏みかんを盛り上げてこちらにくる。
「夏みかん食べると、子どもの頃を思い出すなあ」と、ひとりごとのように言う。
「そういえば、よく食べたな」
「皮が厚くていつも大人にむいてもらうの。むいてもらったのを頬ばると、ふるえるほど酸っぱくて」
そうだった。ほかの果物とはすこしばかりかってがちがった。食べたいとも思わなかったが、夏になると母親がむいてくれた。ひどく酸っぱくて、砂糖をかけてほしいというのだが、聞き入れられたためしがない。夏はこの酸っぱさが体にいいのだといわれて。
一房口にふくんで、あとはもういいような気がした。タバコに手をのばそうとしていると、ミドリちゃんがすぐそばにたっていた。すわっている膝のうえに乗ってきて、唇をかさねてきた。夏みかんの香りがする。そんな大胆なことは、ミドリちゃんらしくなかった。
「ねえ」と、奇妙なくらいねっとりした声でささやいた。「ずっとここにいてね」
どういう意味なのだろう。紅花舎を見かぎって転職したら、会えなくなるとでも思っているのだろうか。
ミドリちゃんは猫のようにひらりとからだをはなして、ちらりと振り返ると階段を降りていった。姿が見えなくなっても、ミドリちゃんのにおいが鼻のおくに残っているような気がした。
そのとき、電話が鳴りはじめた。
「はい、紅花舎・・・」
いつものように、はぎれよく応対する。電話の応対は陰気ではいけない、と大曲氏にさんざんいわれていた。誰のせいで陰気になるのやら。
「もしもし・・・」と、つづける。無言電話のようだった。つながっているのに、むこうがなにも話さないのだ。息づかいもしないかわりに、電話の周囲の雑音をひろっていて、数羽のカラスの泣き声が聞こえていた。
「あのお、電話がとおいのですが」と、いちおうそれは礼儀だ。
無言電話は根負けしたほうが切るのが〃作法〃というか、勝負どころだ。個人の家ならともかく、会社にかかってくる無言電話はこわくなかった。じっと聞き耳をたててしばらくまってやる。微かだが、相手の息が聞こえた気がした。また、鴉の鳴き声がした。受話器をぎゅっとにぎりしめたかんじが伝わって、プツリと切れた。
電話機の回線のぐあいが悪かったのなら、すぐにかけなおしてくるはずだったが、それっきり電話は押し黙ったままになった。