天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

猫迷宮  72 Copyright by Haruki Amanuma

2011年02月26日 01時38分48秒 | 文芸

                                                         17                                     

 

 

  なにもかも焦がすような夏がやってきた。

 空調の壊れた事務所の湿度はあがりにあがって、体を動かすと、とろりと空気をひきずるような重たさがある。なに、それは気分のせいで、けだるいだけのことだとはわかっている。それでも、日が落ちればなんとか一日をやりすごしたようで、片づかない仕事を蛍光灯の下で開いてみたりもした。

 炎暑のせいか誰も訪ねてこなかったし、こちらも外へ出ない。

 八月がちかづいて、暇な季節がきたわけだ。丸尾印刷のほうも、二週間ほどして内山君が戻ってきてからは、営業でよばれることもなく、呼ばれなければ出向きもせず、うかうかとさらに一週間がすぎていた。電気料金の月末検針の通知が来て、あまりに安いのに呆れた。ほとんど基本料金だった。電話だっておなじことだ。こちらからはあまりかけたりしない。手提げ金庫の残金もわずかとあって、支払いが少なければほっとする。いつまでもつのかとも思わぬわけにはいかなかったが、いよいよとなれば、大曲泰蔵氏の家に下駄をあずけるしかない。こちらは二ヵ月あまり小遣い程度の収入しかない。九月にでもなれば、アパートを引き払わねばならなくなりそうだった。アパートを追い出されたら、このビルの一角を不法占拠してやれと腹をくくったり、不安になったり、すぐにまたそんなことを忘れたり、暑さのために考えはまとまらなかった。

  ミドリちゃんが、ときどき食べ物を差し入れてくれる。そんなときだけ人心地がつくのだった。

「赤塚さん、まだ帰ってないんですか?」

 と、夕方、大きな夏みかんをひとつ持ってミドリちゃんが階段をあがってきた。ミドリちゃんは、流しのところで、刃物をいれながら思い出したようにそんなことをいっている。柑橘類の清涼なかおりしてくる。

「うん、このあいだ旦那さんから電話があったよ」

「お家から?」

「いや、地方からみたいだった。公衆電話のコインが落ちるおとがしたからね。もう東北からは帰ってきているはずなんだけど」

「赤塚さんがお家にいないんですって?」

「電話にでないらしい」

「失踪かしら?」

 赤塚さんが砂土原町にもう一軒家を持っていることはミドリちゃんには言っていなかった。旦那が帰らないので、砂土原町のほうに居つづけているのかもしれない。

「捜してくれっていってるの?」

「そこまで切羽詰まったようではなかったな」

「お金あずかったままなんでしょ?」

 そういわれて、最後に会ったとき十万円の入った封筒をおしつけられたのを思い出した。返すつもりで手提げ金庫に入れたままだった。

「捜索もしないんじゃもらうわけにもいかないしね」

「捜してあげたら。あのお金、あると助かるんでしょ?」

「そうだね」と、曖昧に笑って、「あとでよく考えてみるよ。迷惑にならないといいんだけど」

「赤塚さんの?」

「うん」

 ミドリちゃんは、なんだか釈然としないようだった。

「赤塚さんは猫みたいな人だからね。気が向かないと帰らないかもしれない」

 ますますわからなくさせてしまったようだった。

「お金といえば、シラネアキラの封筒もそのままだな」と、話を変えた。

 ミドリちゃんはそれには応えなかった。小さな皿にむいた夏みかんを盛り上げてこちらにくる。

「夏みかん食べると、子どもの頃を思い出すなあ」と、ひとりごとのように言う。

「そういえば、よく食べたな」

「皮が厚くていつも大人にむいてもらうの。むいてもらったのを頬ばると、ふるえるほど酸っぱくて」                               

 そうだった。ほかの果物とはすこしばかりかってがちがった。食べたいとも思わなかったが、夏になると母親がむいてくれた。ひどく酸っぱくて、砂糖をかけてほしいというのだが、聞き入れられたためしがない。夏はこの酸っぱさが体にいいのだといわれて。

 一房口にふくんで、あとはもういいような気がした。タバコに手をのばそうとしていると、ミドリちゃんがすぐそばにたっていた。すわっている膝のうえに乗ってきて、唇をかさねてきた。夏みかんの香りがする。そんな大胆なことは、ミドリちゃんらしくなかった。

「ねえ」と、奇妙なくらいねっとりした声でささやいた。「ずっとここにいてね」

 どういう意味なのだろう。紅花舎を見かぎって転職したら、会えなくなるとでも思っているのだろうか。

 ミドリちゃんは猫のようにひらりとからだをはなして、ちらりと振り返ると階段を降りていった。姿が見えなくなっても、ミドリちゃんのにおいが鼻のおくに残っているような気がした。

 そのとき、電話が鳴りはじめた。

「はい、紅花舎・・・」

 いつものように、はぎれよく応対する。電話の応対は陰気ではいけない、と大曲氏にさんざんいわれていた。誰のせいで陰気になるのやら。

「もしもし・・・」と、つづける。無言電話のようだった。つながっているのに、むこうがなにも話さないのだ。息づかいもしないかわりに、電話の周囲の雑音をひろっていて、数羽のカラスの泣き声が聞こえていた。

「あのお、電話がとおいのですが」と、いちおうそれは礼儀だ。

 無言電話は根負けしたほうが切るのが〃作法〃というか、勝負どころだ。個人の家ならともかく、会社にかかってくる無言電話はこわくなかった。じっと聞き耳をたててしばらくまってやる。微かだが、相手の息が聞こえた気がした。また、鴉の鳴き声がした。受話器をぎゅっとにぎりしめたかんじが伝わって、プツリと切れた。

 電話機の回線のぐあいが悪かったのなら、すぐにかけなおしてくるはずだったが、それっきり電話は押し黙ったままになった。

 


猫迷宮  71

2011年02月26日 01時37分11秒 | 文芸

           ∴

                                       

 病院の長廊下はしんと静まり返っていた。面会時間ではなかったが、すこしだけと断って内山君の病室にむかった。

「奥にエレベータがあるの」

 ミドリちゃんがさきにたって、リノリウムのフロアをぺたぺた歩いていた。五階建ての総合病院だったが、一階の待合室を通りすぎると看護婦も患者の姿も見えなかった。昼前だし、安静の時間なのかもしれない。回診がはじまっているはずだが、べつの階なのかもしれない。

「四階なの」

 と、またミドリちゃんがいった。エレベータのボタンをおしこみ、こちらを振り返った。

「あたし、こんな大きな病院はじめて。あんまり病気もしないし」

 めずらしそうに、あたりを見回している。

  こちらが霊安室にでも寝てたらそれどころじゃなかったろうな、と思ったが黙っていた。悪い冗談だ。

「病室は?」

「四○八よ。奥から三番目」と、いってからミドリちゃんはなにか思い出しようだった。「いけない、内山さんに雑誌たのまれたの忘れてたわ。地下の売店にいってくる。先にいって下さい」

 廊下を小走りにもどっていってしまった。

 降りてきたエレベータに乗り込んで「4」のボタンを押しこむ。すうっと持ち上げられた感じがして、ほかの階にはとまらず、すぐに四階に停止した。扉が開いて、四階のフロアーに出た。いれちがいにエレベータに入っていく者がいた。子どもだった。いや、少年だ。エレベータのなかに入ると、くるりとこちらに振り返った。その瞬間に扉が閉まった。顔は見えなかったが、こちらを見たのだけは感じた。

「あっ」と、思ったがもう遅かった。エレベータは下の階にむかって降りていってしまった。あの少年、もしかしたら、と思うのだが、追いかけるわけにもいかなかった。エレベータが移動していくランプが一階からまた上昇してきた。

「あら、まだ病室にいってなかったんですかあ」

 ミドリちゃんが雑誌をかかえて出てきた。

「行こうか」

「はい」

「下で誰かに会わなかった? 子どもが一人降りていったけど」

「子ども?」

「うん。小学生だな」

「誰も乗ってなかったわ。途中で降りたのかしらね」

 確かまっすぐ一階までいったはずなのだが。

「どうかしたの? 狐につままれた?」

 ミドリちゃんが、また古臭いことをいうので思わず苦笑いした。

「またツママレたらしいよ」

 なんのことがわからないらしかった。いましがたすれ違ったのがシラネアキラらしいなどといえるわけもない。そんな気がしただけなのだ。しかも、途中の階で降りたようだ。

「ここよ」

 ミドリちゃんは怪訝そうな顔をしながら、内山くんの病室のドアをそっとあけた。

 内山君は片手を吊った姿でベットに起き上がっていた。携帯ラジオをイヤホーンで聞いていた。

「神尾さん、すいません。とんだ目にあっちゃって」

 イヤホーンを耳からはずし、すこし大きな声で挨拶した。すぐに、変だとわかったらしく、声を落としてスミマセン、とくりかえした。

「さきに帰したのがいけなかったね」と、いうと。内山君は自由なほうの手を団扇のように大きく振ってみせた。

「運がなかったです。ほんのすこし、早いか遅いかですよ。一回の信号待ちが入ったらきっと相手のトラックに出会わなかったはずだし。交通事故って、ほんとそんなもんです」

  それでも、ぶつかるときはぶつかってしまうのだ。

「ほんと、怖いわ」と、黙って立っていたミドリちゃんが持ってきた雑誌と新聞を内山君に手渡しながらそういった。

「相手のほうは怪我もしなかったんですよ。午前中にもう一度現場検証に立ち会ってるみたいです。両方の助手席どうしがメチャクチャでしたけど」

「むこうも一人?」

「ええ、長距離一人旅ってやつですよ。なんかハデなデコつけてたなあ」

 内山君は明日まで入院しているという。ほんとうは今にも外に出たいらしかった。今日の午後に精密検査の結果が出てから《釈放》されるのだ。

「丸尾社長がしばらく休んでいいって言ってたから、ちょうど行きたいとこがあったんで、まあいいかって」

「病気じゃないしね」

「寝てても起きてても回復には変わらないでしょ」

「どこへ?」

「都下の市営球場ですよ。高校野球の地方予選が始まってますから」

「野球かあ」

「そうです、甲子園なんかより、予選のほうが面白いんです。今もラジオで聞いてたんですよ」

「二回戦で負けても泣くよね、高校球児は」

「それで引退ですからね。短い夏です」

 内山君はなにか思い出しているようだった。

「さっき誰か病室をのぞかなかった?」

 やはりシラネアキラのことが気になって、聞いてみた。

「子どもがひとりドアをすこしあけてたな。部屋間違えたんじゃないですか」

「どんな子?」

「小学生の男の子だったな。パジャマじゃなかったから患者ではないし。そういえば、学校のある時間ですよね。それから、むかいの病棟の屋上から猫がこちらを見てたな」

「猫が?」

「ええ、白いやつ。ノラにしてはいい毛並みしてましたよ。なんで病室なんかのぞきこんでたのかなあ。こっちの屋上にハトかスズメでもいたんでしょうかね」

 内山君はもらった新聞のほうに眼を落とした。みるからに退屈そうだ。

「映画も観にいこうかな。『ダーティ・ハリー』の新作来てるんですよね」

「好きなんですか、映画?」

 ミドリちゃんが、はじめて会話に入れて嬉しそうだった。

「イーストウッドのファンなんです。それに、どでかい銃を使うでしょ。こんどのなんか、44オートマグナムってすげえの撃つらしいんです。七連発だって」

「七連発って中途半端だな」

「ですね」

 また話題にはいれなくなって、ミドリちゃんは黙りこんだ。男の人ってヘンという顔をしている。

「暴走トラックだって撃ち抜いちゃいそうな勢いですよ」

「アブナイね」

「アブナイっすね」

 内山君との話はいまひとつもりあがらなかった。

 三十分ほどして、ミドリちゃんとふたりでエレベーターに乗って降りていく。ふたりとも考えているのは同じことのようだった。

「やっぱり、あの子、ここにも来ていたようですね」

「気味が悪いね。なんのつもりかな」

「神尾さんにつきまとっているんですよ」

「なんで?」

「わかりませんけど。ただの人探しじゃなさそう」

「でも、ぼくが事故ったかもしれないって、なんでわかるのかな」

「超能力?」

 と、いって笑っている。超能力なんかがあれば、興信所なんぞに依頼するわけがない。それも低能力の興信所に。                         

 病院を出ると、だらだらとした坂道だった。自然に足ばやになって、無言で駅へ歩いていると、ミドリちゃんが腕をつかんだ。

「ほら、あそこ」と、指さした。

 さきにある電柱の陰に白い尾が消えていくところだった。ミドリちゃんは、そいつが道を横切るのを見たのだ。同じように歩いていたが、こっちはまるで気がつかなかった。

「白猫だね」

「なんだかあの子、神尾さんのことつけまわしているようにもみえるわ」

 ミドリちゃんは、そういってこちらの顔をしげしげとみつめた。

                  


猫迷宮  70

2011年02月26日 01時35分38秒 | 文芸

                                     

  銭湯へゆく元気もなく、アパートにもどったなり布団にころがりこんで、たちまちひきずりこまれるように眠ってしまった。眠りというより、なまぬるい水のなかだ。水草をさかんに繁茂させ、緑の水をふんだんにたたえた沼のなかにだ。

 その水をくぐって、ふと浮かんだように、夢のなかにでた。

 見知らぬ家の奥座敷で、寝ていた。夜更けにわけあって、にわかに泊めてもらうことになったのだとは合点している。自分が追われていて、かくまわれているのだという気もしていた。家の主は女だった。顔は見えないが、襖のむこうから声をかけられ、朝まで部屋にいるようにといわれた。

 ほどなく、その家の玄関がたたかれて、訪ねてきた者がいた。また、女の声が襖のむこうからした。

「出てきてはだめよ」

 引き戸があけられ、女が応対する声が遠くきこえる。

 二部屋ほどへだてた居間のところに人が入ってきた気配がする。低い声でなにか言っている。男だった。

 誰かは見えないはずなのに、襖を透視しして居間のようすが見えた。男は、夕方に池袋の飲み屋にいた男だった。開襟シャツの袖口から這い出ている刺青が同じだ。体つきはわかるのだが、顔がよく見えない。

「今日はお仕事じゃなかったの」

「ああ、このあたりで終わったんだ」

 と、懇ろな男女の会話になっている。自分がここに隠れているのが、ひどくまずい状況だと思う。しかし、身動きはならない。抜け出すにも勝手がわからない。

 女は開襟シャツを脱いだ男の背をぬれたタオルでふきはじめた。たくましい背中いっぱいに双頭の龍の彫物があった。ふたつの龍の頭が背の左右で睨み、胴から尾が肩口から二の腕にまで続いている。

 気押されているところに、さらに重ねてまずい事態になっていく。男女の情交がはじまってしまったのだ。女はこちらを匿っているひけめからか、いやともいわず男の勢いに従って、受け入れていた。唐突で激しい情交のために、部屋が揺れて、その震えがこちらにも届いてくる。自分は、なんだか檻のなかの野獣の交尾を見ているような気分で、それを見ていた。

 あたりがまた、ふっと暗くなって、音の世界だけになった。この夢もそろそろしまいだ、と納得しはじめている。いつか、こんなことがあったな、と思っている。

「あっ」と、おんなの甲高い声がし、体をよじらせて転げた拍子に、襖にぶつかったような物音がした。その瞬間、目が覚めた。

 転げたような音に思ったのは、実際アパートの部屋のドアをたたいている本当の音だった。

 とんとん、とんとんとん。

 何時だろうかと、目覚まし時計のほうへ寝返りをうつ。朝の七時前だった。

「神尾さん、神尾さん・・・」

 ミドリちゃんの小さな声がした。ミドリちゃんにまちがいない。朝一番で訪ねてきたのだ。とび起きてドアをあける。

「神尾さん」と、ミドリちゃんが、泣きそうな顔をして立っていた。

「神尾さんたら・・・」

 とびこんできて、抱きついた。

「死んじゃったかと思ったわ」

 なにか言おうと思うが、言葉がみつからなかった。死に損なったとはいえ、本人としては、道に迷いながら帰ってきたらそんなことになっていたのだ。

 ミドリちゃんは、病院に着くまで、トラックの助手席が大破したということだけしか聞かされていなかったのだという。それは、婉曲に「神尾さんはだめだった」ということをいっているのだと思ったという。

「よかった」と、いってミドリちゃんはまた泣きはじめている。

「ここがよくわかったね」と、すこしずれたような物言いしかできなかった。

「所番地で見当をつけたの。歩いてきたけど、近かったわ」

「心配かけたね」

「だって、丸尾社長たら、ほんとに覚悟しとけみたいなことをいって、わたしと奥さんを送りだすもんだから。病院で内山さんは麻酔を打たれて眠っていたし。もうひとりは、て聞いてしまったわ。看護婦さんに、トラックに乗ってらしたのはこのかただけですよ、と言われたときはなにがなんだか」

「そうなんだ。トラックをさきに帰してしまったからね。帰り道に夕立に遭って、てまどったし。電話をいれりゃよかったね」

「ほんと、ほんとに」

 自分のようなものでも、事故に遭わなかったことを心から喜んでいくれているのが嬉しいような、申し訳ないような気になってきた。

 ミドリちゃんは、またしっかりと抱きついてきた。汗をかいて、甘酸っぱい匂いがする。そのまま抱きすくめてしまいたいような衝動にかられたが、静かに髪を撫でてやるだけにした。はや強い日差しが射しこんできて、今日一日すべきことを思い出させたのだ。

「病院にいかなきゃね」

 ミドリちゃんは顔をあげてうなずいた。

「内山さんの着替えを持ってくのを頼まれてるの。社長の奥さんは警察のほうに行くって」

「じゃあ、いっしょに行こう。目黒の近くだったよね」

 こっくりしたあとで、ミドリちゃんは、ふいに力がぬけたような表情をした。

「どうした?」

「お腹がすいちゃったわ」

 きまり悪そうに笑ってみせた。

「駅のちかくでなにか食べような」

「はい」

 と、いつものような素直な返事がかえってきた。

 


猫迷宮 69

2011年02月26日 01時34分16秒 | 文芸

 

  路地をまわって紅花舎の社屋のまえに出る。戸締りをして、すぐに外に出た。シャッターをおろしていて、ふと自分の自転車が気になった。自転車をゆっくりこいで帰りたい気分だった。このあたりでも一雨あったらしく、だいぶ涼しくなっていた。路地にたてかけておいた自転車はどこにもなかった。誰かに乗っていかれたらしい。もとよりカギなどついてはいない拾った自転車だ。いつ盗まれてもしかたがない代物だったが、ずいぶん長いこと重宝していたものがなくなるのはイタかった。環八で死に損なったのもいやな気分だったが、それに自転車までなくなっている。軽トラに乗せてもらい賃を千円はらったこともいまさらのように愉快ならざることのように思い出す。三つ悪いことが重なったから今日はこれでしまいだろう。いつだったか、母親が二つ悪いことが続くと、わざと古い湯呑み茶碗などを流しで壊して、厄払いしていたことがあった。地下鉄の本郷三丁目駅の方角にとぼとぼあるきながら、そういう厄払いのマジナイをいつく知っているか数えてみた。エンガチョ切りや、ナンマンダブツの呪文はさすがにやらないが、自分なりに験なおしの仕草は持っている。右足から歩きだすとか、いつもの道をわざと使わないとかはやってみる。ただし、通りすがりにある祠に賽銭を投げ込むようなことはしない。ついで参りはかえって神にからまれそうで嫌なのだ。

 ホームにすべりこんできた赤い車両の二両目に乗り込む。網棚の新聞は朝刊だったが、池袋までの暇つぶしにはなる。九時をすぎた地下鉄はすいていて、腰をおろして新聞のページをめくった。

 

  池袋で降りた。

 西口ちかくの居酒屋の戸口にふらりと入り込んだのは、そのまま帰りたくなかったからだ。ひとりで飲み屋にはいることなどついぞなかったが、験なおしのつもりなのだ。今日一日、本郷を出発してから、どこがどうなって今にいたったのか、自分の部屋にもどるまえにきちんと反芻しておきたかったのだ。それも、シラフで反芻する気にはなれなかった。

 どこでおかしくなったのか。道に迷ったきっかけがタバコ屋からのことか、それとも内山君のトラックを帰してしまったときからか。

 ビールとやきとりを頼んでしまってから、ほうけたように店の壁にかかったポスターを凝視した。水着の女の子が笑っているビール会社の宣伝だ。彼女の背後に沖縄の海が広がっている。海の色がライトブルーからマリンブルーにグラデーションしていく。そのライトブルーの色調が、あの神社の参道をのぼっていく少年宮司の袴の色を思い出させた。白根晃。いったいなんのつもりなのか。そのほそい首ねっこをつかまえて、問いただしてやりたい。いったいなんのつもりなのか。

 ビールがきた。

 どこでおかしくなったのか。今日一日だけのことではない。ビールをグラスにそそぎながら、もういちど問いかける。そもそも、投げやりな転職人生が、こんな場所に自分を連れてきたにはちがいない。いかげんに振ったサイコロの目のままに、スゴロクのうえを進んできたからだ。そのスゴロクというのが、盤上の遊戯のように道筋があるものならまだしも、自分が進んでいるのはまさしく迷路のスゴロクのようだ。自分がどこに連れていかれるかかいもくわからない。それでも、サイコロだけは自分で振った思いはある。どんな目がでるかはしらんが、自分は盤上のゲームのような人生の岐路で賭け事のような選択をしていた。我ながら殊勝な覚悟とも、意地ともみえるのだが、自分で選んだ結果だといわなくてはならない。あのいかがわしい社長にしろ、いかがわしい会社にしろ、捨ててしまおうと思えばとっくに放棄できたのだ。また、どこかの倉庫番にもどってもかまいはしなかった。

「おにいさん、ちょっとすまないな」

 と、後ろをすりぬけ、カウンターの奥に座り込んできた者がいた。ガタイのいい、みるからに筋者らしい風体の男だった。柄物のシャツの袖口から二の腕に彫物が黒々とおりてきていた。龍の鱗に唐草がからみついているような模様が見えた。常連らしい物言いで、腰をすえると、冷や酒をコップで誂えた。店主が愛想をいっている。はなから聞いていないようすで、「う」と、うなるような返事をすると、ハイライトをくわえて火をつけた。そちらを見ないようにしながら、いそいでビールをあおった。しばらくすれば、ああいう連中が二三人はいってくるにちがいない。一人で呑むような男ではなかった。男が入って来ただけで、店のなかの空気がはりつめたようだった。家畜の小屋に、獰猛な野獣がのそりと入り込んできたようだ。

「あと一人連れがくるよ」

 と、酒を運んできた店主にいったきり、灰皿をひきよせて煙草の灰を落とし、じっとそれをみつめている。なかなか酒に口をつけない。

 こちらが、ヤキトリをたいらげた時分に連れがきた。予想に反して、みすぼらしい初老の男だった。さかんに頭をさげながら、男のとなりに腰をおろした。この暑いのに、ネズミ色のよれた背広を脱ごうともしない。

「呑むか?」と、男がいっている。

「いえ、どちらでも」と、遠慮がちに返事が聞こえてきた。

「まあ、呑んでもいいさ」

 と、いったなり、男は自分のコップに残った酒をカラにした。ビールを追加してから、ようやく本題にはいるようすだった。

「それで、どうなったんだ」

「はあ、昼間電話しましたあとで、すこし・・・」

「できたのか・・・」

 言葉のしまいのほうは聞き取れなかった。金のことだか、品物のことだかわからないが、聞かれたほうは「耳をそろえてはできなかった」と詫びている。

「まあ、しょうがないけどな」

 男は低い声で、怒るふうでもない。静かに話しているが、かえって凄味がある。なんだか、もう聞きたくない話だった。

「蒲田のほうへはいってみたかね」

「はい、ひととおりは」

「まわるだけは、やっときな」

「はあ」

 こういう展開をいつか傍で聞いたことがあった。やはり似たような組み合わせで、静かに呑んでいた男たちの片方が、突然、声をあらげてスゴミだすのだ。なにか、ひとつ言葉尻が気に食わなかったらしく、まるで人が変わったように怒鳴りつけた。校正をした心理学の本に、《情緒ゲキヘン》という言葉があった。それをまのあたりに見たような気がした。男の静かさが、そのゲキヘンのまえぶれのような予感がする。男が酒をあおるスピードも異様にはやい。だまって、次々にグラスをからにしていく。ビール二本がたちまちカラになっていた。背広の男のほうは、もっぱら酌係のようでもある。

「だから、蒲田のほうをもっと押してみろ」

 もういちど、低い声がした。蒲田というのが、地名なのか人名なのかはわからなくなった。そんなことはどうでもよかったが、はやくビールを飲みおえて店を出たかった。交差点からぬっと現れる暴走トラックも災難だが、いつか激変しそうなヤクザ者の隣にいるのも災難だろう。おい、さっきからヒトの話を聞いてんじゃねえぞ、などと因縁をつけられそうだ。亡くなった母親がよく「かかわりあいになっちゃいけないよ」と、口癖のようにいっていたのが思い出された。世の中はかかわりあいでできあがっているけれども、悪因縁だけは御免だった。

「だから、さっきからいってるだろう。オレやオジキの立場を考えてるのかってことだぞ。蒲田がだめなら、もっとそのまわりをあたらないとな」

 男の語気がすこし強くなった。いよいよ潮時かもしれない。もうひとりは、声をあげずにうなずいているばかりだった。話は金のことばかりではなさそうで、何かを探しているようでもあった。二の腕の鱗の入れ墨が男の所作といっしょに動くので、大きな蛇が鼠でもしめつけにかかっているような感じがする。

「五十と四十にわけろよ」と、また男。

「はあ」との返事。

 二本のビールがはやカラになっている。

「オヤジ! 酒! おんなじものな」

 と、こんどはすこし明るい調子で店主に声をかけている。

 奥からビールが運ばれてきたタイミングでたちあがった。千円にもならない勘定を投げ出すように支払っておもてに出た。なんの気持ちの整理にもならなかったわけだ。 空耳だろうか、店からはなれて歩きだした後ろで、ビール瓶がコンクリの床で砕けたような音がした。空耳であるわけはない、ガラスが砕け散った音だった。

                              

             


猫迷宮  68

2011年02月26日 01時33分20秒 | 文芸

            

                                         

 本郷界隈にたどりついたときには八時をすこし回っていた。集金した金もあるので、丸尾印刷には顔をださねばならない。その日のうちに届けておいたほうがよいにきまっている。社長もそんなには体調がよくないのだから飲んではいまい。飲んでいたら、奥さんに渡してしまえばいい。

 丸尾印刷の二階の事務所にあがっていくと、社長は飲んでいるふうでもなくデスクのむこうに座り込んでいた。こちらの顔をみると、一瞬ぎょっとしたようだった。

「神尾くんよぉ」

 と、安堵とも困惑ともつかぬ声をしぼりだしている。

「どうかしましたか」

「内山が環八のちかくで事故ちまってさ」と、また一息ついた。

「事故?」

「そうだよ、大型トラックが左折してきてさ、直進の内山のトラックにそのままつっかかっちまったらしい」

「で、内山君は?」

「運転席のほうはたいしたことなかったらしい。そんでも、頭と首をやられちまって、救急車さ」

「重傷なんですか?」

「いや、さっき自分で電話してきたよ。打撲に鞭打ちくらいですんだらしい。いまかみさんと島ちゃんが病院に行ってるんだ」

「どこの病院ですか?」

「目黒のちかくだっていってたな。まだ、くわしいことは知らせがないんだ」と、丸尾社長はいった。「それよか、神尾君、危なかったなあ」

「はあ」

「はあ、じゃないぜ。助手席はメチャメチャに潰れちまったって話だよ。誰か乗ってたらまちがいなく即死だってよ。よくまあ・・・」

「・・・ですね。手間どりそうだったので、先に帰ってもらったんです」

 社長は、こちらが九死に一生をえたとでも思い込んでいるようだ。

「警察からの一報だと、神尾君も同乗していたような感じだったから、てっきりダメかとな。なにしろ、車は助手席が大破してますなんていってやがった」

 こちらがあまり驚いていないのが不満げのようすだった。

「まあ、なんだ。そのうち怖くなってくるさ。相手はかなり無謀運転だったらしいからな」

 安心したせいか、社長はいつもより能弁になっている。内山君と帰るとしたら、もっと後の時間帯になるから、そのトラックとも出会わないはずだが、そういう冷静な判断はおいておくのがいい。

「死に損ないましたね」

「まったくだ。とんでもないことになるところよ。内山だってしばらくは使いもんになんねえよ」

 電話が鳴った。社長はとびつくように受話器をとった。

「おう、神尾くんは今帰ってきたとこだ。死に損なって声もでやしねえよ。内山は? 入院か。左手首にもヒビがはいってる? まあ、それだけで済んだから不幸中の幸いだな。おまえ、これから警察にまわるか? うん、そうか、明日な。わかった。もう遅いから神尾くんにも帰ってもらうよ。・・・それも明日でいいんだろ? うん。島ちゃんも帰してやんな。おう、おう、ご苦労さん・・・」

 あらためて聞くまでもなさそうだった。内山君はしばらく入院。事故処理や警察での手続きは明日ということらしい。

 丸尾社長が、ほうっと一息ついているのを見計らって、

「あの、これ、集金分です」と、入金を差し出した。

「あ、そうか。それか」と、札の入った封筒を受け取った。

「請求書どおりです」

「うん」

 中身を確かめようともせず、手提げ金庫にほうりこんでしまった。

「まったく、これが香典にならなくってよかったぜ、神尾くんよぉ」       

 金庫の蓋をしめながらそんな軽口が出た。

 当面運転手がいなくなる。こちらは免許がないから、どうにもならないが、ますます手が足りなくなって、紅花舎の業務どころではなくなるはずだった。

「で、どうします?」

「う?」と、丸尾社長はそこまで考えがまわっていないらしい。

「明日からの納品やなんかは?」

「ああ、月末から来月あたままでは小口ばかりだから運送屋に頼めるだろう。でも、なんやかや面倒なことがありそうだから、明日からこっちに来てくれないか。紅花舎のほうは閉めといてもかまわだろうさ」

 丸尾社長は唾をゆっくりのみこんでから、またこちらをのぞきこんだ。

「こっちも明日は病院だよ。いつものな。検査の結果によっちゃあ半月くらい入院だとさ。なに、入るつもりはないけどね。ここんとこ酒は控えてるし、食事にも気をつけてるからなあ」

 自分にいいきかせているような口調だった。

「ああ、そういやあ、島ちゃんがいってたけど、夕方ちかくに紅花舎の電話が鳴ってたっそうだぜ。事故の知らせを聞いて、とりあえず神尾くんの連絡先なんかを調べにやらせたのよ。そしたら、電話が鳴っていて、受話器をあげたらきれたんだと」

 思い当たるふしはなかった。公共料金の払い込みは金のつづくかぎり律儀にやっているし、請求のくる予定もなかった。

「新規の客であるわけもねえよな」

 厭味とも冗談ともつかないことをぼそりといってから、丸尾社長は奥にあがっていってしまった。

「じゃあ、明日来ます!」

 と、その後ろから声をかけて退散することにした。

「おう」と、小さく返してよこした。

 それで今夜はしまいだった。


猫迷宮 67

2011年02月26日 01時32分20秒 | 文芸

 神社の杜をあとにして、車道に出る。そのまま右に折れて、しばらく歩くと、タバコ屋があった。店番のお婆さんがいるので、販売機でなく店に入って道を聞くことにした。

「ハイライトひとつ」

「あい」

 と、いって、すっとパッケージを押してよこした。千円札をだす。ツリをだしてくるタイミングで道をたずねるつもりだ。

「すいません、いちばん近い駅へはどう行ったらいいですか」

 駅はどこですか、と短く聞けばよかったかもしれない。長いフレーズだと、相手が理解するのに時間がかかる。いちばん近い、ということにこだわって、混乱することもある。

「ええと、駅ねえ」と、やはり考えこんだ。釣り銭をてのひらにのせたまま、固まっている。「駅はねえ」

 釣り銭に意識がもどって、はい、とこちらによこした。

「だいたいでいいんですけど」

「ええと、この道をまっすぐいって、鉄塔があるあたりを左に折れてください。そのあたりでまた聞けば、わかりますよ」

「遠いですか」

「そうだねえ、あたしはいつも車にのっけてもらって行くだけだから。娘の家に行くときだけね。蒲田のほうだけど」

 駅まではかなり遠いらしい。

 どうも、と礼をいって店をでる。                      

 歩きだして、お婆さんのいっていた鉄塔をさがした。至近距離の畑のなかに高圧線の鉄塔が立っているが、まさかこれではあるまいと、次の鉄塔をめざしていくことにした。だが、高圧線は道を斜めに横切って続いていて、道をまっすぐいったところにはそれらしきものがなかった。それでも、線路の走っている方角にまちがいはないので、線路につきあたればそれに沿って歩けばいい。遠回りになるかもしれなかったが、タバコをふかしながらのんびり歩いてやれと思う。バスでも走っていればと思うが、幹線道路でもないし、もうすこし交通量のあるところに出なくてはなるまい。

 呑気にかまえていたのがいけなかった。いけどもいけども、鉄塔などなかった。ひょっとしたら、最初の鉄塔のことをいっていたのだろうかと臍をかむ思いがした。大げさなようだが、失敗した予感がする。なんだか、畑がだらだら続き、その先は農家のような屋敷杜が見えている。あんなところに駅はあるのか。

 時計を見ると、十五分は歩いたようだった。道は両側に生け垣がある大きな農家のあいだに入っていった。数軒の農家をすぎたあとで、小さな神社にでくわした。その隣に町の消防団の倉庫があり、その隣に昔懐かしい火の見櫓の鉄塔が立っていた。鉄塔? タバコ屋のお婆さんのいっていたのが、火の見櫓のことだとしたら、この辺りのことをいってたいたことになる。鉄塔などといわずに、火の見櫓といえばいいのだが、お婆さんの語彙のなかにその言葉がなかったのかもしれない。確かに鉄塔は鉄塔だ。しかも、その先に十字路があり、左折することができる。曲がるしかなさそうだった。折れても、さきほどの道と大差のない田舎道にかわりはなかった。ただただ先が長い。誰かに聞くにも、人影がない。わざわざ辺りの家にはいって道案内を乞う気力もなかったので、かまわず左折した道をどんどん行くことにした。

 そこから、さらに十五分ほど歩いて、いよいよヤケクソになってきた。人家が途絶えて、道はただの農道になっており、農道のつきあたりがなんと用水路になって途絶えていた。行き止まりということだ。浅い流れの用水路を見下ろして、いつもながらの自分の適当さが可笑しくなった。やれやれ、また迷子か。迷子になったとたん、喉の渇きがひどくなった。あのタバコ屋でジュースでも買えばよかったと思う。あたりには、自販機はおろか、なにかの店さえもなさそうだ。とにかく引き返すほかはない。 

 火の見櫓まで引き返し、小さな神社の境内にはいりこんで、水道をさがしたが、水の出るところはなかった。日陰にペンキのはげたベンチがひとつ。思わず腰を下ろして休むことにした。胸ポケットからハイライトをとりだして、封を切った。新しいたばこの匂いですこしは元気が出るような気がしたのだ。ライターをさぐりあて、火を点ける。辛くて重い煙が舌にしみた。なにをしてるのだろうとひとりごつ。ベンチにひっくりかえって、しばらく休みたいくらいだ。

 二本目のタバコをふかしていたとき、目の前をトラクターで過ぎていく人がいる。近くの農家の人にちがいない。

 あわてて、トラクターに歩みよった。もとより、のがしてしまうほどのスピードではなかったが。

「すみません、駅に行きたいですけど」と、声をかけた。乗っていた男は、トラクターをとめた。別に怪しむふうでもなく、農協のマークのついた帽子をすこし持ち上げてみせた。

「駅ねえ。駅ったって、あんた。ずいぶん遠いよ。三、四十分は歩くな。ほれ、この道をまっすぐいって、鉄塔があるでしょ。そう、高圧線の。あのあたりで、右のほうへ行くと県道があるから、そこのバス停まで行かなきゃね」

「え」と、いって息を呑みこんだ。すべての原因は、お婆さんのいった「まっすぐいって」にこだわったからだった。

「遠いわなあ」と、トラクターの男はもう一度そういった。それから、すこし黙っていたが、「ちと、待ってみな。隣の家がこれから軽トラで町まで行くっていったてから、乗せてってもらいな。聞いてみてやるよ」

 トラクターが始動した。同じ速度で後に続いた。

「俺もあそこんちに買い物頼むことになってるからね」

 と、親切そうな物言いだ。

 男はトラクターを垣根のわきにとめると、目の前の農家の庭先に入っていった。のぞき見ると、なるほど幌付きの軽トラックが一台とまっていて、ランニングシャツ姿で、クビにタオルを巻いたその家の主人らしい男が荷台にダンボール箱を積み込んでいた。トラクターの男は、なにか話していたが門外に立っているこちらを手招きした。

「駅まで乗せてくれるとよぉ。千円でいいってなあ」

 親切だが、金はきちんととるつもりのようだ。

「ガソリン代だあね」

 トラクター男はそういうと、すたすた出ていって、トラクターの発動機をかけると、カタカタと先に走り出ていってしまった。

「すみません。よろしくたのみます」

 そういって、財布をだそうとすると、その家の主人は、

「あとでいいよ。どうせあのオヤジサンの飲み代だからね」

 と、タオルで汗をぬぐった。                        

「まあ、いいやね。だいぶ雲が出てきたから早めに出かけたほうがいい」

 軽トラの助手席のほうにあごをしゃくってみせた。

「お願いします」と、頭をさげて乗り込んだ。

 バタンと運転席のドアをしめると、男はタバコをだしてくわえた。

「仕事かね、こんなところへ」

「印刷屋なんです。この先の神社の社務所に来たんですが、乗ってきた車をさきにかえしちゃったら、帰り道がわからなくなって」

「田舎の道は遠いからね。俺たちだって、ほとんど歩いてでかけるなんてことはないよ。神奈川ったって、ここは東京とはちがうんだな」

 タバコには火をつけずに、エンジンをかけ、軽トラは走り出した。屋敷杜のあいだを無茶なスピードで走り抜けていく。さきほどのトラクターはどこにもみあたらなかった。

「神社っていったけ」

 と、しばらくしてから、たずねてきた。

「あの山の上ですけど」

「さあてね。鎮守様は無人のはずだがな。社務所っていったけど、あれはほかの宗派の事務所だよ」

「はあ」

「何年かまえから、どこかの宗教法人のプレバブが建って、人の出入りはあるけど、俺たちとは関係がないよ。うちらは鎮守様の氏子だからね」

 高圧線の鉄塔の下までくると、軽トラは右折して、バイパスにむかっていく。車ではたいしたことはなかったが、歩いたらそうとうの距離になる。

「東京の印刷屋さんかね」

「本郷です」

「へえ、そんなところから」

 べつに驚いたようすでもないが、言葉だけはそんな言いようだった。

「でも、あんたいいときに拾われたよ。ぐずぐずしてたら、あんなところで雷に逢うところだ」

 前方に迫ってきた灰色の雲のなかで稲光が始まっていた。神社の坂を下りはじめた頃は、はるかかなたにあった雲だ。本格的に降ってきたら、もらったビニール傘では心もとないようだった。

「来るね、このぶんじゃ。ダーッっと来るな」ハンドルを切りながら、男は空をにらんでいた。フロントガラスにポツポツ雨粒が落ちてきている。

「バイパスに乗ればじきだがね」

 天気の話をひととおりしてしまうと、男はだまりこんだ。もう共通の話題もないわけだ。

「あの、悪いんだけど」と、町が近くなってから、男はちらりと横を見た。「商店街の入口まで乗せてくけんど、降ろしたとこに酒屋があるんだ。すこし車止めとくから、そこで焼酎一本買ってきてくれないかな。なんでもいい、一升瓶でね」

 その金も払わされるのだろうか。

「商店街の奥が駅だかんね。すぐわかる」

 雨がひどくなってきた。遠くだが、落雷の閃光が見えた。

「やっぱり来たな」

「たすかりました」

 あまり気の入らないやりとりをしているうちに、十五分ほどで町中に入っていた。「じゃ、頼むわ」

 と、軽トラが停車して、こちらが降りたときには滝のような雷雨になっていた。ビニール傘を盾のようにして、舗道を走り、酒屋に飛び込んだ。千円見当の焼酎の瓶を買い込んで、走りもどると、男はタバコに火をつけて待っていた。

「おう、これはいつもより上等なやつだな」と、運転席から受けとると、「それじゃ、乗り賃はこれでいいよ。かえって悪かったかな」と、はじめて愛想をいうと、走り去っていった。

 駅に着き、路線図をにらんで、いったい何度乗り換えをしたら本郷にもどれるのかため息をついた。蒲田から池上線をつかって五反田あたりへ出るのがよさそうだった。どちらにしても、はじめての土地柄だった。


猫迷宮 66

2011年02月26日 01時31分29秒 | 文芸

              ∴

                                      

 次の客は、『昭和戯文集成』の依頼主だった。長いこと原稿と校正刷りのやりとりがあったが、著者本人と会うことになるのだろうか。依頼主は、団体名できていたのだが、いずれ著者か編者はいるはずだ。

「道がわかりにくいっすね」

 と、内山君は正直にそういった。川崎の町中を出て、ゆるい坂道になり、どうやら小高い丘とも森ともいえる方角へむかうことになる。都内でいえば、御殿山とか大岡山といった「山」でよばれる地勢だ。

「道路がなくなりそうですよ」

 内山君が不安そうにいった。一般道から私道らしい上り坂の先は、どうやら神社へつづく参道らしく、階段ならぬ石のごろごろした山道になっていた。最初の鳥居のところで駐車してしばらく考える。

「この先にまちがいないっすけど」

「いいよ、歩いていくよ。ゲラを渡して相談するだけだから」

「ここで待ってます」

 トラックのなかで小一時間も待たせるのは気の毒な気がした。

「道路マップを見てくれないか。ここから最寄りの駅さがしだしてみてよ」

「電車で帰るんですか。待ってますよ」

「時間が読めないんだよ。長びくかもわからないし。遅くなったら道路混んじゃうし、こっちは直に帰ったっていいんだから」

 内山君は道路地図に顔を近づけている。

「この坂を下って右手に二キロくらいのところに線路が走ってますけど」

「何線?」

「わかりません」

「いいよ。線路があれば駅もみつかるさ。途中で聞けばいいし」

「大丈夫ですか。いいかげんだけど」

「いつも、こんな感じだよ」

 内山君は笑っていた。

「神尾さん、いい感じですね。じゃあ、お言葉にあまえて、先に工場にもどります。ほかに仕事があるかもしれないし」

 トラックを降りたとたんに熱気と蝉の鳴き声がどっと襲ってきた。仰山な蝉が森の木立で狂気のように鳴いている。蝉時雨というよりは騒音だった。

「じゃ、すんません」

 と、一声かけて、内山君のトラックはUターンして坂を下りていった。すぐに左折して見えなくなった。蝉たちの騒音のなかに残されてみると、暑さがあらためて身にこたえるようだった。どっと汗がふきだしてくる。手拭いでももってくればよかった。参道の木立の下に入ればそれでも涼しかろうと攀りだした。なにたいしたことない山だ。登っていけば、すぐに事務所か社務所があるはずだった。それより、足もとにごろごろしている石を踏みあやまって足首を捻挫しないことだ。そんな用心がさきにたって、ゆっくりと歩きはじめた。

 最初の鳥居を潜ると、なるほど日陰はいくらかしのぎやすかった。木漏れ日が黄金のように降っている。いつか、こんなことがあったような気がした。

 そこからは、数段石段があるものの、再び山道となり、雨でも降れば難儀しそうな勾配だ。さて、どれくらあるのか上のほうを仰ぎ見たとき、自分より先に登っていく人がいるのに気がついた。最前は視野に入らなかった。山道の傾斜のせいだろうか。小柄な人だ。白い着物に薄青の袴。宮司か神官のいでたちのようだった。

 小柄なわけだった。いでたちからてっきり大人と思ったけれど、どうも子供らしい。子供というよりは少年。はて、若い女の子が袴をはいて巫女姿でいるのは見たことがあるが、小坊主ならぬ少年宮司はめずらしい。すこしばかり、距離が縮まって、少年らしく刈り上げたうなじが見えた。どこかで見たような少年だ。そこまで考えて、思い当たった。本郷二丁目界隈にときどき出没していた白根晃、シロネコ少年ではないか。こんなところで自分を先導するように山道をあがっていくということがあるのだろうか。もうすこし近づいてやれ、と歩みをはやめたときだった。少年宮司は、右手の藪にふいと姿を消した。道があるのだろうか。気味が悪くなる。

 すこしおくれて、少年が曲がった藪につくと、はたして笹の葉が覆いかぶさるような横道があった。山の崖を切り崩して造成した集落があるらしい。

 その藪をわけて追っていくわけにもいかず、本道を登るほかはなかった。額ににじみでた汗をぬぐう。仕事をはやくすませて、帰りには中腹の集落をのぞいてみたいような気がした。

 二の鳥居をくぐると、社務所のような小さな家と、プレハブの事務所がならんで立っていた。本殿は三の鳥居の奥だった。

 依頼主の連絡先の所番地と事務所が一致している。開け放たれた窓から中の様子がまる見えだったが、人はいなかった。出かけに電話したときは男が応対に出てきたのだから、誰かはいるはずだった。やむなく、社務所のほうの呼び鈴を押してみた。古めかしいブザーだった。錆びついたようなカタカタという呼出し音がした。

 広い社務所でもなさそうだったが、しばらく待たされた。

「はい、おまたせを」と、いって事務員ふうの男が出てきた。電話に出た男のようだった。

「丸尾印刷ですが」

「はいはい、うけたまわっております。ま、事務所のほうへ」

 と、暑そうなプレハブのほうに導いていく。昼寝でもしていたような感じだった。「お暑くて恐縮ですが」

 事務所にはいるなり、古めかしい扇風機をまわした。これも、カタカタ音をたてて首をふりはじめた。

「遠い所をわざわざすみませんです」

 小さな冷蔵庫から麦茶を出してきた。スチールの事務机をはさんで向かい合わせにすわると、「さ、どうぞ」と、コップをさしだした。

「先生はご病気がちなので、印刷一切はわたしが任されています。校正はわかりませんが、お支払いとかそのほかの御相談はうけたまわります」

 校正刷りの封筒を恭しく受けとるなり、男はそういった。ページ数の増加のことや、丸尾社長のいっていた分冊の勧めを手短に伝えた。男は手帳に逐一書き込んでいる。「わかりました。費用はいかようにでも。分冊の件は先生と相談しませんとなんとも申せませんが。一応は再稿が出たときに半金をということでごさいましたから、半金というよりは内金ということで御請求願えますか。七月末には入金させていただきます」

 そのつもりで、丸尾社長が出してきた請求書を差し出した。ミドリちゃんの字で数字が入っていた。科目は「内金」と但し書きがあるからかまわないだろう。

「はい、これで結構です」

 奥の机の上にある手提げ金庫を開けにいった。

「あの、これくらいの額でしたら、今、現金でもお渡しできますが」

 すぐに現金が出てくるとは思わなかった。

「領収書を後ほど送るのでよければお預かりします」

「ええ、ここに仮領収書を書いていただければ」                

 男は手慣れたふうに仮領収書の書式をつくって、こちらによこした。サインとシャチハタの判を押して返す。

「山を下りて銀行に行くのもこの暑さでは一仕事ですから、助かります」

 それほどの山とも思えないが、町なかまではかなりありそうだ。

 麦茶を飲みながら、それとなく聞いてみた。

「この下にも家がありますよね」

 男は、一瞬、なにか呑みこんだような顔をした。意外なことをたずねられたというふうだ。

「ええ、いくらかあります」

「こちらの御関係の住まいじゃないんですか」

 すこし詮索しすぎだったが、あの少年宮司が気になったのだ。

「いえ、以前には住んでいたようですが、いまはどうですか」

 と、曖昧な物言いになった。

 こちらがまだなにかたずねるのを嫌うように、また金庫のほうへもどっていって、現金と白い封筒を出してきた。

「ちょうどあると思います。ご確認いただいて」

 四十五万ほどの現金だった。ゆっくりと数えながら、出してもらった白い封筒をちらりと見た。いつか、紅花舎の郵便受けに投げ込まれていた白根晃の封筒とおなじものだった。どこにでもある封筒だろうが、同じ場所から出てきたような気になる。

「はい、確かに」と、いって封筒をもらって札束をおさめる。集金カバンにそれをおさめてしまうと、もう話すことがみつからなかった。

「では、先生のご意向をうかがったうえでご連絡申し上げます。八月中は無理かと存じますので、秋口になると思いますが」

「はあ」

 と、生返事をして立ち上がり、頭をさげる。

「ご苦労さまでございました。お気を付けて」と、さっぱりと送り出されてしまった。帰りの駅への地理をたずねるタイミングを失ってしまったが、麓におりてからどこかできけばよかろう。

「あの、もし」

 坂をおりかけた後ろから声がかかった。社務所の男だった。

「夕方、雷が来るそうです。歩いてもどられるようでしたら、これを」

 と、いって、安物のビニール傘を差し出している。

「夕立ですか」

 と、晴れわった空をみまわした。西の方角にたしかに灰色の雲がわだかまっている。だが、それほどあやしげな雲行きでもなさそうだった。

「どうぞ、お使い捨てになさってください」

 いらぬとも言えないので、頭をさげてうけとり、あらためて「では、失礼します」と背をむけた。しばらく後ろで見ている気配がしたが、振り返らずスタスタと坂道を下りはじめた。じっと見送られていては、あの横道の様子をうかがうわけにもいかなかった。こちらが、下の集落のことを気にしていたので、わざわざ傘など持ってきて、牽制したのかもしれない。いよいよ、横道のところにさしかかり、思いきって振り返ってみると、坂や段々の勾配のせいで、もう二の鳥居のほうは死角になって、見上げても、見下ろしても見えない位置だった。

 集落のあたりをすかしてみたが、人の気配もなく、生活臭も希薄だった。横道に踏み込んでいってそこが廃屋だったら、さしずめ昼の幽霊でも見たことになる。

 そのとき、藪から一匹の白毛の猫が細道を横切っていくのが目に入った。カサリと音もさせず、上の藪にまぎれこんでしまった。いずれそこにも、獣道のようなものがあるのだろう。

 笹をかきわけて、踏み込んでいく気にもならず、また坂道を下りだした。油蝉にまじって、ヒグラシも鳴きだしている。まだ暮れそうにもない夏の夕方だが、これから駅をみつけるまでの道のりを考えるとうんざりしてきた。シャツが汗まみれになっている。


猫迷宮 65

2011年02月25日 23時53分47秒 | 文芸

                    

                                      

「神尾さん、お願いしますよ」

 トラックのエンジンを始動させながら、丸尾印刷の内山君は真顔でそういった。「俺、話すのが苦手だし、こうして、運転してるほうがラクなんです」

 相手は五つ六つ年下だが、ことさら年長者ぶるわけにもいかなかった。

「いいさ、社長にもいわれてるから。営業はこっちの仕事だからね」

「そのかわり、荷物は自分が全部運びますから。あの・・・」

「なに?」

「先方の事務所やなんかには入らなくてもいいですよね」

 内山君は、そうとう人見知りか、軽度の対人恐怖症のようだ。仲間のうちでは平気なのだから、そんなわけでもないのだろうが、丸尾社長のまえでは縮こまって働いているようすだった。

「車の運転は好きだけど、タクシーなんかは嫌だな」

 と、聞かれもしないのにハンドルをまわしながらつぶやいた。

「お客さんと世間話しなきゃならないときも多いでしょ」

「話題についてかないといけないしね」

「そうそう、野球の話題なんか嫌だな。ヒイキのチームが負けてたりすると気まずいし」

「タクシーやったことないんでしょ?」

「大きな会社の専属運転手を半年やったことあるんですよ。重役はみんな巨人のヒイキだったな」

「すぐにヤメちゃったの」

「ヤメましたよ。深夜に料亭や銀座にお迎えにいくんですから、キツクて」

「生活が不規則になるからね」

「それより、乗せる相手はみんな酔っぱらってイバリちらしているんですよねえ。黙っているだけでも、叱られるんですから。巨人が負けた夜に、おい、今日は野球どっちが勝ったんだ、って聞かれるし。野球ってのは巨人戦のことだし、巨人が負けていたら、ふん、といって機嫌が悪くなるですよねぇ。そんなに好きなら後楽園にでも行けばいいのに」

 笑っていると、内山くんは真顔でこちらをむいた。

「神尾さんはどうなんです? 野球のヒイキは?」

「あんまり関心ないなあ。ボクシングのほうが好きだな」

「そうそう、そんな受け答えしようものなら、即クビか配置転換だな。変ですよね、どのチームが好きだってかまやしないし、野球なんかキライだっていいじゃないですか。毎朝のように新聞をにらんでは、あの監督の采配が悪かったなんだってしたり顔で講釈するのなんてうんざりでした」

「そうという嫌だったんだ」

 内山君は苦笑いして、ハンドルを右にきった。白山通りを皇居方面にむかう。都内

をつっきって川崎の近辺まていくのだ。

「ラジオつけます。高校野球の地区決勝なんかやってますけど」

「また、野球?」

「これでも高校までは野球やってたんです。地方大会三回戦どまりでしたけど」

「関西だったっけ?」

「ええ、三年生の夏、二回戦で広島商業にボロ負けしました」

「ポジションは?」

「レフトの控え。守備のときキャッチボールしたり、バット引きしたり」

「試合に出られなくていいの?」

 内山君は、すこし黙っていた。

「よくいわれますけどね。野球やったもんじゃなきゃわからないところがあるんですよ。野球は九人でやっているもんじゃないんです。練習や、グランド整備から、洗濯や合宿の炊事当番や、負けて泣くことまで全部ふくめて野球なんです。だから試合の勝ち負けにこだわる野球なんて犬に食われろ、です」

「そうだよね、野球やってるからって、誰もがみんな甲子園やプロをめざしてやってるわけじゃないものね」

「能力のない者のたわごとみたいにいわれますけどね」

「そうじゃないさ」

「神尾さんも変わってますね」

 トラックが渋滞をぬけて、スピードがあがった。中小企業の自家用車だから、一般道をひたはしるしかない。車内のエアコンもあまりきかない。内山君のようにランニングシャツだと楽そうだったが、得意先と応対せねばにらぬので開襟シャツは必須だった。

 最初に納品予定の川崎の商事会社につき、駐車場にトラックを入れおえたとき、内山君は、こっそりといった。

「ここの経理課長は広島カープ贔屓ですからね。俺と同郷。同郷だからあんまりあいたくないんすよ」

「いいよ、車からでなくても。PR誌三百冊くらいだし。伝票おいてくれば済むことだから」

「すみません」

 内山君は、またペコリと頭をさげた。

 


猫迷宮 64

2011年02月25日 23時51分56秒 | 文芸

                                      

 池袋駅の東口までのろのろと歩いて、西武線で「桜台」まで乗っていった。各停はすいていた。家で夕餉の人はとっくに帰り、外で飲食する者はまだ店から腰をあげていないすきまの時間らしかった。

 乗客がすくなく、車両の隅っこの三人掛けの座席にふたりして座ったとき、ミドリちゃんは体をあずけるように寄り添ってきた。なんだかいつもとすこしちがっている。こちらもすこし大胆になり、肩をだいた。

 南長崎の駅に停車した。

 降りる人はない、そのかわりに女がひとり荷物をさげて乗ってきた。大きなバスケットだ。黙ってわたしの肩に頭を乗せていたミドリちゃんがビクッと反応した。乗ってきた女のバスケットのなかに猫が一匹入っていて、こちらに目を光らせたからだ。褐色のシャム猫のようだった。ミドリちゃんが飼い主と猫を交互に観察しているのがわかる。派手なところはないが長身で身なりのよい女だった。シャム猫と対にして豪奢な家具の間におけば似合いそうだ。三十代半ばで、独身。これは指輪をひとつもしていないところからの推測だが、電車に乗るくらいだから大泉学園のマンションかなにかの住人だろう。夜に猫を連れて移動とは、旅行で知人にでも預けてあったのだろうか。                                   

「あの猫」と、小さな声で耳打ちしてきた。「なに考えてるのかわからないわ」  

 こちらが不躾にみつめているので、女のほうは視線をさけて横をむいてしまった。バスケットのなかの猫だけは、じっとこちらをみつめている。池袋の公園にいた野良もいれば、貴婦人のような生活をしている猫もいるわけだ。もっとも王侯貴族なら電車になんぞ乗るわけはないと思うとすこし可笑しくなった。

「なにがおかしいんですかぁ」と、ミドリちゃんがまたいった。

「降りてから話すよ」と、いってやる。

 振動がして、桜台の駅に着いた。開いたドアから生暖かい外の空気がはいってきた。湿気をふくみ、夜半からはまた降ってきそうな雲行きだった。

「ねえ、なにがおかしかったんですかぁ」

 ホームに降りるなりよほど気になるのか、めずらしくミドリちゃんがたたみかけるようなたずねてきた。

「猫と飼い主の顔があんまりよく似てたもんだからね」

「あら、そういえば」と、思い出したのかミドリちゃんもお腹をおさえて笑いだした。

 

           ∴

                                      

「神尾さん、眠っちゃったんですか」

 と、ミドリちゃんが腕をゆすっていた。深夜だった。ミドリちゃんのアパートへ来て、そのまま部屋で抱きあった。いつかの夜のように遠慮がちにではなく、むしろミドリちゃんのほうがもとめるように激しくすがりついてきた。ミドリちゃんを抱きながら、ふと自分たちが獣のようだと思いもした。そして、あっというまに眠りに落ちてしまった。

「ねえ」と、いつになく執拗にこちらを揺り動かしているので眼をあけずにはいられなかった。どれくらい時間がたったのだろう。ミドリちゃんも眠っていたはずだ。

「なに?」と、半身を起こすと、ミドリちゃんは正座してこちらをみつめている。

「今夜のうちにお願いしておきたいことがあるの」

「うん」と、こちらもあらたまった。なんだか、他人行儀なやりとりになる。さきほど部屋のなかでころげまわったことが嘘のような気もした。

「神尾さんにこれを預かっておいてほしいんです」

 そういって、大ぶりの布でつくった袋を差し出した。

「なに?」と、また短くきく。

「大切なものです」ミドリちゃんの眼が光った。

「中を見ないほうがいいのかな」

「どちらでもいいですけど」

「じゃ、預かるだけにしておくよ。それで、いつまで持っていればいいの?」

 ミドリちゃんはすこし考えているようだった。

「今年の秋口くらいまで」

 妙なものだな、と思ったが黙っていた。

「後で中身を見たりしちゃいけないよね」

「かまいません。神尾さんに預けたんですから。変な物ではないです」

 袋を受けとると、ミドリちゃんはすこし安心したような顔をして、立ち上がると電灯のコードをひっぱった。

 暗くなった部屋のなかで、ふたりとも横になった。

 しばらく無言で闇をにらみながら、ふとミドリちゃんはどこかへ出かけるつもりなのだろうか気がついた。それをきくタイミングはのがしてしまったが、明日の朝でもよいことだ。ミドリちゃんは子猫のようにまるまりながら、顔をこちらによせて寝息をたてはじめている。

 ミドリちゃん。ほんとう名前は島村沙代なのだが、サヨという名前で一度も呼んだことがないし、思いうかべたこともない。なんだか架空の人間とつきあっているような気さえする。沙代と考えた瞬間に相手が見知らぬ者のように思えてきそうだ。すぐそばで寝息をたてている女が誰なのかわからなくなってくるようだった。ミドリちゃんという名前でようやくつなぎとめておけるような存在なのだ。そんな妙なことを考えるのも夜のせいも知れなかった。赤塚さんもマンションに帰ったのだろうか。今頃猫たちと眠っているかもしれない。彼女の来歴だとて知るわけもないのに、このあいだはまぢかでその寝息を感じていた。それがほんとうのことだったのかも今では疑わしくなってくる。子どものころの一時期、深夜に眼をさまして、そのまま朝まで眠れなくなることがあった。そんなときは、決まって、自分はなんでここにいるのだろうと思ったものだ。この家、この町、この国、自分がこれまで過ごしてきた場所ではないような気がしてくるのだ。自分はもっとべつのところにいたのではなかったか。自分のまわりにいる人間も、見知ってはいるが、それ以前にもっとごく親密な人たちがいたような気がしてならなくなる。父親は、はやくに亡くなっていてよく覚えておらず、母親の昔語りをたよりに思い描くばかりだったし、その昔話が得意な母親にしろ、幼児からの記憶がなかった。すっかり忘れてしまったといえばそれまでだが、幼児の頃あやされたり、肌で感じたぬくもりや、匂いのようなものはなにひとつ残っていなかった。小学校の初めての参観日にいつもより化粧の匂いを強くさせて、着物でやってきた姿が強く思い出されるだけだった。

 ミドリちゃんがすこし動いた。夢でもみているようだった。色白で、鼻がちいさくて、小動物のような寝顔だ。どこで生まれて、育ってきたのか、まだ聞いたことはない。親元のこととか、学校時代のこととか、誰しもがもっている来歴を知らぬまま、その寝顔を眺めているというのも不思議な気がした。いきずりでもなんでもなく、もう長い知り合いで、毎日顔をあわせてきたというのに。そのうえ、今夜はもっと秘密めいた荷物を託されてしまった。わたしが神尾さんを選んだのだもの、といいそうな顔をしていたものだ。

 そんなことを寝入りばなに考えていたせいだろうか、それから長い奇妙な夢を見つづけた。

 


猫迷宮 63

2011年02月25日 23時50分34秒 | 文芸

七時を過ぎているのに、その店はすいていた。東池袋の駅に近く、昼間はオフィスの客もランチにくるようだが、池袋の東口からはかなりあるので夜は客足がとだえがちのようだった。すぐ近くには都電荒川線の停車場があるが、その乗降客は店の客にはなりそうもなかった。一組だけ若い男女の客がいて、静かにパスタを食べていた。無言で熱心に食べている。

 店のなかをみまわして、ミドリちゃんは可笑しそうにしている。

「なに?」

「ずっとまえに来たときは、もっと混んでいたの。なんだかさびれた感じ」

「おいしくないの?」と、声を潜めた。ミドリちゃんは首をふった。「駅から遠いから。それにここのお客、あまり長居はしないんですって」と、友だちから聞いた話をうけうりで話しだした。「この裏のほうに何軒かラブホテルがあるんですって。カップルできて、食事して、すぐにそっちのほうへいっちゃうらしいわ」

 なんとも返答のしようのない話題だ。

「あたしも、そんなところへ一度いってみたいわ」

「じゃあ、あとで行こうか」と、お茶でも飲みにいくみたいにいってやった。

 ミドリちゃんは、また可笑しそうに笑ってから、「うん」と、嬉しそうにうなずいてみせた。

 

 レストランを出て夜の町を歩きだした。すくそばに小さな公園があって、そのむこうにはラブホテルのネオンがいくつか光っていた。ミドリちゃんが先にたっていく。公園にはいっていく。なにかと思っていると、どうやら公園内に猫が何匹がいるのをみつけたらしい。

「神尾さん、こっちよ」と、手招きする。

 野良猫らしい毛皮の汚れた猫が三匹なにか食べていた。捨てられたゴミを漁っているようすだ。弁当ガラなのか、近くの料理屋の裏から引きずってきたのかビニールのゴミ袋が裂けて散乱していた。

「みんな飢えてるみたいだね」

 と、しゃがみこんで見ているミドリちゃんに声をかけた。あまり触らないほうがいい。一匹は若い猫で、すこしはなれて様子をみながら、ニャーニャー鳴いていた。なかなかおコボレにあずかれないようだ。

「あんたもお腹すていんのねえ。なにか持ってるとよかったわ」

 と、その若い猫に手をさしだしている。

「やせているね」

「なんか、かわいそうだわね」

「公園に住んでるのかな」

「このあたりがシマなのね」

 ミドリちゃんはとりわけ若い猫のことが気になるようで、いつまでたっても腰をあげようとしない。近くのベンチにさがって煙草に火をつけて待つことにした。ミドリちゃんは猫たちにさかんに話しかけている。なんだか話し込んでいるような風情にもみえた。猫たちもたいして食べるものがなかったのか、顔をあげてミドリちゃんのほうをみあげていた。

 公園に誰かがはいってきた。腕をくんだ男女がもつれるように歩いてくる。猫たちはビクリと反応して、近くの藪のなかに走りこんでいった。しゃがみこんでいるミドリちゃんだけが残された。近づいてきたアベックは、そこにいるミドリちゃんに気がつかなかったらしく、ぶつかりそうになって、女のほうがキャッと小さな声をあげて男のほうにしがみついた。「ばか、そんな声だすなよ」と、男のほうがいっている。ミドリちゃんは、猫のような視線でそのふたりの後姿をみていた。アベックは公園を通りぬけてラブホテルのほうにむかっていくようすだった。

「逃げちゃったかな」

 と、声をかけると、やっと立ち上がってベンチのほうに走ってきた。

「逃げちゃたわ。もっとお話してたかったのに」と、真顔でそういった。

「帰ろうか」と、立ち上がってミドリちゃんを見下ろした。

「はい」と、ミドリちゃんはまだ猫のような眼つきをしたまま、こちらの腕に手をまわしてきた。

「送ってくださいね」

「うん」

「すこし話したいことあるの」

「うん」

 と、そういって、まだ宵の口の町を歩きだした


猫迷宮 62

2011年02月25日 23時49分01秒 | 文芸

  また『昭和戯文集成』の難儀な校正がはじまった。今度の章は新興宗教の冊子ではなく、新聞記事の抜粋が連なっていた。主として、広告記事や猟期事件の報道、超能力者の実験報告やら、霊能力者列伝みたいな雑誌記事もまじっていた。帝国大学教授某氏の論文が記事にちりばめられている。

 

  東京市中、下落合の教授私邸にて本実地見聞はなされたり。実験の参観者として、帝国大学理学部、渡邊良平教授、同平田義宗助教授、本誌記者、大山儀平の三名が立ち会うなか、帝国大学文学部教授、広重雄三による霊能者、菅野ヤイ(仮名38歳)の降霊術が見聞を開始される。菅野ヤイは和歌山県出身の寡婦にて、齢十六の頃より種々の故人の霊が降りて、遺族に先祖供養を訴える。近年は遠隔地の人間の生霊も現れるにいたりて近隣の評判となりしも、一方虚言として退ける者も多く、毀誉褒貶女史の周辺に溢れたり。                   『昭和戯文集成』 

                                          

 明治から昭和初期にいたる超心理学実験については聞いたことがある。いずれも女性の超能力者が透視や読心術の実験をし、いずれも詐欺よばわりされて学界からはしりぞけられたらしい。イタコや霊媒の実験も数多くあったようだが、当時の記録を眼にしたのははじめてだった。『日本心霊協会会報』という雑誌からの引用だった。この種の話は嫌いではなかったが、ときとして外国人の霊を降ろしてくるのはいいが、霊の言葉が日本語だけで、霊媒がいきなり流暢に未知の外国語を喋りだすようなことがないのが不思議だった。霊になると、どこの言葉でも話せるのか、それとも言葉を超えた意識を霊媒にあたえるためなのか、屁理屈はいくらでもいえそうだが、有名人の霊だけ降ろすというのも腑に落ちない。むしろ恐山のイタコのお婆さんたちが、先祖の霊を降ろして、いつも決まり文句のように「兄弟仲良く、墓守よくせよ」などと説教でしめくくるほうが愛嬌がある。それで人は癒されて泣くのだ。

                                      

 菅野ヤイ、この日ふたつの霊体を降ろしたり。一人は浮遊せし無縁仏といい、恨みごと様々つらねて去る。いまひとつは、立ち会いの本誌記者の母親の霊なり。本誌記者、驚天動地の思いいたしが、やがて滑稽千万との皮肉なる感想を抱くにいたる。彼が母堂いまだ郷里尾道に健在なり。さは、生霊を降ろしかと密かに嗤う。しかるに菅野ヤイ曰く「汝、いそぎ帰郷しませ」といふ。一同暫時休息せしとき、教授宅の電話にわかに鳴りたるに、博士応対に退出せり。すぐに奥より、本誌記者の名を呼ばわりて告げる。記者の郷里より本社に電報あり。「ハハ危篤、急ギカヘレ」

                                    『昭和戯文集成』

 

 菅野ヤイは、スガノヤイと読むらしい。様々な霊というか思念が、彼女をとおしていわば受信機かラジオのようにメッセージを送ってきていた。霊たちは一方的に話をして、こちらの問いかけには一切応えなかったらしい。ヤイが時々誤植でヤエになっていたので赤を入れる。一か所だけヤヨイになっていた。原稿のほうもそうなっている。昔は戸籍上の名前でなく通称をしるしたものが多かったから、本当菅野弥生という名であったかもしれない。弥生というと上代の土器のような神さびた感じがする。 三分の一ほど校正し終わったところで、電話が鳴った。丸尾印刷の社長だった。手が空いていたら来てほしいという。いつだって手は空いている。どの仕事も緊急ではないのだ。すぐ行きますよ、と電話を切った。

 印刷所の二階の事務所にはいっていくなり、丸尾社長は「おう」と。いつものような声をあげた。「呼び立てちまって悪いな」と、破格の挨拶だ。

「まあ、すわって」と、いわれるままに開いているスチール椅子をひっぱった。

 ミドリちゃんが、すぐにお茶のはいった湯飲みを目の前に置いた。社長は夕方には茶など飲まないくちだ。自分の机にもどってから、ミドリちゃんがじっとこちらを見た。わざと視線をあわさぬようにして茶をすするまねをする。ミドリちゃんがまだ眼をはなさない。なにか話があるらしい。

「それでなんだけど」と、さっそく社長は用件をきりだした。「丸尾印刷の営業の仕事をしばらくスケてくれないかな」

「営業ですか」

「うん。ここんところ動けなくなっちまってな。なに、納品と集金くらいのもんだ。校正刷りの受け渡しなんかも頼むよ。色物の校正だって大丈夫だろう?」

 美術印刷でもないかぎり、先方とのやりとりに支障があるわけでもない。そのへんは門前の小僧ですっかり覚えている。赤を強くしろとか、色指定だとか、先方が詳しければそのまま伝達すればいいし、相手がシロウトならの曖昧な希望をこちらなりに解釈すればそれですむ。面倒なのは依頼主にデザイナーがついていて、細かなことをうるさく言いだすときだが、それもむこうの指定を書き込んでもらえいい。相手も印刷屋の営業の力量くらい知っているはすだ。ほんとうに気になるなら、印刷所まで足を運んで担当者と打ち合わせるのがプロというものだ。

「な、それでな、集金はしっかりたのむよ。配送の内山にはまかせられねえんだ。あいつは請求書を置いてくるのはいいが、入金の期日をしっかり念を押してくるのができねえらしい。即金でもらってくることもあるから、二人で行ったほうがいいしな。なあに、内山は運転と納品だけだ」

 内山とはこの春に入社した青年だった。印刷助手と配送担当で、いつも軽トラックで走り回っていた。

「いまやってもらってるやつの校正が終わったら、ここの住所に届けて、最終見積もりを渡して、仕上がり期日を決めてきてくれないか。もう一年ちかくひっぱられてるからな。あとどれだけ原稿がはいるのかちゃんときいてな」

 これ以後さらに原稿が増えるのなら分冊をすすめる。いまある原稿でも四百ページにはなっている。

「いいか、分冊でも箱入りにすれば見栄えがいいっていってくれよな。箱代はかかるが、いまさら経費をねぎってくる相手じゃないよ。なにしろ宗教法人の関係者らしいからな。金はあるさ」

「最初の見積書ありますか?」

「おう、島ちゃん、神尾君に『戯文集成』の見積書だしてやってくれ。はじめは三百ページってことで計算してある。な、わかるだろ。それが一・五倍にはなってるわな」

「じゃあ、きちんと話をつけておいたほうがいいですね」

「おう、そうしてくれるか。月末までに行ってきてくれるといいんだが。校正は終わるよな」

「二三日で終わりますよ」

 ミドリちゃんが書類を持ってきた。先方の所番地もついている。

「大森ですか?」

「うん蒲田の近くらしんだが、内山が一度行ったことがあるからわかるだろう」  

 ミドリちゃんが、もどりぎわに、人にわからぬようにこちらの背中を指で軽くつついた。仕事が終わった後で紅花舎にくるつもりらしい。席にもどってから、またこちらをチラリと見た。

「ほかに集金なんかは?」

「うん、小口が二件ほどあるな。どれも折り込みのチラシだ。こいつは直接取りにいってくれ、電話はこちらがしておくから。明日でもいい」

「はい」と、いって二件の伝票を受けとった。どちらも千代田区内で近い。

 いうだけのことをいってしまうと、丸尾社長は巨体をゆすって大きな欠伸をした。それから、低く唸って、すこし苦しそうな顔をした。

「背中が痛くてな、腰もそうだけど、肝臓のせいらしいや」

 肩をぽんとたたいて、首筋もこっているようだった。

「酒をすこしひかえますか」

「うんにゃ」と、曖昧な返事をしている。「一杯だけにするよ」と、いって時計を見ている。いつも五時すぎに焼酎のお湯割りをつくらせるのが日課だ。まだ、それには早い。一杯だけといっても、誰か客がくれば話はべつだろう。丸尾社長は飲めるうちは飲みつづけるくちだ。嫌でも飲めなくなるときがそのうちくる。飲むと一時的に体が楽になったような気がするのかいけないらしいが、そんなことをいっても聞くような相手ではなかった。

 紅花舎にもどると五時を過ぎていた。すぐにミドリちゃんが手提げを持って上がってきた。なんだかさそってほしそうな雰囲気だ。

「ご飯食べますかあ?」と、いつものように語尾をのばしてくる。なんだか嬉しそうだ。 丸尾印刷から仕事をだしてもらえたので当座はしのげそうだと安心したらしい。それはいいけれど、今日の社長の様子ではだいぶ体が悪そうだ。丸尾印刷の社長が倒れでもしたら、ことは紅花舎の校正係の生活どころでない。経理は奥さんがしっかりやっているが、中小の印刷屋は営業力が生命線だ。社長の顔でとってこれる仕事がほとんどなのだ。

「うん、ちょっとまってて。片づけるから」

 デスクに書類をしまっていると、ミドリちゃんはかいがいしく窓をしめたり、湯呑みを洗ったりしてくれた。

「明日からまた雨になるんですって」

 手をふきながら振り返ってそういった。

「朝からかあ。また自転車使えなくなるな」

「でも、あたし雨も好きですよ」

 と、いつかの晩のことを思い出したのか、ミドリちゃんは悪戯っぽく笑った。結局あの夜の謎は解けないままだ。

「どこへ行こうか」

「たまには池袋のほうへ行きませんか?」

 レストランか、と池袋近辺の地理を思いめぐらした。駅の東口も西口も不案内だ。駅構内の異常な人混みにも気後れする。

「首都高の下に何軒か知っているお店があるんですけど」

「洋食?」と、いってしまってから、よせばよかったと思う。

「イタリアンとかいろいろです」

 ミドリちゃんはうれしそうにイタリアンといってみせた。なるほど、女の子はいつもラーメンやカツ丼では嫌のようだ。


猫迷宮 61

2011年02月25日 23時46分02秒 | 文芸

                            

 

 次に眼を覚ましたときには赤塚さんは出かけていた。朝から仕事のある日だったようだ。卓袱台の上に書き置きがあり、戸締りと鍵を頼むとあった。寝床はそのままにしておいて、とある。そんなわけにもいかないので、蚊帳をはずし、寝具をたたんだ上に置いた。赤塚さんと寝た一組だけの布団を始末するとき、なんだか妙にかたづかないような気持ちがした。肝心のことは聞けずじまいだった。

 流し台で水を一杯だけ飲んで引き上げることにした。九時をすこし過ぎている。曇って蒸し暑い朝だった。ひと雨ほしい頃合いだが、ひとしきり続いた雨降りが近頃では嘘のような空梅雨になっていた。

 赤塚さんが洗って干していってくれたシャツも下着もすっかり乾いている。シャツを着込み、下着はそこらの紙袋をもらってそれにいれた。

 戸締りをして、植木鉢の下に鍵をすべりこませると、家のまえの路地を歩きだした。路地から車道が見えたのだ。細い石段を下りるとすぐに通りだった。そんな小さな段々にも袖すり坂という名前があるらしく、石の標識のようなものがたっていた。なるほど袖をするほど狭いわけだ。

 通りをくだっていけば外堀通りにぶつかるはず。陽射しに眼がくらみながら、とぼとぼと朝帰りならぬ出勤だった。水道橋まで歩く元気はないので、一駅でも乗ろうかと思っていると、ふとしばらく自転車を使ってないことに気がついた。雨が続いて地下鉄でしばらく通っていたせいだが、自転車を使わなくなって生活のテンポがすっかりみだれてしまったような気がした。

 飯田橋駅のホームに立ち、すべりこんできた電車とのあいだに大きな暗い淵が口をあいていて、そこに呑み込まれそうな妄想がわいた。この駅のホームが弧を描いているためなのだが、これまで幾人かは落ちたにちがいない。油断をして人にこづかれて落ちることだってありそうだった。

             ∴

「神尾さん、どうしちゃったんですかぁ」と、呼びかけている声がした。「タマシイぬけちゃったんですかぁ」

 紅花舎のデスクに肘をついてぼんやりしていたのだ。赤塚さんと、旦那の行く末を考えていた。東北から北海道まで長距離の仕事に出ている旦那のほうから問い合わせがあったらなんとこたえるべきだろうか。昨夜の赤塚さんとのことは話さぬにしても、なにもしないでいるというわけにもいかない。赤塚さんのほうは、そのあいだにマンションに戻っているだろうし、やはり夕べ正直に話しておくべきだったような気がした。どのみち赤塚さんと口裏をあわせることになるだろうが、そのほうが穏便のような気がした。

 ミドリちゃんがじっとみつめている。すこし頬をふくらませていた。

「うん、暑くてボケたかな」と、曖昧に笑う。

 なんだか腑に落ちないといった顔をして、「お仕事よ」と、分厚い封筒をさしだした。

「何?」

「『昭和戯文集成』です。このあいだに送られてきたぶんです」

 またぞろ頭を悩まされそうだ。

「それから、うちの社長さんが用事があるので、手があいたら顔をだしてほしいそうです。この仕事の件のようです」

「急ぐの?」

「なんだか、神尾さんにうちの仕事手伝ってほしいらしいんです」

「営業ってことかな」

 おおかたは想像できた。丸尾印刷は、営業はもっぱら社長ひとりがやっていて、あとは印刷工が三人、そのうち一人は配送にあたっていた。事務員はミドリちゃんだけだし、経理は社長の奥さんだ。年度末などの繁盛期には手がたりなくなることは想像できた。

「社長、体でも壊したの?」

 ミドリちゃんはデスクのほうにまわってきて、隣の椅子に腰をおろした。

「調子がよくないっていうので、このあいだ病院で検査してもらったら肝臓のなんとかって値が高くなってたんですって」

「飲み過ぎだよね」

「はい」と、ミドリちゃんはこっくりした。「なんか腰の調子もよくないって」

「太りすぎだよね」

「はい」

 そのうけこたえが可笑しくてふたりして笑った。

「でも、うちの社長、なんだか神尾さんのこと信用しているみたいなところがあるんです」

「そうかな」

「お金の処理を任せても大丈夫ってことかしら」

 そういえば、例の稲葉氏からの預かり金を丸尾社長に相談にいって、きちんと始末していた。結局、印刷半金として丸尾印刷が受け取り、校正料としてこちらに二割戻してくれた。最終支払いのときに、印刷代金を清算し、残りを紅花舎の手数料としてもどしてくれることも話がついた。校正料は給与として支払われると大曲社長と約束してあるから問題はないともいってくれた。そのとき、丸尾社長がいっていたことがを思い出した。大口の集金にいったきり姿をくらましてしまう従業員がこれまでに二人いた。神尾くんは真面目だね。いっちゃあなんだが、この六十万を未払い給与や退職金がわりにいただいてドロンされてもしかたがないところだ、と。大曲氏のいいかげんさに丸尾社長もあきれているようすだった。

「夕方になって、こっちが一段落したら顔をだすよ」

 ミドリちゃんは帰っていった。 


『猫迷宮』について。memo

2011年02月25日 02時35分42秒 | 文芸

           

 

 

『猫町∞』の約10年後の物語として、本郷二丁目の零細出版社に転がり込んだわたしの漂流者的、いってみれば猫的な生活が語られていく。その猫が、猫にまつわる奇妙な人々の事件にまきこまれていく。ときどき姿をみせる謎の少年もいる。梅雨時から、真夏にかけてのあいだに、目の前に現れた人間たちがつぎつぎに失踪していくのはどうしてか。それもこれも、記憶の一部が欠落した10年前に鍵がありそうだった。『猫町∞』で迷い込んだ猫の町での記憶が。

『水に棲む猫』(パロル舎刊)は1964年の物語。

『猫町∞』(同上)は1974年の東京の街で。

『猫迷宮』(未刊)は1984年あたりの本郷である。

連作として考えていたわけではないが、どうやら10年ずつ、時を隔ててこの猫小説はつづいていくようだ。


猫迷宮 60

2011年02月25日 02時23分37秒 | 文芸

 ガラスの引き戸をあけて、湯殿をのぞいてみた。タイル張りの小さな風呂場だった。洗面器と石鹸箱のほかはなにも置いていない。湯船のフタはない。

「はい、これね」と、後ろからタオルを渡された。すぐに引き戸をしめられてしまった。狭い脱衣場で服を脱ぐ。お湯よりも、冷たい水を浴びたかった。

 洗面器で湯をすくって浴びる。湯はぬるかったがそれが心地よい。石鹸を手のひらで溶かして、体のうえに丁寧にのばしていく。腋からはじめて、局部に手がのびたとき、これからの展開に思いがおよんだ。そうなるだろうし、そうするだろうなと思いながら、また湯を浴びる。その後のことは思いのほかだ。いい気なものだが、男の妄想がわいてくる。だが、そうなるまえに、赤塚さんはまた茶の間でつぶれてしまっているかもしれない。

 ガラガラと、ガラス戸が開いて、赤塚さんの声がした。

「これ着てね。みんな新品だから」と、下着と浴衣だ。まさか用意していたわけのものでもあるまい。すこしだけ後ろめたい気がする。あっと思うまもなく、こちらの脱いだものを全部持っていかれた。

 しばらく湯船のなかにクラゲのように浮いていた。自分はなにしに来ているのだという思いが浮かんでは消えた。いつもこんなふうなクラゲみたいだな、と独りごつ。いつから、クラゲみたいに漂うようになったのか。いつかしら、巨大な越前クラゲのような化け物じみて大海に浮かぶ日があるのかもしれないな、とまた妄想がわいてきた。

 浴室にシャワーなどなかった。蛇口から水を出して三杯頭からかぶった。<斎戒沐浴>、まるで水ごりだなと思いつつ体を拭いて、衣類を手にするとなるほど新品ばかりだった。旦那に教えていない家になんでこんな準備があるのか不思議だった。赤塚さんにはもっと秘密があるのかもしれない。ただ、浴衣だけは洗ってあるらしく着心地が柔らかだった。

「さっぱりしたでしょ」と、赤塚さんはにこにこ笑いながら茶の間に座っていた。

「服みんな洗って干しちゃったわよ」

 と、いたずらっぽくまた笑った。すこし酔いがさめているのか。

「さ、これ」

 と、いって卓袱台の上に氷を入れたグラスを置いた。

「水?」

「そ」

 そのまま一気に飲みほした。

「水だと、のみっぷりがいいわね」

 おかしくてたまらなそうだ。

「お酒もいいけど、最後は冷たい水よね。これが飲みたくて、わざわざお酒を飲むみたいなことってない?」

 そこまでの思いいれはないが、確かに水はありがたかった。

「それから、また飲むんでしょ」と、いってやる。

「そうよぉ、あとはいくらでもいただくわ」と、返事。それから、うなじのあたりを薬指でさすりながら、「わたしも浴びてこようかな」と、いっている。

 黙っていると、こちらをしげしげとみつめて、

「その浴衣わけありなの」と、タネ明かしのような口調になった。「変でしょ、そんなものがこの家にあるなんて」

 なんとも言いようがない。

「それ本当に誰も袖をとおしたことのないものよ。だけど、買ってから何年にもなるけれど、夏になると一度水洗いしてたたんで置くの」

 おそらくこの浴衣を着るはずだった人のことを思い出しているのだろう。今の旦那ではない別の男。この家に通ってこなくなった誰かだ。

「よかったんですか、ぼくなんかが借りて」と、いまさらの応対だ。

「いいのよ、神尾さんに着てもらえれば」と、すこしだけしんみりした。

「あたし」と、すこし言いよどむ。「あたしが神尾さんを選んだんだもの」

 この際、なにか言わないほうがよさそうだった。

「あたしも、お湯を浴びてくるわ。いいでしょ? 神尾さん、隣に蚊帳が釣ってあるの。お布団でやすんでいて。いいのよ寝ちゃったって」

 と、言い置くと、すっと立っていってしまった。冷たい水を飲んで、すこし酒もさめかけていた。これからまた飲むのもつらい気がした。言われるままに、ひとりで隣室にいくと、いったとおり六畳間に昔懐かしい緑の蚊帳が吊ってあった。これも、赤塚さんの母親の残していったものなのだろう。自分も子どもの頃になじみがある。蚊を入れないように蚊帳の裾を用心してもぐらねばならない。そんな所作を思い出した。赤塚さんは徹底して母親との暮らしを踏襲していたのだ。

 もう遠慮もなにもなく、蚊帳の裾をたぐって中に転がりこむ。布団はひとつしかない。枕がひとつというのは、こちらが訪ねてくる前からの仕度であったのかもしれない。

 湯殿で水音がしていた。

 それが遠くの雨音のようにも聞こえる。

 いつかこんな晩があったような気がしてきた。やはり夏の晩だったようだ。疲れ果て、薄れていく意識のなかで、雨音だけが聞こえていた。そんな遠い記憶だ。

  蚊帳のなかに人が入ってきて、自分の隣に寝そべる気配がした頃には、すっかり眠りこんでいた。眠りからほんのすこし浮き上がった。

「眠っちゃったの」と、耳もとでささやいている。うん、といって体だけめぐらすと。こちらの胸もとに顔をよせてきた。なにも言わない。腕をまわして、頭を抱えこみ、肩を抱いた。だが、それ以上は動けなかった。

「神尾さんて、やさしいのね」と、これもどこかで聞いた台詞だ。そんなわけでもないのはよくわかっている。万事なりゆきまかせなだけだ。

 赤塚さんもじっと動かずにいたが、すぐに寝息をたてはじめた。あれだけ飲んだあとだ。すぐに眠りにひきずりこまれても不思議ではない。男女の情熱が発火するにしても潮時というものがあるわけだ。

 眠りにおちてすぐに夢を見た。やはり赤塚さんの家にいて、ひとりで畳のうえに寝ころんでいる。縁側に猫が二匹いて、日向であやしくじゃれあっている。一匹は見たことのあるこの家の猫だ。片方は真っ黒な精悍な牡猫だ。牡だとわかるのは、さかんに交尾をしかけているからだった。相手の首のあたりを咬んでみたり、陰部の臭いをかいでみたり、相手の発情を誘っているのが見てとれた。人が近くにいるのに大胆だな、と思ったが、自分は眠くて身動きもならないのだ。ただ、薄目をあけて眺めているだけだ。やがて雌のほうも発情したらしく、牡に背をむけて動かなくなった。黒猫は、背後から覆いかぶさるようにして雌の背にのしかかり、そろそろと腰を入れはじめた。二匹が重なり動かなくなった。牡だけはときおり、ブルッと体をふるわしている。それにしても、あんな明るいところで交尾するとは無警戒なものだなと思う。いつか昼日中にみかけたのは、誰にも見とがめられない屋根の庇の陰だった。

 ふいに、部屋に人がはいってきた。「あら」と、赤塚さんの声だ。「こんなところで寝ていてはだめよ」と、縁側の猫たちに気づかないのか、もっぱらこちらが気になるようすだった。ああ、と返事をしようとしても動けなかった。金縛りにあったよう。「ねえ」と、耳もとで吐息が聞こえた。「あたしたちもよ」

 体になにかがのしかかってきた。胸が苦しいので、あらがう。金縛りをはやくときたい。声をだそうとするが、喉もつまっている。

 はっとして眼を覚ました。体か動かぬわけだ。隣の赤塚さんはこちらの腕を枕にして眠っている。腕は痺れたようなに重くなっていた。

 


猫迷宮 59

2011年02月25日 02時18分52秒 | 文芸

                                            

                                                                             

 一息風がきて、すぐにまたがやんだ。夏の夜の気まぐれな吐息だ。この界隈をひとわたり遊び歩いて、またどこか場末の町に流れていったのか。

 蚊とり線香も燃え尽きていた。

 赤塚さんはもうほろ酔いをとおり越している様子だった。それでも、話すことが支離滅裂にならないところは、よほど酒が強いのだろう。このあいだみたいに突然つぶれてしまうのだろうか。

「猫、帰ってきませんね」

 同じことをまたいった。

 しばらく返事がなかった。なにか考えごとをしているのか。溶けかかった氷をにらんでいた。

「気をきかせてるのじゃないかしら、ねえ」と、こちらを見た。「神尾さんが来ているから」

  なにか軽口をいおうとしてやめにした。

「猫には猫の夜があり、人には人の夜があるわけよね」

 赤塚さんのほうがよほど気のきいたことをいった。

 すこし暑そうなしぐさをみとめられたのだろうか、「あら、シャツなんか脱いじゃったら」と、立ち上がってきて、否やもいわせず、後ろから袖をひいた。後ろからふきかけられた息がそうとう酒くさい。

「これ、洗っといてあげるわねえ。すぐに乾くわ。水洗いして干しておけば朝には乾いているわよ」

 と、脱がせたシャツを奪って奥へいってしまった。しばらく、独りにされる。ほんとうに水洗いしているようすだ。間がもたず、ひとりで酒をつぎだしてあおっていると、ようやくもどってきた。すみません、といおうとすると「水臭いわ」と、言葉をかぶせられた。

「あなた、お湯を浴びてきたら」

 と、さも当然というふうにいってくる。                   

「ほら、こっちよぉ。せまいけど」

 と、手招きするので、立ち上がる。

「台所暗いから気をつけてね」と、先にたって奥に入った。

 こざっぱりした古風な台所だった。板の間に、昔家にあったようななまこ石の流し台と、ガス台。ガスレンジなどではなかった。つかいこんだ薬罐がぼうっと光っていた。

「こっちね」と、声がして、歩みよると、赤塚さんの体とぶつかってしまった。そのまま、赤塚さんはしっかりと抱きついてきた。このあいだと同じだ。どうしようかと思うまに、ふふっと笑っている。すぐに体をはなして、「タオルと着替え持ってくるわ。汗流してぇ」と、言い置いて茶の間のほうにもどっていった。