天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

講義ノートへの落書き。

2011年12月28日 00時23分21秒 | 文芸

■ジグムント・フロイト

 

先日、講義でフロイトの精神分析をあつかった。思えば大学院の頃、指導教授がフロイトを援用した「生の作家」「死の作家」という作家の精神傾向を分析して文芸評論を展開していた方であったから、いきおいフロイトの著作全般にもつきあことになった。フロイトの理論は、いまではむしろ「思想」とでもいうべき範疇としてあつかわれていて、現代の心理学や脳科学では古典的なものではあるが、自分はそのなかでも『快感原則の彼岸』とかには、いまでも強い影響を受けていると思う。

 

とくに、「生の衝動」「死の衝動」という相反した観念の設定には、確実な根拠にさかのぼれなくとも、納得がいくように思われた。曰く、生命体には生きたい、種族を残して生命をつなげたいという無意識衝動があると同時に、かつて生命を持たなかった存在への回帰を願う、破壊的、死のへの衝動もあるという指摘である。死を甘美なものと捉えること。そして死の模倣たる眠りにも、甘い眠りという形容がつけられるように、私たちは必ずしも「生の讃歌」を歌うばかりではない。また生が善であり、死が悪であるというのも、死そのものへの恐れからくる保守的観念にすぎないことも理屈としては理解できるのだ。

人間のDNAに組み込まれた死のスイッチ、老化のプログラムは、生命現象というものの有限性を担保し、かならず死という「物質」に回帰するための自然の方程式ではなかったか。

生命現象とは、物質の遊び、戯れであり、その遊びはいつか終息せねばならぬという大原理が働いているのではあるまいか。いわく「むすんで、ひらいて」理論である。たとえば、宇宙はいま広がりつづけているわけであるけれども、ある時点でその逆回りの収束が始まるのではないか。ビックバンからはじまった宇宙は、拡大がのびきった時点で、また閉じていくいくのではないか。そして、閉じてしまったら、また、拡散がはじまるのだ。

考えてみれば、生命はエネルギーを拡散させる方向にむかわせる機能をもっている。物質に固定しているエネルギーを燃やして分解させ、宇宙空間に拡散させていく。巨大な核融合である恒星(太陽)の燃焼も、エネルギー拡散、あるいは均等化へむかう流れの中のでの現象ではないか。だとすれば、エネルギー燃焼回路(生命といってもよい)が終息することを、死といい、滅びと形容するのは、たんに現状を維持したいと願う保守的衝動にすぎないのではないか。これは大宇宙での話であって、地球人類のローカルな意識や観念の話ではないのはもちろんだが、すべてのものに栄枯盛衰があるというのは、さけがたい法則であろう。

 

このような、人間にとっては、畏怖すべき「死」=「破滅」の状態こそがごくあたりまえのことであって、「生」=「繁栄」のほうが束の間の珍しい現象なのかもしれない。いや、まちがいなくそうだろう。だから、知性をもちはじめ、意識を肥大化させてきた人間にとって、その珍しい現象がいとおしく感じられてならないのだ。と、思うのだが。こういうことは、講義ではしゃべらない。個人的感想だから。

若い頃、乱読したフロイトの著作を、時間ができたら、ゆっくりと読み返したい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88


意識のめざめ、あるいは霊のさけび!

2011年12月27日 23時40分24秒 | 文芸

■断片

 

わたしは誰だ?

まずはじめにそんな問いかけが浮かんだ。

なにも見えない。聞こえない。自分の問いかけだけが、自分の中でグルグルめぐっているだけだ。あるいは、わたしは誰であったか?

わたしは、突然に目覚めたのだ。目覚めたということは眠っていたのか? 意識がなかったものが覚醒したのか。これは同じことではない。石には記憶がないはずだ。いや、なぜわたしはそんなふうに考えるのか?

 

周囲を観察することで、なにか手掛かりをつかもうにも、周囲は闇と無音の沈黙の世界だ。冷たいとか温かいとかの感覚もない。

つまりは虚無の世界か。いや、虚無の世界ならば自分が存在すること自体ないだろう。このように思考をめぐらせ、まがりなりも論理をはたらかす機能をもった自分がいるはすがない。

 

わたしは闇のなかを漂っているのか? たしかに、とまっているのではなく、どこかわからぬ方角に動いている感じはする。上か下か、前か後ろか、いやその方向というものに意味があっての話だ。基点がないのであれば、方向など意味がない。

 

「死」という言葉が思い浮かんだ。わたしは死んだのか? あるいは死んでいたというべきか? 「死」からめざめたのか! さきほどの「眠り」という言葉よりもそれに近かったような気もする。

 

わたしは誰だ?

 

「霊」という言葉がつづいてやってきた。「死」にひきづられて思いだしたらしい。わたしは死しんで「霊」になっているのか?しかし、「霊」とはなんのことだ。このように、思いだけが漂っている存在のことか。

 

暗い! 完全な闇だ。闇の対抗概念を思い出そうとする。なかなかその言葉はやってこない。闇と対極で、かつては見えたもの。いや、そのおかげで、物が見えたのだ。それがいまはない。「盲目(ブラインド)」という言葉がやってきた。見る器官が機能しなくなっていること。ならば、見えていたときの「記憶」なら呼びだすことができるはずだ。しかし、どこからよびだせというのか? 

こんなふうに考えるわたしは誰だ?


night

2011年12月24日 02時39分56秒 | 文芸

故園(こえん) (びょう)として(いず)れの(ところ)

帰思(きし) (まさ)(ゆう)なるかな

淮南(わいなん) 秋雨(しゅうう)(よる)

高斎(こうさい) (かり)(きた)るを(き)

 


H.C.アンデルセンの言葉から 

2011年12月11日 04時08分47秒 | 文芸

         アンデルセン童話との出会い再び

 

 アンデルセンの童話に再び出会う際に、作者自身の生涯やその個性をすこしでも知ることにより、また、一見悲観的な救いのない残酷なメルヒェンのなかに彼の生涯が深く刻まれ投影していることを知ると、また新たな感慨を持って味わうことができるのではないか? ほとんどの童話作品を、その息づかいを感じながら翻訳していいると、ハンス・クリスティアン・アンデルセンの霊が、いや魂がいとおしくなってくるのは、わたしだけであるだろうか? 彼、アンデルセンは現世でなく、魂の救済を求め続けた稀有な作家ではなかったのだろうか。わたしは、彼の多くの作品の中に、人生にあってなにものかになり、なにごとかを成したいという震える魂をかんずるのである。

                          天沼 春樹

 

          H.C.アンデルセンの言葉から 

 

 わたしの生涯は波瀾にとんだ、そしてまた幸福な一生でした。それは、さながら1編の美しいメルヒェンのようでした。貧しい少年だったわたしが、たった1人で世の中に乗りだした当時、運命の女神があらわれて、「さあ、あなたの進みたいと思う道と志を選びなさい。そうすれば、あなたの魂が成長するにしたがって、この世の道理にかなうように、あなたをまもりみちびいてあげましょう」と、いわれたとしても、わたしの運命はこれほど幸運に、賢明に、そしてたくみにみちびかれはしなかったにちがいありのません。わたしの身の上話は、世の中がわたしに語ってくれたことを、ただ語ろうとしているだけなのです。------この世には、慈悲深い神様がいらして、すべてのことを、できるだけよいようにとみちびきなされるものなのです。

                 das Märchen meines Lebens 1846年より

 

 父のハンス・アンデルセンは、なんでもわたしの思いどおりにしてくれました。わたしは、父の愛をひとりじめしていました。父はわたしのために生きていたようなものです!父は日曜日など、ひまさえあれば、わたしに玩具を作ってくれたり、絵を描いてくれました。夜には、ときどきわたしたちのために、大きな声でラ・フォンテーヌの『寓話』やホルペーアの『千一夜物語』を読んでくれましたるそういうふうに、本を読んでいるときだけは、笑っていたのを覚えています。父は職人としての人生を、少しも幸福に感じたことがなかったからです。・・・・わたしがまだ幼かった頃、ある日、ラテン語学校の生徒が家に靴の注文にやってきて、そのついでに、教科書をみせながら、学校でならったことをあれこれ話していったことがありました。そのときです。わたしは、父の眼に涙が浮かんでいるのを見ました。「おれだって、ああした道をいけたんだがなあ!」そういって、父はわたしを抱きしめ、強くキスをしました。そして、その晩はひどく沈みこんでいたものです。

 

わたしは、風変わりな空想的な子どもでした。歩くときなど、いつも眼をつぶってあるくクセがあったので、とうとう、わたしの視力が弱いのではないかと思われてしまったほどです。わたしは視力にかぎっては、その頃もいまも、すこぶる良いのですが。

 

 以下、詳細は12.15講演にて............


再告知 空席若干有だそうです(^^;

2011年12月09日 16時28分07秒 | 文芸

『アンデルセン童話集』(西村書店)刊行記念

アンデルセン童話との出会い再び


天沼春樹(ドイツ文学者・作家)

■2011年12月15日(木)19:30~

「みにくいアヒルの子」「親指姫」「はだかの王さま」「人魚姫」――聖書についで世界中でもっとも翻訳され、いまなお愛されつづけるアンデルセン童話。
『アンデルセン童話全集 全3巻』(西村書店刊)は、国際アンデルセン賞画家賞など数々の受賞歴を誇る、「色彩の魔術師」ドゥシャン・カーライと、その妻カミラ・シュタンツロヴァーが、4年の歳月をかけて156編のアンデルセン童話に挿絵を描いた渾身の作品です。
また翻訳は、作家でドイツ文学研究者の天沼春樹さんによる、アンデルセンが当時子どもたちに語っていたように、わかりやすく親しみやすい口調をめざした新訳です。
全3巻の第1巻刊行を記念して、訳者の天沼春樹さんに、アンデルセンの魅力や知られざる一面、恋の話と作品への影響、アンデルセン作品の翻訳にあたっての苦労話など、さらに、カーライさんのイラストを用いながら、天沼さんと画家カーライさんとの交流、カーライさんの作品について、盛り沢山に語っていただきます。

◆講師紹介◆
天沼春樹(あまぬま はるき)
1953年、埼玉県生まれ。中央大学大学院博士課程修了。中央大学文学部兼任講師(ドイツ文学)、日本グリム協会副会長をつとめる。また、日本ツェッペリン協会会長として、日本における飛行船復活の活動に意欲を燃やしている。主な著書に『水に棲む猫』『猫町∞』(共にパロル舎)、「タイムマシンクラブシリーズ」(くもん出版)、訳書に『ヒンデンブルク炎上』(新潮社)、『緑の石食い虫』(西村書店)、『ドラゴンゲート』(柏書房)、「絵本グリムの森シリーズ」(パロル舎)、「宇宙英雄ローダンシリーズ」(早川書房)など。

☆会場・・・4階喫茶にて。入場料1,000円(ドリンク付)
☆定員・・・40名
☆受付・・・1階サービスカウンターにて。電話予約承ります。
ジュンク堂書店 池袋本店 TEL. 03-5956-6111 FAX.03-5956-6100