天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

水に棲む猫 2章-1

2012年04月29日 00時35分42秒 | 文芸

II.秘密結社/密偵たちはよくその使命を果たした

 その年の春。一九六四年の三月から四月にかけて、ぼくたちはほとんど毎日のように儀式をくりかえした。たくさんの猫たちが水に帰っていった。猫たちはいともたやすくぼくたちの手に落ちてきた。まさにぼくたちと猫の密月であったわけだ。猫の意見はこの際別にしても。

 ぼくたちの仲間は八人、そのうちのひとりはちっぽけな鼓手の、いわば員数外の弟だ。それ以上仲間が増えることはなかった。ぼくたちはたいていその八人でほとんどの休日をすごしたものだ。家が近いわけでもなく、とりたてて気があうというわけでもなかったのに、ぼくたちは祭司の少年を囲んで寄り集まった。そして、他にも話はあろうものを、ただ猫と儀式のことばかり喋ってすごした。誰もがそれぞれの猫の物語を持っていて、たくさん知っている者が仲間たちのなかで、はばをきかせたものだ。

 ぼくたちの結束は固く、祭司の気分は猫の目のように変わりはしたが、儀式は堕落せずにつづいていた。それはもうひとつの秘密結社といってよかった。町にはまだ少年たちのグループがいくつかあって、力の強い上級生が大将におさまって互いに牽制しあっていたものだが、そういうグループがみな同じ地区の子どもたちでなんとなくできあがっていたのに、ぼくたちの仲間は町内も学年もクラスもまちまちで、普通なら一緒に遊ぶこともないような顔ぶれだった。ひとりの仲間がもうひとりの仲間を連れてきて、気がつくと八人だったのだ。その八人で〈儀式〉の意味について話し合ったことはなかったけれど、暗黙のうちにひとつの不可解な教義をつくりだしていた。すなわち「猫は再び水の国で生きる」というそれだ。子どもっぽいまやかしの言説のようにも思えるが、その教義のもとにぼくたちは猫を集め、河に運んだ。

 そして、あの哀れな黒猫とエセ教団の事件がもちあがった。あちこちの少年のグループが亜流の結社よろしく、まがいものの儀式を愉しみはじめた。早い話が、彼らも生贄遊びを始めたのだ。気にいらぬことには、彼らはまるで〈教義〉というものもなしに単なる虐待に走っているのだ。邪教の信徒たちは、猫を神としてではなく、もっぱら虐待のためだけに追いまわしていた。路上で身柄を拘束された猫は近くの空地に連行され、そのときどきの思いつきによる刑罰を受けた。(猫に罪があるというなら刑罰と呼べるはずだが、そんなことは問題ではなかった)

 猫婆と呼ばれていた愛猫家の老婆の飼い猫の一匹が、ある晩杭に縛りつけられ、地面に磔りつけにされた。足の悪いその老婆は戻ってこないその猫の名を呼びつづけていたという。その黒猫の名前がニューギニアの戦地にいったまま行方不明になっていた老婆の息子と同じ名前だったとは、後で大人たちがしていた噂だ。

 猫はひと晩そのまま星を仰いでいた。翌朝、猫は喉笛をくいちぎられた無残な姿で死んでいた。野犬かなにかが夜のうちに襲ったらしかった。近くの家の者が深夜に気味の悪い獣の唸り声を聞いたという。

「猫を殺すと祟られるぞ」

 大人たちは空地に集まってきた子どもの誰かれとなくつかまえて忠告していた。悪い遊びが流行っているのに大人たちも気がついたらしかった。

 ぼくたちがその空地に行ったときには、もう惨劇の跡はなく、代わりに真新しい土慢頭がひとつできていた。死骸を埋めたのか、ただ土をかけただけなのかわからなかったが、積み上げられた泥に混じって猫の毛の切れ端のようなものが見えていたので相当無残にやられていたのがわかる。

 情報通の少年が、この事件の首謀者にちがいない連中の名をあげた。顔の長い、大きな鼻と分厚い唇した少年に率いられているグループだ。他の地区の子どもたちから〈馬〉というあだなで呼ばれているその少年は、ぬきんでた体格を利してたくさんの手下たちをつくり、彼になびかない子どもたちに露骨な嫌がらせをして恐れられていた。しかし、その立派な体格は、音楽教師の目にとまるところとなり、鼓笛隊の大太鼓を拝領するにいたった。手下どもの尊敬の念がいや増すことになったのはいうまでもない。

「俺はまえにあいつに殴られたんだ」

 〈馬〉の旧悪を暴いて今度のエセ儀式の犯人であると決めつける少年もいた。

 だが、ぼくたちの仲間がいちばん関心を持っていたのは、人の寝静まった夜更けに、屈辱的な私刑を受けている猫に密かに近づいて、かれに引導を渡した者のことだ。黒猫の喉笛を食いちぎった刺客は、いったいどこから来たのかという推理こそぼくたちの領分ではないか。

 猫族に恨みを持つ鼠のテロ行為。猫にかっての職分を奪われたけイタチの残党の復讐。(かつて武蔵野の原野を駆けていたイタチも学校の理科教室に剥製となって鎮座まします時代だったけれど)通りがかりの野犬の衝動的犯行とも考えられるし、或は野犬の仕業にみせかけた変質者の犯行かもしれない。時折、妙な念仏を唱えながら町をうろついている頭のおかしな浮浪者や、自分の家の裏庭でやたらと鶏をつぶしては食べている近所の金物屋の親父なら、夜更けに猫一匹殺すくらいのことはやりそうだ。ぼくたちは自分たちの行状はたなにあげてあれこれと思いめぐらしたものだ。

 なかでもいちばん仲間の支持を集めたのは、猫たちによる猫殺しという空想だった。空地で磔刑をうけている黒猫のまわりに、猫屋敷の仲間たちが寄り集まってきて、彼らの決定を告げる。

 

  オマエニハ、死ンデモラワネバナラヌ。今ヤ救イヨウモナク恥辱ニマミレタオマエ  トオマエノ眷族デアル我々ノ誇リヲ回復スルタメニ、人間タチニ警告ヲ与エルタメ   ニ、オマエハコノ地ニ死骸ヲ曝サネバナラヌノダ。 

 

 長老の猫が諭すように告げたあと、一匹の逞しい若猫が走りでて、哀れな仲間の喉にかぶりついたに違いない。その若猫は、以前からその主人の寵愛めでたい猫を妬んでいて、大義名文を得たそのとき、情け容赦なく彼の喉笛を食いちぎったはずだ。処刑された猫は傷口からとくとくと血を滴らせながら恨みをのんで死んでいったろう。やがて、この空地にも黄色い南瓜の花が咲くのだ。

 黒猫の弔問を済ませたぼくたちは、声をかけあって秘密の集会所に集まった。仲間のひとり、自動車修理工場のトオルが荷物置場になっているガレージの二階をアジトとして提供していた。古タイヤやサスペンションのバネ、グリースの空き缶、埃をかぶったラジエターが雑然と積まれたそのアジトのなかにそれぞれの坐る場所をみつけて、ぼくたちは次の儀式の段取りをつけるのがきまりだった。

 トオルには弟と妹が四人もいて、さらにもうひとり生まれる予定の彼の母親は、トオルの姿をみかけると必ずそのうちの何人かをあてがって子守りをさせた。その弟妹がガレージの二階でたびたび粗相をするので、ただでさえ油臭いアジトはねっとりとした豚小屋も顔負けの悪臭が漂っていた。トオルは誰よりも先に物置に飛び込んで、ひとつしかない窓を開けはなす。そして、もういいぞ、とでもいいたげに、切れ長な眼に小さな光を浮かべてぼくたちを招きいれた。彼も彼の弟妹たちもあまり風呂に入らないらしく垢じみて薄汚れていた。だが、アジトを提供しているという一事が、彼の仲間うちでの地位を不動なものにしていた。本人のまえではあからさまにはいわなかったが、それにしてもあいつの妹はキタネエナ、と仲間たちは呆れたように陰で言っていた。今日はあの二番目の女の子が来なければいい、と誰もが内心思っているはずだ。

 祭司の少年はみんなより遅れてやってきた。例の空地には行かなかったらしい。すぐに空地での一部始終を誰かが声を落として報告している。あれは追従屋のヒロシだ。

 祭司のほうは耳を傾けながらもなにか居心地が悪そうに何度もあたりを見まわしていた。祭司はこのアジトがあまり気にいっていない様子だった。父親どおしが酒をのんで大喧華したことがあったからだ。一町内を震憾させた殴り合いの原因は誰もが知っていた。祭司の妹を轢いたのは、この修理工場のトラックだったのだ。

 祭司は足音をさせずに床を歩きまわる。いつも階下に注意を払っている。工場の主人が若い工員を怒鳴りつけながらガレージの周りをうろついているようなときは、決してアジトに近づかないし、ふいに下で声がしたりすると、ひとつしかない窓からいつのまにか姿をくらましてしまう。彼の父親の言いつけか、彼自身が嫌っているのか、ともかく祭司は妹を死なせた男と顔を合わせたがらなかった。

 仲間たちがみんなガレージの二階に集まったとき、トオルの父は遠くの検査場で依頼主と声高にやりとりしていた。工場の騒音のなかでは、大きな犬が吠えているようにも聞こえた。

「うちの親父もこの一件じゃ怒っているんだ」

 妹を膝に乗せた少年が口を開いた。

「猫屋敷の婆さんにみんな同情してるんだ。あんな殺されかたってないよね」

 仲間たちは祭司の顔色を窺った。祭司の父親の噂を思いだしているのだ。

「いままで猫屋敷から連れてきた猫はいなかったのに」

「あそこの猫はあの家が気にいっているのさ。婆さんを親猫か猫の大将だとでも思っているんだ」

「婆さんが死んだらあの家の猫どうするかな」

「もう死んじまっているのかもしれないぜ。化猫が手下と一緒に棲んでいるって話を聞いたことがあるよ。あの家の床板をあげてみな。婆さんの骨が散らばっているから」

「それにしても〈馬〉のやつふざけてやがる。この前は子犬を川にたたきこんでいたよ。それから病気の兎。毛がすっかり抜けているやつだ。祭りの日に買ってきたヒヨコとか、なんでもかんでもさ」

「子犬?それじゃあ、自転車屋で生まれた三匹かい。あれはぼくが欲しかったのに」

「犬は泳いで逃げちまった。今頃はとなり町をうろついているさ」

「兎も逃げたの?」

「この間、赤間川の水門のところに浮いていたのがそうだよ。あれじゃ兎に見えないけどな。生き物が水を吸うとあんなにふくれるものかな」

 どれも芳しくない噂だ。町のあちこちでゆるしがたい生贄遊びが行われているようだった。ぼくたちはたがいに顔を見あわせた。

「やめさせよう」

 祭司が独り言のようにそういった。それでぼくたちは一斉に祭司の表情を窺った。何か手段を講じるならば、早いうちでなければならない。大人たちが気づき、学校が〈禁止令〉を布告するまえに、邪教徒たちの芽を摘まねばならない。祭司は本気で結社の危機を憂えているようだった。とはいえ、八人しかいない、おまけにそのうちの一人は鼓手志望の痩せっぽちの弟である。そんなぼくたちが雨後の笥のようにあちこちに生まれたエセ結社にどんな打撃を与えることができるだろう。あの〈馬〉が率いる集団のような多人数にむかって喧華をしかけていくほどぼくたちはむこうみずでも、勇敢でもなかった。ただ、ぼくたちは、あの河へむかって意気揚々と行進する午後を失いたくなかったのだ。弟はまだ太鼓をたたきたらなかったし、町には水に帰すべき猫がたくさんいたのだ。このままではいけない、と祭司はいう。猫は汚されてしまう。ぼくたちと邪教徒たちと見分けられなくなってしまう。彼らはもはやらくらくとぼくたちの手に落ちてはこない。

 ぼくたちは祭司の言葉をかみしめながらあれこれと想像をめぐらし、よくわからない感情に突き動かされて、儀式の安泰を願っていた。鼓手の打ち鳴らす出発の太鼓。河へむかう行進。猫神様はダンボール箱のなかで憩うておられる。石油罐の太鼓は叫ぶ。猫が水の国に帰る、と。ぼくたちはその時間を失いたくなかったのだ。そして、やわらかな毛並みのしたで静かに息をしているあのしなやかないけにえとの親密な関係も。

 



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