八障連通信377号をアップします。
通信【音声版はこちらから】
ここからは通信本文です。
【連載コラム vol.30 『音サインが頼みの綱なのだけれど』 ハーネス八王子 鈴木 由紀子】
色や光の変わり具合が物理的に識別できない視覚障害者に対して、音サインは最もよく使われる代替手段です。最近ネットや新聞のニュース欄をにぎわせているのは駅ホームでの音サイですが、まちの中でも、さまざまな音サインが使われています。トラックがバックしたり方向を変えるときには「プゥッ、プゥッ」といった電子音が聞こえます。また、路線バスがバス停に近づくときにも「ピンポン」という可愛い電子音の音サインが聞こえてくることを、皆さんもご存じだと思います。いまや私たち視覚障害者は、このサインによる手がかりなしには、まちを歩くことができないと言っても過言ではありません。人と車の往来を制御する交通信号システムでも、音サインが使われます。交差点では、歩行者用の信号が青になり、道路を南北に横断できるとき「ぴよぴよ」の音サインが聴こえ、東西方向に渡れるとき「カッコー」の音サインが聴こえることになっていると聞いています(何らかの事情で、イレギュラーな運用が行われている場所もあるようですが)。
さて、身体障害者相談員を委職されている私は数カ月前、八王子市内に住む視覚障害者から次のようなお話をいただきました。それは、桑並木通りと甲州街道が交差する横山町の「八王子駅入口」という交差点の音響式信号
機について「ぴよぴよ」「カッコー」の音量がどちらも小さすぎて聴き取りにくく、いつも恐い思いをしながら道路を渡っており、何とかならないだろうか。これまでに何度か八王子警察署の担当者にも、その思いを訴えたけれど、周の住民から「音がうるさい」と苦情が来ると困るので難しいなどと言われ、一向に改善してもらえないということでした。
そこは JR 八王子駅から北に数百メートル行ったところで、東西に走る甲州街道と、南北に走る桑並木通りが交差する、いわば八王子市内の交通の要衝の一つ。私も買い物その他の用事で毎日のようにその交差点を利用します。この方がおっしゃるとおり、甲州街道、桑並木通り、どちらも右折車や左折車が多く、しかも大型のバスやトラックも頻繁に往来していて、危険な場所だと認識しています。朝や夕方の交通ラッシュ時や雨降りの日には、なるべくそこを通らないようにしているほどです。今回の指摘を受けて実際にその位置に立ってみて「周囲の住民に配慮すべき」という点について、1 点調整すべき事柄があると気付きました。
その交差点の音響式信号機のボックスは桑並木通りの西側にあります。夜間や早朝を除く日中の時間帯に、自動的に「ぴよぴよ」や「カッコー」の音が流れる仕組みです。音響式信号機の真後ろのビルの 3 階部分の外壁には、スピーカーが 2 個付いていて、コマーシャル放送や音楽が、一日中日ぎやかに流れています。現状のままでは、音サインもかき消されてしまうので、音響式信号機のボリュームをある程度上げることには、十分合理性があると思われます。また、ひっきりなしに往来する車の走行音も考慮すると、音源から 10 数メートル離れた甲州街道の北側の歩道には、音サインが十分届きにく
く、目が見えない歩行者をさらに危険にさらすことになります。上記相談者の訴えのとおりです。交通信号を管理しているのは警察署なので、私も早速、八王子警察署の交通規制課の担当者に電話をかけて相談内容を伝えました。しかし今回も「検討してみますが、できるかどうかはわかりません」という対応ぶりで、よい感触は得られません。このような地域の問題を改善するには、役所がらみで交渉するよりも、商店会や自治会の理解や協力を求めるという市民レベルの交渉スタイルが、より有効なのだと気付かされた一件です。
さて、身体障害者相談員を委職されている私は数カ月前、八王子市内に住む視覚障害者から次のようなお話をいただきました。それは、桑並木通りと甲州街道が交差する横山町の「八王子駅入口」という交差点の音響式信号
機について「ぴよぴよ」「カッコー」の音量がどちらも小さすぎて聴き取りにくく、いつも恐い思いをしながら道路を渡っており、何とかならないだろうか。これまでに何度か八王子警察署の担当者にも、その思いを訴えたけれど、周の住民から「音がうるさい」と苦情が来ると困るので難しいなどと言われ、一向に改善してもらえないということでした。
そこは JR 八王子駅から北に数百メートル行ったところで、東西に走る甲州街道と、南北に走る桑並木通りが交差する、いわば八王子市内の交通の要衝の一つ。私も買い物その他の用事で毎日のようにその交差点を利用します。この方がおっしゃるとおり、甲州街道、桑並木通り、どちらも右折車や左折車が多く、しかも大型のバスやトラックも頻繁に往来していて、危険な場所だと認識しています。朝や夕方の交通ラッシュ時や雨降りの日には、なるべくそこを通らないようにしているほどです。今回の指摘を受けて実際にその位置に立ってみて「周囲の住民に配慮すべき」という点について、1 点調整すべき事柄があると気付きました。
その交差点の音響式信号機のボックスは桑並木通りの西側にあります。夜間や早朝を除く日中の時間帯に、自動的に「ぴよぴよ」や「カッコー」の音が流れる仕組みです。音響式信号機の真後ろのビルの 3 階部分の外壁には、スピーカーが 2 個付いていて、コマーシャル放送や音楽が、一日中日ぎやかに流れています。現状のままでは、音サインもかき消されてしまうので、音響式信号機のボリュームをある程度上げることには、十分合理性があると思われます。また、ひっきりなしに往来する車の走行音も考慮すると、音源から 10 数メートル離れた甲州街道の北側の歩道には、音サインが十分届きにく
く、目が見えない歩行者をさらに危険にさらすことになります。上記相談者の訴えのとおりです。交通信号を管理しているのは警察署なので、私も早速、八王子警察署の交通規制課の担当者に電話をかけて相談内容を伝えました。しかし今回も「検討してみますが、できるかどうかはわかりません」という対応ぶりで、よい感触は得られません。このような地域の問題を改善するには、役所がらみで交渉するよりも、商店会や自治会の理解や協力を求めるという市民レベルの交渉スタイルが、より有効なのだと気付かされた一件です。
【連載コラム Vol.62 『多様な学びとは...』 八障連代表 杉浦 貢】
最近、ずっと考えていることなのですけれど...小中高 6・3・3制で 12 年。大学に進むならそこからさらに 4 年...誰でも学べる世になって久しい昨今ですが
...。学校で学んだことを社会に出てから、細大漏らさずきちんと覚えて...知識を 100 パーセント活用しながら生活している人ってどれだけいるんでしょうか...。
現役の学生だった頃こそ、それなりに勉強するけれど...、学校を出て数年もすると、学んだこともすっかり忘れてしまう...という人もかなり多いでしょうし、せっかく学んだことを覚えていても、使う機会のないままの知識というのもありますよね。
まあ...それはそれでも良いと思うのです。一度学んだ内容を忘れてしまうにせよ、全く何も学んだことの無い場合よりは、少しはマシ...。かつて 10 まで学んだことが、0 やマイナスにならず、どれほど最低でも 1 か 2 くらいは頭に残る...、このことだけでも学んだ価値はあります。全く勉強の機会を与えられない場合より、それがどれだけ幸運であることか。
似たような論理が、知的や発達の課題を抱えるお子さんにも言えると思うのです。他の子が 10 まで理解できることを、やっと 1 か 2 くらいしか理解出来ないとしても...、全く何も教わらないでいる状態よりは、はるかに学んでいると言えるわけで...。
しかし、現行の学校教育...特に障害のあるお子さんが普通校、通常学級で学ぶ場合には...それでは通用しません。仮に数値 10 が満点とするなら、合格ラインは 7 か 8 くらいというところでしょうか。そこでは、1 か 2 なんて数値は 0 と同じ。まともに学んでいる...とも見なされない数値です。全員が満点は取れずとも、できるだけ大勢で、なるべく満点に近い数値を目指す...というのが当たり前の常識になっています。
しかし...一生懸命テストの点取り虫として励んだ学生時代の日々も、社会に出れば、大半が忘れ去られていくのです。であるなら、いっその事...元より...頭が悪い、要領が悪いと言われて見捨てられてしまうような子どもさんたちが、同じ場所、同じ教室で学ぶのがなぜ悪いのか。ということを...、最近の私は、ずっと考えて続けています。
どうせ社会に出ればポーンと忘れてしまう知識の量を比べて、子ども同士の勝ち負けを決め...『出来る子』と『出来ない子』をより分ける。そんなことには、なんの意味もないと思います。大切なのは...一人一人の子どもさん、本人たちがどう過ごし、どう学ぶか...何を学ぶか...ということであり、ほかと競争するのは、あくまで学びを測る目安ではあっても、競争に勝つことそのものが目的では無いはずです。
...。学校で学んだことを社会に出てから、細大漏らさずきちんと覚えて...知識を 100 パーセント活用しながら生活している人ってどれだけいるんでしょうか...。
現役の学生だった頃こそ、それなりに勉強するけれど...、学校を出て数年もすると、学んだこともすっかり忘れてしまう...という人もかなり多いでしょうし、せっかく学んだことを覚えていても、使う機会のないままの知識というのもありますよね。
まあ...それはそれでも良いと思うのです。一度学んだ内容を忘れてしまうにせよ、全く何も学んだことの無い場合よりは、少しはマシ...。かつて 10 まで学んだことが、0 やマイナスにならず、どれほど最低でも 1 か 2 くらいは頭に残る...、このことだけでも学んだ価値はあります。全く勉強の機会を与えられない場合より、それがどれだけ幸運であることか。
似たような論理が、知的や発達の課題を抱えるお子さんにも言えると思うのです。他の子が 10 まで理解できることを、やっと 1 か 2 くらいしか理解出来ないとしても...、全く何も教わらないでいる状態よりは、はるかに学んでいると言えるわけで...。
しかし、現行の学校教育...特に障害のあるお子さんが普通校、通常学級で学ぶ場合には...それでは通用しません。仮に数値 10 が満点とするなら、合格ラインは 7 か 8 くらいというところでしょうか。そこでは、1 か 2 なんて数値は 0 と同じ。まともに学んでいる...とも見なされない数値です。全員が満点は取れずとも、できるだけ大勢で、なるべく満点に近い数値を目指す...というのが当たり前の常識になっています。
しかし...一生懸命テストの点取り虫として励んだ学生時代の日々も、社会に出れば、大半が忘れ去られていくのです。であるなら、いっその事...元より...頭が悪い、要領が悪いと言われて見捨てられてしまうような子どもさんたちが、同じ場所、同じ教室で学ぶのがなぜ悪いのか。ということを...、最近の私は、ずっと考えて続けています。
どうせ社会に出ればポーンと忘れてしまう知識の量を比べて、子ども同士の勝ち負けを決め...『出来る子』と『出来ない子』をより分ける。そんなことには、なんの意味もないと思います。大切なのは...一人一人の子どもさん、本人たちがどう過ごし、どう学ぶか...何を学ぶか...ということであり、ほかと競争するのは、あくまで学びを測る目安ではあっても、競争に勝つことそのものが目的では無いはずです。
どうせ社会に出ればポーンと忘れてしまう知識の量を比べて、子ども同士の勝ち負けを決め...『出来る子』と『出来ない子』をより分ける。そんなことには、なんの意味もないと思います。大切なのは...一人一人の子どもさん、本人たちがどう過ごし、どう学ぶか...何を学ぶか...ということであり、ほかと競争するのは、あくまで学びを測る目安ではあっても、競争に勝つことそのものが目的では無いはずです。
先月末、コロナ禍による緊急事態が明けて...久しぶりに学校訪問に招かれました。午後の授業に間に合うように、給食後の時間を狙って学校へ。
その日は中学校への訪問でした。 中学生を相手に講話するのは、本当に久しぶりで、気が引き締まります。福祉講話の会場となる体育館に案内されると、一年生が床を磨いているところでした。
『今、ここを掃除している子たちがそのままお話を伺うことになります』と先生から説明されましたので...、私も、『お掃除の途中、お邪魔します。この後の時間、よろしくお願いします』と、子どもさんにご挨拶させていただきました。すると...モップや雑巾を手にした生徒さんも...、『よろしくお願いします』と返事をしてくれます。義理で言わされている感もなく、ニコニコと良い返事。押しつけでなく、どの子も挨拶の習慣が身についているのがわかりました。生徒さんの挨拶の一語を聞いても、先生方の指導の質の高さが感じ取れます。ただ頭ごなしに『挨拶しましょう』と、ルールを詰め込むだけでは、あんな、聞く耳に心地の良い挨拶の声は、なかなか出てきません。が...しかし、床の上にうつ伏せになったまま、ピクリとも動かないお子さんが一名。周りの子担任の先生も、さしてその子を気にしません。 無視していると言うよりは、『そういうもんだ』と見守っている感じでした。私も『あの子はどうして床に?』と先生に聞いてみます。私も『あの子はどうして床に?』と先生に聞いてみます。
『気が済んだら移動するでしょう』 呆れるでも見放すでもなく、優しく見守る声音の一言でした。
この学校、すげえ。私も、ちょいとばかり面白くなったので、その子にちょっと近づいてみました。『床が冷たくて気持ちいいの?』、『うつ伏せが楽なんだね』 いくつか尋ねてみましたが...反応なし。
私を拒絶しているというより...ヨガとか...瞑想にふけっている感じでした。『ずっとそこにそうしたいなら御自由に。よし、車いすで轢いちゃおうかな?』もちろん、私にはその子をタイヤで轢いたり傷つけたりするつもりはありません。ちょっとからかったわけですが...
見ている周りの子たちもちゃんと起きないと轢かれちゃうよ~と、私に合わせてくれました。それを聞いたうつ伏せの子。
『きゃー!轢かないで、轢かれちゃう!』と楽しそうに走り出しました。
それにしても、周りの子も先生も、まったく違和感なく、個性の強いその子を受け入れているのが素晴らしかったです。
講話を終えた後になり...、担任の先生が話してくれたところによれば、『あの子のお母さんも複雑なようです。
これまでは小学校から普通校でずっと過ごしてこれたけれど、学年が進んで勉強が難しくなったり、学校生活そのものが辛くなってくるようであれば、キチンと医師の判定を受けて障害者手帳も申請したいとお母さんも言っていました』どんな進路を歩むかは親御さんとその子の決めることではありますが...せめて中学卒業くらいまでは、ずっと今のまま普通校で過ごして欲しいと私は思いました。
障害のある子が普通校、普通学級で学ぶということは、必ずしも障害児だけの学びに留まりません。たとえ、障害のある子どもさんが、みんなと同じ授業についていけないにせよ、障害のない他の子にとっても、異なる人と一緒に過ごす体験が、貴重な学びになる場合があるだろう、と思うからです。
先月末、コロナ禍による緊急事態が明けて...久しぶりに学校訪問に招かれました。午後の授業に間に合うように、給食後の時間を狙って学校へ。
その日は中学校への訪問でした。 中学生を相手に講話するのは、本当に久しぶりで、気が引き締まります。福祉講話の会場となる体育館に案内されると、一年生が床を磨いているところでした。
『今、ここを掃除している子たちがそのままお話を伺うことになります』と先生から説明されましたので...、私も、『お掃除の途中、お邪魔します。この後の時間、よろしくお願いします』と、子どもさんにご挨拶させていただきました。すると...モップや雑巾を手にした生徒さんも...、『よろしくお願いします』と返事をしてくれます。義理で言わされている感もなく、ニコニコと良い返事。押しつけでなく、どの子も挨拶の習慣が身についているのがわかりました。生徒さんの挨拶の一語を聞いても、先生方の指導の質の高さが感じ取れます。ただ頭ごなしに『挨拶しましょう』と、ルールを詰め込むだけでは、あんな、聞く耳に心地の良い挨拶の声は、なかなか出てきません。が...しかし、床の上にうつ伏せになったまま、ピクリとも動かないお子さんが一名。周りの子担任の先生も、さしてその子を気にしません。 無視していると言うよりは、『そういうもんだ』と見守っている感じでした。私も『あの子はどうして床に?』と先生に聞いてみます。私も『あの子はどうして床に?』と先生に聞いてみます。
『気が済んだら移動するでしょう』 呆れるでも見放すでもなく、優しく見守る声音の一言でした。
この学校、すげえ。私も、ちょいとばかり面白くなったので、その子にちょっと近づいてみました。『床が冷たくて気持ちいいの?』、『うつ伏せが楽なんだね』 いくつか尋ねてみましたが...反応なし。
私を拒絶しているというより...ヨガとか...瞑想にふけっている感じでした。『ずっとそこにそうしたいなら御自由に。よし、車いすで轢いちゃおうかな?』もちろん、私にはその子をタイヤで轢いたり傷つけたりするつもりはありません。ちょっとからかったわけですが...
見ている周りの子たちもちゃんと起きないと轢かれちゃうよ~と、私に合わせてくれました。それを聞いたうつ伏せの子。
『きゃー!轢かないで、轢かれちゃう!』と楽しそうに走り出しました。
それにしても、周りの子も先生も、まったく違和感なく、個性の強いその子を受け入れているのが素晴らしかったです。
講話を終えた後になり...、担任の先生が話してくれたところによれば、『あの子のお母さんも複雑なようです。
これまでは小学校から普通校でずっと過ごしてこれたけれど、学年が進んで勉強が難しくなったり、学校生活そのものが辛くなってくるようであれば、キチンと医師の判定を受けて障害者手帳も申請したいとお母さんも言っていました』どんな進路を歩むかは親御さんとその子の決めることではありますが...せめて中学卒業くらいまでは、ずっと今のまま普通校で過ごして欲しいと私は思いました。
障害のある子が普通校、普通学級で学ぶということは、必ずしも障害児だけの学びに留まりません。たとえ、障害のある子どもさんが、みんなと同じ授業についていけないにせよ、障害のない他の子にとっても、異なる人と一緒に過ごす体験が、貴重な学びになる場合があるだろう、と思うからです。
【編集部より】
通信 377 号をお届けいたします。2021 年も早や師走、コロナ過の変異株・デルタ株で翻弄された感のある一年でした。最近は若干落ち着きを見せており、2 年ぶりの「忘年会の開催」などの話題がニュースで報じられたりしておりますが、世界を見わたすと新たな変異株「オミクロン株」が席巻しつつあります。今しばらくの警戒が必要となるのでしょうか。まだ「マスク」と、「3 回目のワクチン接種」が必要な生活が続きそうですが、会員の皆様、よいお年をお迎えください。(編集部)
【事務局通信 Vol.79】
急な冷えとともに、いよいよ冬に突入した感じですね。乾燥も進み、風邪などのウイルスの活動が本格的になってきますね...また、気が付けば、もう1年も終わる月ということで、皆様お忙しい時期が到来といった感じでしょうか。今年はその前の年から流行ってしまった新型コロナウイルスの落ち着きが見えない中で、不安な年明けだった気がいたします。(年末になってさらに新たな変異株が出てきてしまいましたが...) 私が記憶する中で、このような長期化して色々な影響をもたらすような感染症ってないものですから、正直どうしたらいいものか...。皆様も施設の運営上、どうしたらよいのか不安を抱えている事業所も少なくないと思います。また、入・通所施設を利用されている方々も外出自粛といわれ不安を持ちながら通われていた方も少なくないと思います。誰もが不安でどうしていくのが正解かわからない不安定な状況が続いていると思います。私の所属している事業所も利用されている方々から色々な声を聴き、利用するためにより良い利用環境つくりを考えてきました。それでもマスクや換気、消毒などの清潔保持ということで、あまり気にしていなかった衛生面を重点的に取り組む日々追われてきている状況でした。当初は慣れない生活習慣だったので何かが抜けてしまうことが多々ありました。しかし今では利用されている方、職員も慣れてきた様に思われます。自身が守ることは、他者を守ることにもつながるので、継続して取り組んでいきたいと思います。また、第3回の接種とテレビの報道において情報が錯綜しておりますが、八王子市から何か情報があれば、できる限り早く情報をお伝えしたいと考えております。そのためにも、以前お知らせをさせていただいたように、各事業所のメールアドレスを教えていただきたいと思います。よりよく正確な情報をお知らせするために、ぜひご協力をお願いいたします。(八障連のブログにおいても必要なことがあれば、発信をしております)
話は変わりますが、私自身の今年1年の状況を振り返るとやはり職場でのコロナ対策や、それに関連した作業の見直し、企業さんとのつながり方の変更など色々と見直し変更を繰り返し、一つうまくいきそうになれば緊急事態宣言で中座し話が消え...本当にコロナに泣かされ翻弄されているといって間違いないと思います。そんな中、利用されている方は日々通所をし、さらに施設内の衛生管理に協力をしてくれている状況です。中には「通所できる場所を維持してくれて感謝です」という言葉まで...。職員一人ではできない、周りの協力や理解があるからこそであると痛感させられました。今年残りわずかではありますが、新たな年に向かい、来年こそは少しでも新型コロナ感染症の流行前の状況に戻れることができればと願っております。(文責/立川)
話は変わりますが、私自身の今年1年の状況を振り返るとやはり職場でのコロナ対策や、それに関連した作業の見直し、企業さんとのつながり方の変更など色々と見直し変更を繰り返し、一つうまくいきそうになれば緊急事態宣言で中座し話が消え...本当にコロナに泣かされ翻弄されているといって間違いないと思います。そんな中、利用されている方は日々通所をし、さらに施設内の衛生管理に協力をしてくれている状況です。中には「通所できる場所を維持してくれて感謝です」という言葉まで...。職員一人ではできない、周りの協力や理解があるからこそであると痛感させられました。今年残りわずかではありますが、新たな年に向かい、来年こそは少しでも新型コロナ感染症の流行前の状況に戻れることができればと願っております。(文責/立川)
【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史 その 59】
2008 年 12 月 23 日の早朝の空は曇っていた。曇の動きが早く、空がだんだん明るくなり始めたので、高尾山へ向かった。私が自転車を駆る裏道はまだ濡れていたが、20 号線はかなり乾き始めていた。「稲荷山コース」を登り始めると濡れしょぼった岩肌のところもあり、滑りそうなのでいつもより強く地面を踏みしめながら登って行った。はじめは凍えそうな寒さを感じたが、登り始めると間もなく身体全体がポカポカしてきた。運動することの極意を感じたような気がした。
4 分の 1 くらいまで登ってくるとあたりがうっすらと白くなっており、あまりにもの寒さに霜が降りたのかとはじめ思っていたが、登るにつれその厚さが増していき、昨夜の雨は高尾山では雪になっていたのだと気づいた。雪山登山とは大げさな言い方だが、いつもとは全く違って見える周りの風景に魅了された。2 日早いクリスマスプレゼントであり、8 月からほぼ毎週登り続けた私への天からのご褒美だとも感じた。
頂上に近づいて行くと、いっそう雲の動きが速くなって青空が広がって行った。最後の 237 段の階段を登りつめた時に見えた頂上の雪景色に思わず息を飲んだ。薄青い空と灰色のグラデーションを描いた幾つかの塊の雲を背景に、薄っすらと雪をかぶった樹々に朝陽が当たり、その輝きの神々しさに言葉を失い、しばし立ち尽くした。刻々と変わっていく様子は写真のコマ送りのようだった。ポケットにおもちゃのデジカメを入れてきたことを思い出し、夢中にシャッターをおした。17回目のトレッキングが用意してくれていたビッグサプライズだった。
帰宅してからパソコンで映像を映しだすと油絵のような美しい画面が映し出された。ビギナーズラックだ。いや、ビギナーにすらまだなっていなかった。トレッキングがすっかり趣味のひとつになった上に、年末近くなって写真撮影にまで惹かれるようになるとは考えもしなかった。癌を乗り越えたご褒美がまたひとつ舞い降りて来た。
31 日の大晦日には、はじめて撮影を目的に高尾山へ出かけた。30 日の天気予報が 31 日はかなり冷えると伝えていたので、山頂は氷点下になることが予想されたからだ。年末に発行されたタウン誌に『シモバシラ』の写真が掲載されていた。初めて見る姿。冬になると寒い時に地面にできる霜柱とは、ちと訳が違う。「シモバシラ」という花があることもその時初めて知った。
シソ科の多年草で、茎の断面は四角形をしており段々木質化するのだ。40 cmくらいに伸びた茎に小さな純白の可憐な花が列をなして下から上に咲いて行くのだが、それを見るのは 2009 年の秋を待たなければならなかった。
木質化して枯れた茎は崩れずに赤茶け、ずっと突っ立ったままなのだが、地表が氷点下に下がる頃になると、毛細管現象で地下にある水分が茎の中を上がってくると水が氷結し、茎を破って外へ飛び出してくるのだ。この氷化現象が繰り返され、枯れた「シモバシラ」の周りに見事な薄氷の像が形作られ、見事な氷のページェントになる。それが繰り返されると木質化した茎も壊れて行き、少しずつ仮装舞台が小さくなり、そのうち影も姿も見えなくなる。だから、初期の頃の氷結時に温度が低いほど条件が良く、とてもこの世のものとは思えないような見事なアートが紡ぎ出されるのだ。
タウン誌にははっきりと場所が示されておらず、大まかな記述しかなかった。人が押し寄せるのを警戒した記事となっていたのだろう。予想していた場所には見当たらず、しばらく探し回ってついに発見した時には、天国の扉の前に立っているような気持がした。各地で開催される氷の祭典を見に行った事はあるが、高尾山で見た『シモバシラ』のような神秘的な美しさには巡り合ったことがない。それは高尾山から景信山へ向かう巻き道ぞいにあった。
しかし、まだ年末の気温ゆえ、冷えが足りなかったようで、小ぶりの『シモバシラ』しか見られなかった。ひとつひとつが小さい上に群生しているから、狙ったひとつを撮るのは困難を極めた。地面には枯れた草木が赤茶けて散らばっており、『シモバシラ』の背景に薄汚く写り込んでしまう。撮る事に夢中になっていると、『シモバシラ』を壊しかねない。既に足元にはいくつもの踏み潰された『シモバシラ』があった。(次号に続く)
4 分の 1 くらいまで登ってくるとあたりがうっすらと白くなっており、あまりにもの寒さに霜が降りたのかとはじめ思っていたが、登るにつれその厚さが増していき、昨夜の雨は高尾山では雪になっていたのだと気づいた。雪山登山とは大げさな言い方だが、いつもとは全く違って見える周りの風景に魅了された。2 日早いクリスマスプレゼントであり、8 月からほぼ毎週登り続けた私への天からのご褒美だとも感じた。
頂上に近づいて行くと、いっそう雲の動きが速くなって青空が広がって行った。最後の 237 段の階段を登りつめた時に見えた頂上の雪景色に思わず息を飲んだ。薄青い空と灰色のグラデーションを描いた幾つかの塊の雲を背景に、薄っすらと雪をかぶった樹々に朝陽が当たり、その輝きの神々しさに言葉を失い、しばし立ち尽くした。刻々と変わっていく様子は写真のコマ送りのようだった。ポケットにおもちゃのデジカメを入れてきたことを思い出し、夢中にシャッターをおした。17回目のトレッキングが用意してくれていたビッグサプライズだった。
帰宅してからパソコンで映像を映しだすと油絵のような美しい画面が映し出された。ビギナーズラックだ。いや、ビギナーにすらまだなっていなかった。トレッキングがすっかり趣味のひとつになった上に、年末近くなって写真撮影にまで惹かれるようになるとは考えもしなかった。癌を乗り越えたご褒美がまたひとつ舞い降りて来た。
31 日の大晦日には、はじめて撮影を目的に高尾山へ出かけた。30 日の天気予報が 31 日はかなり冷えると伝えていたので、山頂は氷点下になることが予想されたからだ。年末に発行されたタウン誌に『シモバシラ』の写真が掲載されていた。初めて見る姿。冬になると寒い時に地面にできる霜柱とは、ちと訳が違う。「シモバシラ」という花があることもその時初めて知った。
シソ科の多年草で、茎の断面は四角形をしており段々木質化するのだ。40 cmくらいに伸びた茎に小さな純白の可憐な花が列をなして下から上に咲いて行くのだが、それを見るのは 2009 年の秋を待たなければならなかった。
木質化して枯れた茎は崩れずに赤茶け、ずっと突っ立ったままなのだが、地表が氷点下に下がる頃になると、毛細管現象で地下にある水分が茎の中を上がってくると水が氷結し、茎を破って外へ飛び出してくるのだ。この氷化現象が繰り返され、枯れた「シモバシラ」の周りに見事な薄氷の像が形作られ、見事な氷のページェントになる。それが繰り返されると木質化した茎も壊れて行き、少しずつ仮装舞台が小さくなり、そのうち影も姿も見えなくなる。だから、初期の頃の氷結時に温度が低いほど条件が良く、とてもこの世のものとは思えないような見事なアートが紡ぎ出されるのだ。
タウン誌にははっきりと場所が示されておらず、大まかな記述しかなかった。人が押し寄せるのを警戒した記事となっていたのだろう。予想していた場所には見当たらず、しばらく探し回ってついに発見した時には、天国の扉の前に立っているような気持がした。各地で開催される氷の祭典を見に行った事はあるが、高尾山で見た『シモバシラ』のような神秘的な美しさには巡り合ったことがない。それは高尾山から景信山へ向かう巻き道ぞいにあった。
しかし、まだ年末の気温ゆえ、冷えが足りなかったようで、小ぶりの『シモバシラ』しか見られなかった。ひとつひとつが小さい上に群生しているから、狙ったひとつを撮るのは困難を極めた。地面には枯れた草木が赤茶けて散らばっており、『シモバシラ』の背景に薄汚く写り込んでしまう。撮る事に夢中になっていると、『シモバシラ』を壊しかねない。既に足元にはいくつもの踏み潰された『シモバシラ』があった。(次号に続く)
通信本文はここまで。