八障連ブログ

八障連(八王子障害者団体連絡協議会)運営委員会より、情報提供を行っています。(「八障連について」カテゴリーを参照)

八障連通信349号をアップします。

2019年08月31日 | 八障連通信
八障連通信349号をアップします。


八障連通信349号【音声版】はこちらから


ここからは通信本文です。
【事務局通信 Vol.61 7 月 3 日の八王子での出来事について】
でに新聞、テレビ等の報道でご存じの方もおられるかと思いますが、「八王子視覚障害者福祉協会(八視協)」の副理事長をされている宮川純さんが、7 月 3 日の午前 7 時 55 分ごろ...京王八王子駅前の路上で、反対方向から歩いてきた男性とぶつかり、白杖を折られる...という出来事がありました。これを受けて、ぜひご本人からお話を伺うべきだと思い立ち、本日(2019 年 7 月 16 日)、八視協さんの事務所にお邪魔して、宮川さんにお目にかかってきました。
宮川さんご自身のお話によれば、JR 八王子駅前でバスを降り、出勤のため
に八王子市明神町3丁目付近(東日本銀行八王子支店の前あたり)の歩道の点字ブロックの上を歩いていたところ、向こうから歩いてきた歩行者とぶつかっ
たということでした。宮川さんは、折りたたみ式の白杖で点字ブロックの上を確認しながら歩いておられたそうですが、接触の際、杖のつなぎ目部分と先端部分が壊れてしまったということでした。それだけではなく...ぶつかった相手から「目が見えないのに一人で歩くな」という心ない言葉を浴びせられ、宮川さんの足に蹴りなどを入れられたそうです。その場で、壊れてしまった杖の部品を拾ってくれた人がいたそうですが...その人からも「ぶつかった相手は20~30 代のサラリーマン風の男性だった」と聞かされただけで、それ以上のことはわからないということでした。
その後、警察も立ち会ってくれたそうですが、視覚障害のある宮川さんから直接の目撃証言が取れなかったことから、相手の特定ができないという、残念な結果に終わってしまいました。付近には店舗も多く、防犯カメラもあったのですが、ちょうどカメラの死角にあたり、接触があったという事実は確認できたものの...相手の人相風体、蹴りによる暴行の様子や、「一人で歩くな」という暴言の客観的な立証まではできなかったそうです。接触の際、スマホが落ちたような音がしたことから「おそらく相手は歩きスマホをしていたかもしれない」と宮川さんは仰っています。はっきりしたことまではわからないものの...もしも「歩きスマホ」が今回の出来事の原因だとすれば、これは由々しき事かもしれません。最近、ネットの書き込みに「道路に点字ブロックがあると、歩きスマホをしていてもまっすぐ歩けるぞ。便利だ」などというコメントが、複数あるそうです。もちろん点字ブロックはまず第一に視覚障害の人たちのためのものであり、断じて危険な歩きスマホを推奨するためのものではありません。街にある設備を自分なりに工夫して、便利に使って暮らすのはいっこうに構わないのですが...常に「その時、その場で、誰が一番困っているのか」を考えていくことが大切なのではないでしょうか。車いすユーザーの私でも、お年寄りがたくさんいれば、エレベーターの順番を譲りますし、車いすトイレも、親御さんが赤ちゃんのオムツ交換に使っているなら、他のトイレを探すか、その場でじっと待つかします。その場で一番困っているのは、私ではないから
です。障害者用の設備は障害者だけのもの、他は使うな...という考えは、多様な社会の価値観を狭めます。誰もが便利に快適に、安心して暮らせる街であるべきです。しかし、もし歩きスマホのために、点字ブロックを使う人がいるのだとすれば、私にはどうしても...これを認めることができません。見ようとすれば見える目があるのに、前を見ようとしていない。立ち止まってスマホを操作するならまだしも、移動中であるのに、移動以外のことに没頭する...ということは、自分にとっても周りにとっても、とても危険なことであると思います。歩きスマホは自分も周りも、みんなが困る行為です。
「誰が一番困るのか」を考えながら街を歩くことは、街に暮らす私たちみんなが心がけていかなければならないことだと思います。宮川さんも「八王子に差別禁止条例があったとしても、八王子に暮らす人がこれを理解していなければ意味はありません。一人ひとりがバリアフリーの意識を持って欲しいです」と仰っておられました。
八障連としても、全ての市民に向けたバリアフリーの啓発に力を入れるべきと考えます。宮川さん、このたびはお話を聞かせていただき、ありがとうございました。(文責/杉浦)

【重度身体障碍者2名の方が国会へ】
2019 年(令和元年)7 月 21 日執行の第 25 回参議院議員通常選挙において、山本太郎氏が結党した『れいわ新選組』の公認で、比例区特定枠にて、重度身体障害の当事者 2 名が立候補。れいわ新選組が比例区で2 議席を獲得したため、初当選を果たました。私は今回...いわゆる「名前で出ている」候補者には、なかなか入れたいと思う人がいなくて悩んだし、迷いました。どの候補者もどの政党も「これという決め手に欠ける」と考えていたのです。
で結局...一番マシかもしれないと思う人に入れました(ここにはお名前出しませ
んが)。一方「れいわ新選組」から「特別枠」で出たお二人には、なんとしても受かって欲しかったのです。無事当選したのは良いものの、やはりというか、想定通りというか...選挙後、「国会の改修費用や介助のための費用をどうやって負担するのか」「障害者に十分な議員活動ができるのか」といった批判が噴出し、国会議員も巻き込んだ論争を呼んでいます。木村さんは多摩市にて、平成 6 年から「自立ステーションつばさ」を設立した方です。杉浦も直接の面識は無いものの...そのお名前とご活躍は存じ上げていました。障害者政策に関することで、長年、厚生労働省との交渉などにもあたってこられた方ですので、適切な環境さえ整備されさえすれば、政治家としての活動に問題はないでしょう。
ALS患者の舩後さんについては、全く存じ上げてはいませんでした。まず、コミュニケーションができるのか、という点に疑問を持たれる方が多いと思います。全身麻痺で話ができず、呼吸器をつけて、胃ろうもしていますから。しかし今回、経歴を調べてみたところ...以前から介護事業所の副社長を務めて実際
に経営にも参画しておられるということでした。もちろん頭脳も明晰でしょう。しかしそれでも...海千山千の議員も多い中、お二人がその実力を充分に発揮できるか...という部分については未知数だと思っています。また政治の場でのお二人のご活躍そのものに対しては、実は私は、それほど強い期待をもっているわけではありません。お二人ともご自身の身体の不調、障害と向き合いながらなおかつ、社会のために働くということは、生半可なことではないでしょう。それでも、日頃、世の中の隅っこに追いやられている感のある重度身障者、難病者の声が、ほんの少しでも、政治の場に届いて欲しいと願っています。
『生産性で人間の価値を測るような世の中は、もうやめよう』、重度の障害者が国会の場にただいる、というだけであっても今回たくさんの人が動き、ルールも変わる兆しを見せています。これまで長年、多くの障害者たちが議論し
てきたことが、あっという間に、目に見える形で実現しようとしています。これだけでもすごいことです。テレビなどの『街の声』でも『政治家って激務でしょ? 耐えられるのかしら』といった声を聞きましたが、だったら耐えられるような国会運営をするしかないよね、という話です。今の国会が、障害者が参加できないような...健康な人でさえ体調を損なうような議会制度になっているんだったら、そっちを変えていけばいい、という話ですよね。
たしかに、重い障害ゆえに国会に出られない時もあるかもしれない。けれどそんなときでも自分優先でいい。と私は思います。むしろ、それに配慮するのは、システムとしての国会の責務である、そういう認識に日本全体が変わって
いけばいい。
日本では長いデフレの時代を経て、あらゆることを「コスト」をベースに見る思考が、いつしか国民の骨の髄まで染みついてしまいました。障害者を含む弱者への福祉政策に関しても、「コスト」と考えて嫌う人が多いですよね。厚生
労働省も、コストが増えるのが嫌みたいです。これは特に舩後さんと木村さんに関してということじゃなくて、一般論でも制度上、重度障害者の訪問介護サービスには働くことや学ぶことに際する介護は含まれていません。公的補助
金や事業者の負担になっているのが現状です。これを認めてしまえばまたお金が必要になるから、国は見て見ぬ振りをしてきた。建物のバリアフリー化の工事とか、見た目にわかりやすいことは進めるけれど、一番大事な制度の部分
は手をつけずに来たのです。実は国会の施設改修は本質じゃない。このままだと、スロープはできたけど、国会でヘルパーさんの補助が受けられません、という事態になってしまう。
そういう手間のかかる人たちに投資するのは無駄なコストだ、ダメなヤツは
切り捨てて当然だ、という社会的な空気さえ最近は強くなってきています。
国民の中には、自分自身も来年どうなるかわからない、今月をどう乗り切
ろうか、というギリギリの生活の中で、障害者が議員になって高い報酬を手
に入れ、それでもまだ『配慮が足りない』と言っていることに、不満を持っていらっしゃる方も少なくないんじゃないかと感じます。
でも、ここで冷静に考えていただきたいのは、日本という国は一応『先進国』
のグループに入っていて、世界との約束である条約を批准している。障害者
権利条約もその一つです。当然この中には『仕事と雇用』という条文もあっ
て、要は障害者が健常者と平等で公正な状況で働けるようにすること、と書
かれているんですね。例えば 24 時間介護を受けている人たちは、手足とな
って動いてくれるヘルパーがいなければ、健常者のように仕事はできませ
んが。それをアシストするのは当然のことであると。これは法律よりも上位に
ある条約で定められているんです。これは私が障害当事者だから言えてし
まうことなのですが...誰しもが突然の事故や病気によって障害をもつ可能性があるし、そうでなくても高齢になれば耳が聞こえなくなる、目がショボショボする、足腰が弱る、寝たきりになる。そういったことも障害だと思えば、人生の中で健康な時というのはごく短い時期だと感じるのです。より不便や不自由の多い人たちを社会の標準にすれば、誰にとっても暮らしやすくなるのでは。と思っています。たしかに「肝心のあの2人自身が、政治家としてちゃんとやれるのか」という不安はその通り。私もそこに異論はないのです。「障害者施策」を軸に政策を立てて当選しても、国民の負託を受けた以上は「それ以外のこと」に対しても動かなければいけませんしね。しかし、これまで何年も、何十年も「障害者当事者ではない議員」に政治を任せてきて、良くなった部分も確かにあるけれど、悪い部分はますます、どんどん悪くなってしまっている世の中なのです。そもそも、これほどの重度障害者が「自分が選挙に出なければ!」と決断しなければならない社会状況って、なんなのでしょうか?
「私たちを抜きにして、私たちのことを決めないで欲しい」、これは多くの障害当事者たちが、ずっと呼びかけてきた言葉です。政治の世界もまた然り。「誰かに決めてもらう。動いてもらう」というだけでは、何も変わりません。
「変えていかねばならないことは、自分たちで変えていく」という思いがあればこそ、身を削り、命をすり減らす思いで出馬したのでしょう。私(杉浦)は正直、『れいわ』も山本太郎氏も積極的には応援したくないのです。今回の障害者議員起用も、そもそもは話題作りの売名でしょう。しかし、議員となったお二人自身もそんなことは 100 も承知、1000 も承知のことでしょう。 分かっていながら、「そうせずにはいられなかった」であろう、このお二人の気持ちを理解する人が...もっと増えて欲しいと思います。
障害者当事者の議員が本当に経験を積んで発言力を付け、国政の場で障害のない議員と同等に扱われるためには、このお二人のさらに後の世代の後輩達(障害者議員)の努力がもっともっと必要です。お二人が議員に選ばれたことは、世の中が変わっていく本のきっかけにしか過ぎないことだとだと思っています。(文責/杉浦)

【お知らせ掲示板】
八障連運営委員会 9 月 5 日 18:30~20:30 クリエイトホール

【編集部より】
八障連通信 349 号をお届けいたします。さて、先の 7 月 21 日の参議院選挙で、山本太郎氏のれいわ新選組から、障害当事者の二人の方が当選、国会で活動することとなりました。マスコミでたびたび取り上げられ、舩後さん、木村さんはいちやく時の人となられたようです。/同時に、「国権の最高機関たる国会」の中が、最もバリアフリー化が遅れている場所のひとつであることも明らかとなってしまいました。/お二人の今後の活躍で、住みやすい社会へ一歩も二歩も前進していくことを願ってやみません。皆で支えていきたいものですね(Y)

【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史 その 34】
手術後 10 日目から常食に戻っている。この時の嬉しさったら天にも昇る感じだった。ゆっくり噛みしめながら味を楽しんだことは言うまでもない。普段からとてもゆったりとした速度でしか食べられない私だが、この時ばかりはいじましいばかりに少しずつ食べ物を口に運んだ。絶食明けの常食になった時の美味しさはどんな高級料理にも勝る。ひと掴みのおかず、ひと掴みのご飯で幸せ一杯になれる。いろんな食材に感謝しながら食べさせて貰った。
12 日目にやっとシャワーを許されたが、これもすこぶる気持ち良く、爽快だった。サイコーって思わず小さく叫んだ。いつもは当たり前に行われている物事の一つひとつに、凄い喜びが感じられ、また新鮮にも感じられ、感謝の気持ちに満ち溢れる。幸せを噛みしめるひと時でもある。いつもこうじゃなきゃいけないんだなぁ~。手術後実に 1 ヶ月も経ってやっと退院しているが、最近は肝臓などの大手術でも異常事態が起こらない限り 1 週間程度で退院というから吃驚仰天、雨霰である。医学・医術の進歩を大いに感じさせる数字だ。科学
技術の進歩とともに、患者側の自立性が増してきたことも背景のひとつにある。患者自身のしっかりした自己管理が前提の話でもある。
しかし、実際は実体が伴っていないのに無理やり自立という状況に追い込まれ、言わばほっぽり出されたとしか考えられないようなケースも見かけるようだ。医者が患者の面倒をみるという良い意味でのパターナリズムは最早風前の灯火となり、少しでも手のかかる患者は放り出してしまうのが今日この頃の日常風景となりつつある。
この時の入院に際しては初めての癌の手術ということもあり、八障連を始め、関係者の皆さん、親戚など実にいろんな人たちが見舞いに来て下さった。ありがたかった。自由を奪われた入院生活では鬱屈さを感じる時もあり、暫しのオアシスタイムとなった。癌というと先がそれ程長くないかもという感じがまだあった時代である。この時の見舞客の多さは私の入院史上空前絶後の出来事となった。当時死ぬには未だ少し若すぎる(45 歳)なんて思って、心配して下さった方がいらっしゃったかもしれない。ところがどっこい、昨年古希を迎えた。嘘みたいだ。つい最近まで、「肝硬変になれば後 10 年」と言われていたのに、肝硬変になって 30 数年経った現在もバリバリ運動をし、お酒も飲み、仕事もしている私は、死んでいる筈の人間が生きているというシーラカンスの
ような存在かも。初めての癌からも今年で 25 年目に入った。
この入院では、手術直後の立ち上がりこそ悪かったが、歩行許可が出て以降、精力的に病棟内を歩き回り、みなさんを吃驚させていた。毎日病棟内の廊下を点滴スタンドを引きずりながら何周もした。当時は、術後に私ほど歩き廻っている患者仲間は殆ど見かけなかった。さすが心理の方ですねって、どういうこっちゃねん。患者としてはまだまだど素人どす。
に院庭までの歩行許可が出ると、庭で過ごすことも多くなった。分院は樹々が多く、青い空の下で緑に囲まれて過ごす午後のいっときは天国にでもいるような気分だった。手術後 3 週間は消化器外科担当で、11 月 24日(22 日目)から消化器内科に戻っている。その週末(26~27 日)に 1 泊 2 日の外泊をさせて貰い、病院へ戻る時には自分の車を運転して戻り、職員駐車場に置いて貰った。そんな事が可能な時代でもあった。
12 月 2 日の退院時には家族の同行はなく、自分一人で運転して帰った。まずは「馬天使」に直行し、1 時間半ほど過ごしてから、帰宅している。その 2 日後には、アースデイ実行委員会が主催する「アースデイ in 八王子」に参加。地球環境のことを考えようというイベントで、その頃は先駆け的な存在だった。元々私が言い出しっぺで始めたイベントなので、出なければいけなかった
のでアース。


通信本文はここまで。


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