八障連ブログ

八障連(八王子障害者団体連絡協議会)運営委員会より、情報提供を行っています。(「八障連について」カテゴリーを参照)

八障連通信342号をアップします。

2019年02月24日 | 八障連通信
八障連通信342号をアップします。


八障連通信342号【PDF版】はこちらから

八障連通信342号【音声版】
事務局通信Vol.55【音声版】
お知らせ掲示板【音声版】
2018年前半を振り返って… 八障連代表 杉浦 貢【音声版】
連載コラム vol.19 『八王子名物の豆腐を買いに!』 ハーネス八王子 鈴木 由紀子【音声版】
編集部より【音声版】
連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史 その 27【音声版】



通信本文はここらから


【事務局通信Vol.55】
年の瀬も近付き、お忙しいと思われます。また寒さも厳しくなり冬も本格的になりつつありますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?八障連としましては、年末になりますが福祉懇談会を 12/17(月)に行います。内容に関しては、先にお知らせした内容ですが、会場について市役所内は議会等の関係もあり会場がとれないとのこと。そのために、ファックスでもお知らせいたしましたが会場はクリエイトホールの第 2 学習室で行います。皆さんぜひお集まりいただ、他障害の問題ということではなく、八王子市内の課題ととらえ、今後どのようにしていくべきなのか活発に意見交換を行いたいと思います。
突然話は変わりますが、皆さん子ども食堂って行ったことありますか?八王子市内だと今年某芸能人が、2 名で子ども食堂を行うためにリフォームするという番組はありましたが、なんでそんな場所が必要なの?とか、何の目的であるの?ということにあまり注目はなかったような気が...両親が共働きで、きちんと夕食が家で取れないとか、夏休み期間になると両親は共働きのために昼食がとれなくなるなど色々な問題があるようです。「たべる」って何でもないことのように、普通に考えていましたが、「たべる」ということは非常に大切で、子どもたちが成長していく過程・生きていく上で欠かせないことだと思いま。しかし、ただ、食べていればいいという問題でもないと思うのです。私自身「子ども食堂」に直接行き、実際に食事をしながら運営している方々にお話を聞きました。その中で、私なりに感じた子ども食堂は「たべる」ということを軸に「交流」という、これもまたヒトが生きていく上で大切な過程を加え、参加者や運営にかかわっているスタッフという構成でその場が成り立っていますが多世代の交流の場になっていました。近年では、地域のかかわりが薄れていき、そのために自治会活動は非常に少なくなり、多世代が集まり活動する場が減ってきていると思います。なので、参加させていただいた「子ども食堂」、私が幼いころ参加していた自治会活動(町会・子供会)のような懐かしい感じもしました。どんなお子さんがいたのかなどは、ここでは書くことはできませんが、そこには食事を提供することによって子どもたちとかかわりを持ち、自分たちの地域の問題を把握しようとしている人たちがいました。実際給料などはありません。活動費についてあまり詳細は分かりませんが、確か皆さんがボランティアで、場合によっては食材など持ち出しもあるとか...それでも地域での活動(課題発掘)は大事ということで続けていくそうです。近隣の農家さんで収穫した野菜などを寄付してくれる方など、協力をしてくれる方や活動理解者が今後も増えていき、本当の意味での「地域活性化」と「共生社会」の構築につながっていくのだと思います。
今、八障連の活動が徐々に停滞してきています。私自身なぜ?と考えてきました。やはり今、自分たちの団体の活動のみになってしまい、周りに目がいっていないことも原因であると思っています。私自身も実際そのような傾向にありましたが、思い切ってこのような地域で行われている活動を体験し、周りに目を向けることにより、さらなる自身の所属機関での活動に生かせることが出てきています。ぜひそのような活動を皆さんの手で作っていきませんか?そのためにもまずは身近な八障連の活動から始めてみませんか?(文責/事務局立川)



【お知らせ掲示板】
市障害福祉課との懇談会は 12 月 17 日(月)、クリエートホール第 2 学習室となります。多くの会員の参加をお願いいたします。(運営委員会)



【2018年前半を振り返って… 八障連代表 杉浦 貢】
月に総会を終えてから、あっという間に七ヶ月が過ぎてしまいました。この間、八障連としては大きな活動はできませんでしたが、八王子市役所とは、折りに触れて連絡を取り合い、市政の動きを見守ってきました。
近々開催予定の福祉課との懇談会でも、最近の福祉現場で慢性化しつつある人材不足について、市としての見解と今後の取り組みを確認していく予定です、私の身近においても最近、外国人の介助者がシフトに入ってくれるようになりました。必ずしも日本語が流暢(りゅうちょう)というわけではないため、言葉の違いにも苦労しますが、スマホを活用した翻訳機能と画像検索のおかげで、どうにかコミュニケーションを取っています。直接の介護については大きな問題は、...少なくとも我が家では...起こっていませんが...一番大きいのは『働くこと』に対する価値観の違いだと思います。
日本では、少なくとも介護シフトに入っている間は、ヘルパーは自分の事よりも利用者の事を優先してくれる人が多いですし、利用者である私も、それを望みます。しかし、彼らが外国人であるからなのか、彼らがまだ若いからなのかはよく分かりませんが、『自分はまず自分自身のために働くのであり、仕事は二の次』という意識が強いように感じます。得意なこと、好きな事に対しては積極的になる反面、少しでも苦手だと感じることに対しては、強い拒絶を示します。彼らとその事について話をしてみて、『苦手な事でもチャレンジしてみて欲しい』とお願いしたら、『日本人は僕をマシンとして扱っている』と、さらに強く拒絶されてしまいました。決して《ほれ見ろ。こんな事があるから、外国人はダメなんだ》というつもりではないのです。利用者が自分自身の事を優先するあまり、ヘルパーの人格、個性を無視する面があるのは否定できませんし、日本人同士であれば常識として通じるやりとりも、文化が違えば通用しなくなります。国が違う文化が違うと拒絶するより、『どうすれば彼らが働きやすい状況を作れるのか』を考えることも、日本人であり、かつ福祉サービス
の受け手である私の課題です。八障連においても、これまでは『障害のある人と無い人の違い』あるいは『異なる障害種別の違い』を意識していれば良かったものが、今後は、文化の違い、国の違いも視野に入れて活動していくことになるのでしょうね。
世の中の変化は大きく、そして早いものですが、いかなる場合においても『すべての人が暮らしやすいまち』を考え続けていくのが、八障連の役割であると思います。
今年度は、福祉課との懇談会、市議との懇談会、そして福祉フォーラムと、主要なイベントが後半に集中する形となってしまいました。加盟団体のみなさまにはご不便をおかけすることなりますが、どうぞ変わらぬご支援とご協力をお願いいたします。



【連載コラム vol.19 『八王子名物の豆腐を買いに!』 ハーネス八王子 鈴木 由紀子】
裏高尾に、とてもおいしいお豆腐のお店があるから、一度行ってみましょうよ」という友人のかねてからの 誘いを実現すべく、10 月の日ざしの暖かい日に、小さな旅に出かけました。総勢 6 人と 2 頭の「お豆腐ツアー隊」は、高尾駅北口改札口に集まり、事前の計画では、1 時間に 1 本しかないというバスを利用するつもりでしたが、お天気もいいのだから、行きには歩いていこうと、その場で決定。甲州街道をすいすい走る車の音を聞きながら、おしゃべりもしながら、ゆったり歩いて 30 分。私にとっては、そこも初めての高尾駒木野庭園で、休憩もかねて休みました。その古民家と庭園は、元お医者さんから寄付されたもので、八王子市内の造園業者が整備し、八王子市が管理しているとのこと。やがて私たちを見つけた管理人が近づいてきて「ここに水琴窟があるので、是非その音を聞いていってください」と自らその場所に案内してくださいました。私も、ガイド役の A さんに誘導してもらい、小さな鉢に水を入れて傾けると、ほどなくカラーン・カラーン・カラーンという和らかい音色(ネイロ)が聴こえて、何とも心地よい感覚に浸れました。地下に埋め込まれ°Cか土管に水が共鳴してその音がするのだそうで、「豪雨が降ったら、さぞにぎやかなんだろうな」とふと考えてしまいました。
さて、駒木野庭園で 30 分ほど休んで、心も体も癒されて、今度は私たちのおなかを満たすために、峰尾豆腐店に向かいました。私たちは約 20 分でそのお店に着いて、思い思いに豆腐店での買い物をし始めたのですが、そのとき誰かから驚くべき情報がもたらされました。それは、あと 5 分後に高尾駅行きのバスが来るというもの。当初の計画では、お店で買った豆腐をベンチですぐに食べるのもいいねと話していましたが、行きに歩いたのだから、帰りはバスで帰って、豆腐は家でゆっくり味わおうということに変更。時間どおりにやってきたバスに乗り込み、バスの揺れに眠気をそそられつつ、ゆったり気分で高尾駅に戻りました。私とアーサはその日の夕方、買った寄せ豆腐をいただきました。それはダイズそのものの甘みがよく出ている、さっぱりした食感で、すぐに気に入りました。がんもどきはグリルで焼いていただきましたが、こちらもお豆腐そのものの風味で、満足でした。
おいしいものに出会うと、そのまちになじみやすい気がします。これからも、ときどき、ほかの友達も誘って「おいしい豆腐を買う小さな旅」に出かけたいです。


【編集部より】
2018 年も 12 月を迎え、早くも師走となりました。年々、季節の巡りが早くなると感じているのは編集部だけでしょうか。さて、今号では、八障連の2018 年度前半の振り返り」を特集とさせていただきました。『事務局通信』でも指摘されているように、活動の停滞が表面化しておりますが会員の皆様方におかれましては、どのようにお考えでしょうか。お叱りの批判的ご意見を含め、活発な議論を期待したいところです。/12 月 2 日、「ウエルファーム杉並」において、「医療観察法を廃止しよう!全国集会」が開催されたので参加してみました。精神の当事者を中心に全国から 80 名の方々が参加しました。今回、龍谷大学法学部教授で、犯罪学研究センター長でもある石塚伸一氏の「心神喪失者等医療観察法と再犯防止ー治療と予防のはざま」と題した講演を聞くことができました。詳細はここでは触れることができないが、医療観法入院病棟が札幌刑務所敷地内に設置されることが決定されたなど、「危険社会における精神障害当事者への身体拘束の正当化」が進んでいく現状に警告が発せられていました。こうした動きを引き続きウオッチしていく所存です。/では、よい年末をお過ごしいただき、そしてよいお年をお迎えください。




【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史 その 27】
今回これを書くにあたって、インターフェロン(以下 IFN)を打ち始めてから 10 年間位の手帳を子細に読み直してみたが、記号や略語で書かれていることの意味が解明できない部分が幾つもあり、完全には読み解けないままである。
鬱(うつ)症状が出始めたのは 1987 年 10 月下旬頃であり、翌 1988 年 1 月から飲み始めた抗鬱剤(こううつざい)は 1993 年 3 月まで手放せなかった。肝臓になるべく負担をかけないように、少量の薬で乗り切れないかと四苦八苦していた様子が手帳からは見て取れる。7 年間にわたる苦闘の記録であった。
鬱病(うつびょう)には 1993 年 3 月頃一旦区切りをつけられたものの、その後も軽い欝(うつ)症状は断続的に繰り返し出現し、その度に軽い抗鬱剤(こううつざい)を服用しており、完全に手放せるようになるのは 60 歳近くなってからである。成育史上から鬱(うつ)病になりやすい環境要因を抱え持っていたからだろう、一旦発症した「鬱」(うつ)にはしつこく付き纏(まと)われることになった。
しかし、電車に飛び込んでしまいそう、高い所から飛び降りてしまいそう、といった希死念慮(死への衝動)との厄介なやり取りについては、手帳には一切記載がなかった。消極的否認行動の現れなのかもしれない。はたまた「鬱」(うつ)という言葉に埋め込んで過ごそうとしていたのかもしれない。だから、それがいつ頃始まって、いつ頃終息したのか確かめようもないのだが、ホームの壁や柱に身体を押し付けた感触は生々しく残っている。他人から見たら奇異な行動だろうといつも恥(は)ずかしさを感じてもいた。子供の存在がなかったら、悪魔の誘惑に乗っていたかもしれない。自分の意志でこの世に現れた訳ではない子供を路頭に迷わせるようなことだけはしてはいけないと強く自分に言い聞かせ、堪えていた。
1987 年頃には既に肝硬変の初期段階に入っていたように思うのだが、ウイルスを消失させない限り後 10年位の命だろうと思い定めていて、IFN に最後の望みを繋(つな)いでいた。その頃は肝硬変に IFN は危険じゃないかとも考えられていたように思う。子供の事を考えると 10 年では足りない。ウイルスの所為で肝硬変に進んだ組織は癌(がん)を発生させやすく、肝臓癌(かんぞうがん)で死ぬか、肝不全で死ぬことになると漠然と考えていた。1986 年 11 月に叔父を肝臓癌(かんぞうがん)で亡くしてもいた(同じく B 型肝炎)。50 代前半の若さだった。
治験(ちけん)としての IFN 投与は 1990 年 10 月 31日を最後としている。漫然(まんぜん)と続けていても仕方がないという判断だったか。劇薬故に長期投与は別の意味で問題が生じる可能性もある。ウイルスが消えないままの失敗例として研究報告書には記載されたに違いない。注射をした日の不愉快さ(身体の芯からの鳴動といった不愉快な感じ、地震に似ているかも)から逃れられるのは嬉(うれ)しくもあったが、、、。
それからどれ位経った頃だろうか。朝日新聞に衝撃的な記事が出た。インターフェロンの治験者の中から全国的に自殺者が相次いでいることが分かったので、注意するようにという厚生省からの通達が全国の病院・医者達宛に送られたという報道だった。想定外の副作用だったようだ。生き延びようとした努力が彼岸(ひがん)の国へ真っ逆さま??紙一重の危ない橋を渡っていたんだと思い知らされた。治験(ちけん)を受けたら、知見違いだったって?!?洒落(しゃれ)にもならない。亡くなられた仲間たちへ、合掌(がっしょう)。



回これを書くにあたって、インターフェロン
(以下 IFN)を打ち始めてから 10 年間位の
手帳を子細に読み直してみたが、記号や略
語で書かれていることの意味が解明できない部分が幾
つもあり、完全には読み解けないままである。
鬱(うつ)症状が出始めたのは 1987 年 10 月下旬頃
であり、翌 1988 年 1 月から飲み始めた抗鬱剤(こうう
つざい)は 1993 年 3 月まで手放せなかった。肝臓に
なるべく負担をかけないように、少量の薬で乗り切れな
いかと四苦八苦していた様子が手帳からは見て取れ
る。7 年間にわたる苦闘の記録であった。
鬱病(うつびょう)には 1993 年 3 月頃一旦区切りを
つけられたものの、その後も軽い欝(うつ)症状は断続的
に繰り返し出現し、その度に軽い抗鬱剤(こううつざい)を
服用しており、完全に手放せるようになるのは 60 歳近
くなってからである。成育史上から鬱(うつ)病になりやす
い環境要因を抱え持っていたからだろう、一旦発症した
「鬱」(うつ)にはしつこく付き纏(まと)われることになった。
しかし、電車に飛び込んでしまいそう、高い所から飛び
降りてしまいそう、といった希死念慮(死への衝動)との
厄介なやり取りについては、手帳には一切記載がなか
った。消極的否認行動の現れなのかもしれない。はた
また「鬱」(うつ)という言葉に埋め込んで過ごそうとしてい
たのかもしれない。
だから、それがいつ
頃始まって、いつ頃終
息したのか確かめようも
ないのだが、ホームの
壁や柱に身体を押し付
けた感触は生々しく残
っている。他人から見た
ら奇異な行動だろうとい
つも恥(は)ずかしさを

感じてもいた。子供の存在がなかったら、悪魔の誘惑に
乗っていたかもしれない。自分の意志でこの世に現れ
た訳ではない子供を路頭に迷わせるようなことだけはし
てはいけないと強く自分に言い聞かせ、堪えていた。
1987 年頃には既に肝硬変の初期段階に入ってい
たように思うのだが、ウイルスを消失させない限り後 10
年位の命だろうと思い定めていて、IFN に最後の望みを
繋(つな)いでいた。その頃は肝硬変に IFN は危険じゃ
ないかとも考えられていたように思う。子供の事を考え
ると 10 年では足りない。ウイルスの所為で肝硬変に進
んだ組織は癌(がん)を発生させやすく、肝臓癌(かんぞ
うがん)で死ぬか、肝不全で死ぬことになると漠然と考
えていた。1986 年 11 月に叔父を肝臓癌(かんぞうが
ん)で亡くしてもいた(同じく B 型肝炎)。50 代前半の若
さだった。
治験(ちけん)としての IFN 投与は 1990 年 10 月 31
日を最後としている。漫然(まんぜん)と続けていても仕
方がないという判断だったか。劇薬故に長期投与は別
の意味で問題が生じる可能性もある。ウイルスが消え
ないままの失敗例として研究報告書には記載されたに
違いない。注射をした日の不愉快さ(身体の芯からの
鳴動といった不愉快な感じ、地震に似ているかも)から
逃れられるのは嬉(うれ)しくもあったが、、、。
それからどれ位経った頃だろうか。朝日新聞に衝撃
的な記事が出た。インターフェロンの治験者の中から全
国的に自殺者が相次いでいることが分かったので、注
意するようにという厚生省からの通達が全国の病院・医
者達宛に送られたという報道だった。想定外の副作用
だったようだ。生き延びようとした努力が彼岸(ひがん)
の国へ真っ逆さま??紙一重の危ない橋を渡っていた
んだと思い知らされた。治験(ちけん)を受けたら、知見
違いだったって?!?洒落(しゃれ)にもならない。亡く
なられた仲間たちへ、合掌(がっしょう)。


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