ギリシャでは、戦争中であっても神への祭典としてオリンピックは滞りなく開催された。
サッカーもスポーツの一つであれば、そういった性質を持っている事に疑いは無い。
だからこそ、震災から復興を目指す上で……。
復興への宣誓を示す場として、コパ・アメリカの開催国であるアルゼンチンは日本の参加に全面協力を約束したのだろう。
日本人はスポーツを、興行としか見ていない。
しかし世界では、祭典としての側面があるのである。
日本で唯一そういった形で続けられてきた大相撲が、八百長で開催が無期限延期された。
これは祭典を担ってきた力士の、労働環境が悪すぎた事で保身に走らせてしまった面もある。
アメリカで言えば、メジャーリーガーは引退しても尊敬される存在であると言う。
日本では、たかが選手という扱いしか受けないのを考えると……。
如何に日本人が物質至上主義に偏重しているかが、分かるだろう。
代表選手を招集される事で、彼等がチームを離れる日数が増える。
だからと言って、代わりが勤まる様な明確な分業化はサッカーでは難しい。
確かにストライカーにだけ限定すれば、ゴールを奪う成果さえ示せれば……。
代わりが勤まる選手は、存在するかもしれない。
仮にそうだとしても、相手チームの研究で力を発揮しづらくなるかもしれない。
そんな代役ながらゴールを決めてきたストライカーを、チームメイトが的確にサポート出来るのだろうか?
これは、ストライカーが自力で解決するよりも難しい事であるかもしれない。
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