平方録

3.11に思うこと

2011年3月11日のことはよく覚えている。

この日は選抜高校野球大会に神奈川県代表として出場することになっていた東海大相模高と横浜高の選手たちの表敬訪問を受け、会議室で一緒にカツレツ弁当を食べたのである。
夏の選手権は1校しか出ないし、選抜もたいていは1校である。
それが前年の関東大会で2校が勝ち残ったため、2校とも選抜されたのである。
しかも、いずれも全国制覇の実績を持つ甲子園の常連校である。「どうせなら決勝も2校でやれ」などと期待は膨らんだものだ。

結論からいえば、開催が危ぶまれはしたものの、高校野球まで中止することもあるまい、と云う意見が勝った。
そして横浜高は1回戦で負けてしまったが、東海大相模高は優勝する。
選手諸君には悪いが、極めて印象の薄い優勝だった。ほとんど覚えていないのである。

この激励会の後、ちょっと外出して伊勢佐木町の老舗本屋に行った。
そこの中2階にある文庫本の書棚の前で文庫本をめくっているときに、今まで感じたこともない揺れを感じてすくんでしまった。
中2階がある空間は吹き抜けになっていて、柱はない。瞬間、これはやばいんじゃないか、という思いが頭をよぎった。
昭和30年代はじめころに建てられた華奢に見える建物である。幸い、階段が近かったので、最初の揺れが収まった隙に、急いで駆け降りて建物の外に出たのである。
このとき、書店の店員もただならない揺れに驚いたのだろう。自動ドアのスイッチを切ってドアを開いたままにする機転を見せたのは、振り返ってみれば正しい措置であったと感心する。

道路に出たとたんにまた次の揺れがやってきた。
多くの人がびっくりして飛び出したんだろう、表通りにはたくさんの人がいて不安そうな顔をして「ビルが倒れるぞ~ぉ」とか「もっと広いところへ逃げろ」などと叫んでいる。
その声につられて動く人たちの姿もあったが、自分のいる場所は左右の建物も低く、大丈夫だと思って様子を見ていたのである。

2度ほど立っていられないくらいの揺れを感じた。地面に手をつきたいくらいに揺れたのだが、このときはどうにか踏ん張った。更に揺れれが続いたり、ひどくなっていたら手と膝をついて四つん這いにならなくては立っていられなかっただろう。
あとで聞いたところでは、震度5強の揺れだった。初めて経験する揺れであったことを覚えている。
震源地では震度7を記録しているから、その揺れは想像がつかない。
そんな揺れが過密の大都会を襲ったら…

本社ビルは新築間もないとはいえ、ビル全体を4本の柱で支え、その間に床を吊るした特殊な構造で、揺れを吸収するという触れ込みだったが、その名にたがわなかったと言えばそういうことだろうが、揺れに揺れたらしい。
社に戻った後、テレビで津波の映像が映し出されるのを見ても実感はわいてこなかった。大きな漁船が堤防を越えて街中に流され、家々が次々と押し流されて行く様を見ても、津波の威力は実感できず、そのいたるところに逃げ遅れた人がいることも実感できずに、ただただ茫然とした思いで映像を眺めていたのである。

足元では肝心の役割・機能が人為的なことで不全を起こし、故に社会的な使命を十分に発揮できず、後に大事に発展するのである。
リーダーたちの危機管理以前の、心構えの問題でもあったのだが、肝心なところで化けの皮が剥がれてしまったのである。

原子力発電所のメルトダウンなど、誰が想像し得たのか。これも人為的な手抜きから被害が拡大したという指摘があるではないか。
事故処理に一体いつまでかかるのか。
復興そのものも遅れていると聞く。
原発に限らず、この震災の教訓はどのように活かされて行くのだろうか。
原発事故の詳細な究明も済まないうちから原発の再稼働に突き進むことは何を意味しているのだろうか。

憲法を無視して集団的自衛権行使に血道を上げたり、この国は進路を誤ってしまうのではないか。



いつの間にか庭の一隅で「シラー・シベリカ」が青い花を開いている


全国的に強風が吹き荒れたが、風のまだない朝のうち、積乱雲のような雲が現れた
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