仕事をしていた頃は、飲み始めるのが世間の人たちが出来上がる頃か、そろそろ帰り支度をするような時間からだったものだから、別の仕事をしている友人から誘われても約束の時間に顔を出せないこともしばしばで、友だちを失うばかりだったのだ。
したがって、仲間内だけの独善の酒を来る日も来る日も飲むしかなかったのである。
ある時、そんな日常にフト疑問を感じ、顔ぶれにも飽きてきていたこともあって、たまには会社以外の人間とも飲みたいものだ。住む世界が違う人間たちと飲めば酒の味も少しは変わるかもしれない、とまあ、これも仕事つながりと言えば仕事つながりなのだが、仕事で知り合って仲良くしてもらっている異業種の数人に声をかけて飲み始めたのが会の母体なのである。
このままの状態が続けば会社を辞めたあとは、飲み仲間がいなくなっちゃうじゃぁないか、という恐怖感も芽生えてきていた。
それで都合をつけて集まってはワイワイやっていたのだが、言い出しっぺなのに私だけが医者の非情なお達しもあって「酒は2合程度にしておく」とちびりちびりやっていたのである。
そんな集まりだったのだが、すぐに気付いたことがある。当然のことながら共通の話題に欠けるのである。世間では歳をとると3人集まれば病気の話や愚痴話ばかりで盛り上がるのだといわれるが、そんな辛気臭いのはまっぴらご免である。
そこでひらめいたのが飲みながら俳句をひねるというのはどうだろう、ということ。
それまで実際に句をひねったことは無いし、句会と言うのをどう開くかも知らない。しかし、5文字、7文字、5文字と言葉を並べさえすりゃあいいんだろう。第一「句をひねる」という言葉の響きに、そこはかとない知性と言うものが感じられるではないか、という程度の軽佻浮薄な動機であり、カッコよさに魅かれた単なる格好つけなのである。
ただただ飲むばかりで馬鹿話をしているより、よっぽど知性的で理知的でもあって、われらにピッタリではないか、と持ちかけてみたのである。
話はとんとん拍子に進み、世紀をまたいだ前世紀の最終盤の頃に結成したのだが、さて会の名前をどうしよう、と知恵を絞っていた時、そのまま二合会でいいんじゃないか、という仲間の提案があって決まったのである。
「そのまま」とは、既に書いたとおり、その頃ちょっと体調を崩した関係もあって、医者からは「お酒は1合まで!」と念を押されていたのだが、どうにも1合というのは飲んだ気がしない。
そんなことならいっそ酒を断った方がましだ。しかし、酒を断つなんて、後の人生、何の楽しみも残らないじゃないか。ならばいっそ死んだ方がましだと、開き直っては見たものの、生来の小心者ゆえ羽目を外せるわけもなく、「2合程度」といじましい“拡大解釈”をして、それでも清水の舞台から飛び降りたようなつもりになっていたのである。何とも情けない話なのである。
今はとてもずうずうしくなって、句会のたびに理性的な御仁からは「二合会なんでしょ!」と飲み過ぎのイエローカードが出されるのだが、馬耳東風、馬の耳に念仏とはこのことで、「酒1種類について2合まで!」などと悪態をつくありさまなのである。
まあ、そんな素人集団だから、宗匠にお願いした人を「気に入らないから」というだけの、理由にもならないような理由で、それも1度ならずも2度までも首にしてしまうなど、その後の展開には1冊の本が書けるほどというのは大げさにしても、エピソードには事欠かない。
ところで何が書きたいのか。
ナニ、ある本を読んでいたら目にとまった歌があって、それを引用したかっただけなのさ。
かんがへて飲みはじめたる一合の 二合の酒の夏のゆふぐれ 若山牧水
何と心の奥底に染みいる歌であることよ。
台風11号が去った後は梅雨明けとなればいいのだが…
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