しかし、南と西にはまだ厚い雲が広がっていて、時折風に乗って雨粒が飛んでくる。
どうやら晴れと雨の降っているところの境目で朝を迎えたようである。
ヒグラシの合唱が高く低く始まった。
鳴き始めから日が経って、聞き始めの頃より鳴き声がしっかり、しかも大きくなってきたような気がする。
まだ梅雨が明けないせいか、アブラゼミやミンミンゼミの声はほとんど聞かれない。
これが梅雨明けでもして、太陽がかっと照りつけでもしたら、地中から幼虫がぞろぞろはい出てきて、一方の蝉しぐれが始まるのだろうが、もうちょっと時間がかかるかもしれない。
ただ、昨日の朝方、夏になるとわが家の蝉のアパートになるナンキンハゼの脇をすり抜けたところ、「チチッ」と鳴き声がして、蝉らしきものが飛び去ったので、気の早い奴はもうはい出てきたのかもしれない。
毎日が日曜日の身にはとんと関心がないが、昨日の土曜日から世間では3連休に入ったとかで、普段は空いている昼間の電車が込み合っていたし、羽田行きのリムジンバスの発着所には大きなトランクを引っ提げた人が目立った。
宇都宮の姫の小学校は23日が終業式だそうだが、わが家周辺の小学校は一足先に夏休みに入ったようである。
世間は夏休みモードなのである。
私はと言えば、本日から円覚寺の夏季講座に通う。
日、月、火、水の4日間、朝8時半から12時20分まで約4時間、その道を極めた人たちから蘊蓄のおこぼれをいただくのである。
「夏期講座」と言う単語には、大学受験の勉強やらなにやら、うっとおしい思い出も付きまとうが、一方で、普段できない勉強をここぞとばかりやれるのだ、という響きもあって、好きというか何か魅かれるのである。
第一、俳句の季語集にもちゃんと載っている季節感あふれる言葉なのだ。
冬期講習とか春期講座とかのように商業ベースの匂いがしてくるものと違って、大河のゆったりとした流れのような趣さえ感じるのである。
特に多彩な講師をそろえる円覚寺の夏季講座にはこれまでも魅かれるものがあったが、何せ平日にかかるので、休みでも取らなければ出席はかなわなかった。
それが今年から大手を振って参加できるようになったのである。
今日は初日の受付が7時半から山門前で行われるから、7時過ぎには家を出なければならない。
心なしか、浮き浮きする気分である。
夏らしく、蝉しぐれに包まれる大方丈で話を聞きたいものだが、そうなることを願っている。
ところで、アベシンゾーという男が、広くあまねく人々のことを思いやるのではなく、自己愛の塊のような人物だということをつくづく知らされた。
まるで、親の顔色をうかがいながら我を通す、しかも悪知恵を備えた幼児そのものではないか。
欲しいものの前では、親がしびれを切らして折れてくれて、望み通り手に入るまで、泣き叫び、わめき続け、地団駄を踏んで、あるいはエビ反ってまでして周りを困らせる。
欲しいものを手に入れた途端、けろっとした顔をして、僕これからは良い子になる、などと心にもないような事を平気な顔をして、恥ずかしさのかけらも見せずに口にするのである。
その実、口だけだから良い子になぞなったためしはない。
あまつさえ、タチの悪いことには本当に欲しいものの前では大騒ぎするが、顔色をうかがっていて、親の顔にチラリとでも不信の影が差したと見るや、これはいけない、とばかりに身をひるがえし、次々と駄々をこねて欲しがりつつも、中から一つだけ選んで、わざとらしくあきらめる聞きわけの良い、素直なブリっこを演じるのである。
これではまるでご機嫌取りではないか。
だから甘い親はおちょくられていることにも気付かず、自己愛から来る防衛本能以外のものではないことも見抜けず、悪態に辟易しつつも、この子は思うほど我儘ではなく、案外、聞きわけの良いところもある良い子なのだ、などとコロリと騙されるのである。
新国立競技場設計案の突然の白紙撤回にその思いを強くした。その言い訳にしても然り。ならばもっと聞きわけなければならないものばかりだろうに。
所詮、この親にしてこの子あり。畢竟、われらにはこの程度のリーダーしか持てないのである。
わが家で朝顔の1番花が咲いたのに気付かなかった。台風11号の余波で強い雨が降ったりしていてベランダに出なかったせいもある。
隣のつぼみが膨らんできていたが、開き切るにはもう少し時間がかかるようだ。ハスと違って「ポン」と音を立てて咲かないのである。
昨日夕方のミニトマトの収穫は46コ。黄色の方が断然甘い。
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