平方録

円覚寺管長の気合

日曜日の朝は円覚寺の日曜説教座禅会。
春とはとても思えない寒い朝だったが、円覚寺の大方丈はいつもどおり、約500人の人でぎっしり埋まった。

東日本大震災から4年。鎌倉では震災が起きた年に、市内の神道、仏教、キリスト教の関係者が集まって宗旨・宗派を超えた「鎌倉宗教者会議」を立ちあげ、合同祈願祭を執り行ってきている。
今年は円覚寺が「追悼・復興祈願祭」の会場になっていて、地震が発生した11日午後2時46分に合わせて法要が営まれる。
祈願祭の中心的役割を担う円覚寺の横田南嶺管長にとっては特別の行事であるらしく、説教座禅会の話は震災に絡めて約40分、渾身の力を込めたメッセージが発せられた。
昨年の8月から日曜日ごとに通っているが、これほどの熱がこもり、迫力に溢れた話しぶりは初めて出会うもので、正直言って驚かされた。

その話は様々な例えを引用しながら多岐にわたったが、要約すると「家族や暮らしのことに気を奪われて心を執着させている人びとを死はさらっていく。眠れる村を大洪水が流していくように…。それは避けることができないものである。そういう中にあって、死なないもの、枯れることのないものは涅槃の世界であり、仏心に他ならない。その仏心の世界とはいかなるものか。若くして亡くなった宮沢賢治は死に直面した床で見舞いに訪れた友を前にして『今の私の姿はあなたがたから見れば惨憺たる有様でしょうが、私に見えるのはきれいな青い空と透き通った風ばかりです』と語っている。詩人の坂村真民は『風も光も仏の命』と言っている。仏心の世界に生きる死ぬはない。生き通しなのである。あなたの親がなくなったとしても、あなたの命の中に生き続けているのではないでしょうか。光と風の中にあってともに生きているのです。ですから、与えられた命のある限り精いっぱい生きていくんだという気持ちを忘れてはいけないのです」

なかなかどうして、やさしい話ではない。
こうして文章に残すにあたっても苦労した。若いころと違って記憶媒体の能力劣化が著しいからである。
管長が気合を込めて語った内容を、気合を込めて受け止めたつもりであるが、あまり自信はない。ま、こんなことを言ったはずだなぁ、という程度である。

この後は1時間の坐禅なのだが、今回は特別に宮城県の南三陸町のボランティアセンターの責任者が来て現状を報告してくれるというので、又とない機会と思い坐禅をやめて講演を聞いた。
津波の話では「50センチの津波に襲われれば、人間は死にます。その破壊力は想像以上です」という。
奥さんを津波にさらわれたそうで、今もって遺体は見つかっていないという。
被災地の住民にとっては、気にかけてくれている人たちがいる、と云うことだけで張り合いが出て、元気をもらえるのです、ともいう。
そして、既に東京五輪の建設ラッシュモードに入ってしまい、資材の高騰もあり、復興の予算がついていても請け負う業者がいないんです、という言葉がズシンと胸に響く。
そうした懸念はオリンピックの誘致段階から指摘されていたが、実際に当事者から直接耳にすると、ひとしおである。

それにしても、東電の事故対応を含めた原子力政策や復興全般への政権の取り組みはこのままでいいんだろうか。考えさせられるところである。

門前では福島の野菜などを売る「復興市」が開かれていて、ニンジンと油揚げ、凍みダイコンを買った。
建長寺の坊さんが作ったケンチン汁と甘酒は早々と売り切れて、口にできなかったのが残念であった。



南三陸町のボランティアセンター長の講演=円覚寺大方丈


山門前では早朝から福島の野菜などを売る復興市が開かれた
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