仕方なく別の人に刈ってもらったのだが、どうもしっくりこない。
ところで「床屋」というのは差別用語だそうで、どうして? と思うかもしれないが、そうなっているのだ。良く注意して見ると新聞でも使っていないし、テレビなどでも最近はついぞ耳にしない。
理髪店と言い変えなければならないのだ。
私の場合、理髪店と言うところは黙って座ればピタリと当たる、じゃあないけれど、黙って座ればいつもの人によって、いつもの髪型に刈ってくれるのを理想としているので、馴染みの人の姿が消えてしまうと実に困るのだ。
いちいち説明して刈ってもらうなんぞは面倒でいけない。
というわけで、新たな店を見つけるでもなし、途方に暮れつつ、どうするか決断がつかないまま髪の毛だけが伸びているのである。
つまり日常の歯車のひとつが狂ってしまったのである。
どうしようか、などと考えていたら電話がかかってきて、350キロも車を走らせて秋田県大館市の比内地鶏の焼鳥が美味しい店の本店に行ってきたという。
ナヌ! 本場中の本場じゃないか! 抜け駆けされたか、という気分である。
で、友人はレバーが絶品だったと強調することしきりで、余りの美味しさから奥さんともども2本ずつ追加して食べたほどである、と鼻息が聞こえてくるほどに得意気である。
しかも女性ばかり4人で切り盛りしている店だったとかで、ヨカッタヨカッタと羨ましがらせるのである。
正直言って悔しい。
先日、オーストリア人青年と偶然一緒になって国際交流してきた近所の焼鳥屋では、レバーが売り切れてしまっていて口に入らなかったのだ。
そういう飢餓状態のところに持ってきて、比内地鶏のレバーが絶品だったというのである…
酒のうまさは言わずもがなだしなぁ。おのれ!
しかし、絵にかいたような非日常の行為で新たな発見をした嬉しさゆえの電話だったんだろう。声が弾んでいたもんな。
そういう非日常、脱日常的な行動を重ねることは、とても良いことなのだ。
しかも、それを自慢するという行為は一種の張りあいであり、“何とか脳”が活性化している証拠である。
発見というものは、自ら動いてみなければ見つかるものではないし、いつもの場所に座っているだけでは得るものは何もない。じっとしているんでは枯れて朽ち果てていくだけである。
世間の第一線から退いた身では、常に刺激が必要なのだ。自ら動いて日常を抜けだし、脳を活性化させなければならない。
お互いに好奇心こそ原動力、というような仕事を長く続けてきたのだ。好奇心の在庫はいくらでも残っている。
第一、期限切れとか、賞味期限などと言うセコイ表示は付いていないからね。大事にしまっておく必要も、使わない手も無いんである。
さて、床屋…じゃなかった、散髪どうしようかなぁ。
近所の田んぼの稲穂がだいぶ黄金色になってきた
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