毎月第2、第4日曜日は「日曜説教座禅会」。横田南嶺管長の説教を聞いた後、1時間ほど座禅を組む。
天候が天候だから参加者もまばらだろうなと思いきや、開始15分前には大方丈は人人人…。一段高い畳敷きを取り囲む板敷きのところにまで座布団が出され、人が座っている。仕方なく本尊に向かって左手奥に隙間を見つけて、座り込む。先週は座禅が主の「日曜座禅会」で80人余りの参加者だったが、それより4、5倍の人数だったように思う。
般若心経などを全員で読経した後、「足は楽にしたままでいいですよ」とおっしゃる横田管長の話に耳を傾ける。
この字読めますか? と冒頭、傍らの黒板に書かれた字を指す。「顕つ」とある。「たつ」と読むんだそうだ。辞書にはない。お盆を前に1冊の歌集が届いたという。その中の一首にこの字があった。差出人は見知らぬ人。付箋をたどって短歌を読み進むうち、自分の事も詠まれていることに気付く。今夏、新盆を迎える前円覚寺宗務総長にして故人となったお坊さんの死と葬儀を詠んだ歌が並んでいた。このお坊さんは宗務総長を6年勤めた後、任期前に辞任する。理由を聞いてもただニコニコと「わがままを聞いてください」と答えるばかり。ある日訪ねてきて、癌を患い余命いくばくもない、葬儀を取り仕切っていただきたいと頼みごとをして帰って行った。葬儀当日、最後に引導を渡す場面で、生前の面影が甦ってきて、感極まってどうにも声が出なくなり、長い時間引導が中断したこと、左手に掛けた数珠が小刻みに震えて止まらなかったこと、などが読み進むうちに思い起こされてきた。そんな情景が歌では「……手に掛けし数珠は炎となって燃え盛る」(ちょっと不正確)と表現されていることに改めて感慨を覚え、間近でハラハラしながら見つめていたであろう読み手の感性に感じ入る。そして「第二十世○○○○」と掘られた立派な墓石の脇に「弟がはにかんだような照れ笑いを浮かべて立っている」という趣旨の歌が出てくるに及んで、ああ、この歌集の送り主はあのお坊さんのお姉さんであったか、と気付く。この歌の「弟が立つ」が「顕つ」。
故宗務総長の人柄、管長の人柄がにじみ出たような良い話だった。
このあと一時間ばかり座禅。半数近い人は帰るか、隣室での写経に移ってしまった。座禅中は大方丈の中まで雨しぶきが吹き込むものすごい降りが2度。「心を無にして、丹田に呼吸を集中させ、ひとーつ、ふたーつと数えてください」という指示なんぞはどこかに吹き飛ぶ。指導のお坊さんが「無念無想になれなくて当然です。安心してください」と言って慰め、和ませてくれる。
ここ数日は南の風が強い。海岸では波頭が砕けて飛沫が絶え間なく上がっているので塩害を心配したが、どうやらわが庭は無事。ただトマトが強風にあおられ続け、支柱もろとも倒れそう。まだ青い実がたくさんついているからもったいない。補強しても大して役に立たず心配。
座禅会の前、境内を歩いているといきなり近くの塔頭から横田南嶺管長(左)が出てこられた
鶴岡八幡宮のぼんぼり祭りに掲げられていた横田管長の揮毫
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