平方録

悔いず 恨まず…

遠方から尋ねてきた友人を誘って円覚寺の日曜説教座禅会へ。

第2日曜日は月に1度、横田南嶺管長の説教が聴ける日である。
大方丈には毎回500人近い大勢の人が訪れて管長の話に聞き入る。
この日は師走の雨模様の、うすら寒い日にも関わらず、普段どおり500人を超すであろう大勢の人が熱心に耳を傾けた。

般若心経などをみんなで唱和した後、管長は「腰骨を立てます。お尻を後ろの方にぐっと引いて、腰骨を立てて座ります。腰骨を立てたら、その上に背骨を真っ直ぐに立て、その上に頭を置き、顎を引いて、深く静かに息を吸い、静かに吐いて行きます」と座り方を説くのだが、この日はなぜかそれが省かれた。
いきなり演壇に立ち、生まれてきたことへの両親に対する感謝、今日まで育ててきてもらったことへの周りの人々の手助けに感謝、最後に今日ここに巡り合っている人々とのご縁に感謝して手を合わせるよう、促すのである。
この3つの感謝はいつも通りであった。

この感謝を口にする声が実に聞きづらいしわがれ声である。
2年近く通っているが、こんな管長の声は聞いたことがない。
丈夫だけが取り柄と思っていたが油断したのだろう、風邪を引いてしまったと詫びたが、何のことは無い、話が進むうち、話に熱が帯びるにしたがい、聞き取りにくさは消え、その話の中身に、大方丈を埋め尽くした人々は身を乗り出すように引き込まれ、しわぶきひとつせずに聞き入って行くのである。
そして、所々で目頭に指を添えて目のふちをなぞったり、ハンカチを取り出して目頭を拭く姿が目立ち始める。

わが友人の様子をちらっと横目で探ったところ、目に指を当て下を向き、ちり紙を取り出して鼻水までかんでいる。
何を隠そう、私自身も管長を見つめる目は滲んでしまい、指で目のふちをぬぐわないと液体がこぼれ落ちそうになるのである。

説教の中身は8月の同じ席で聞かされた、幼い子を残してがんで亡くなった若いお母さんの話の後日談であった。
かいつまむと、過去をくよくよ悔いるのでも振り返るのでもなく、将来をあれこれ思い描いて悩むのでもなく、今現在、生きている今その瞬間瞬間を精いっぱい生き切る事こそが大切なのだ、という話である。
さらに、身辺に起るさまざまな出来事に対して、悔いたり、恨んだりする我らの心を戒め、原因と結果などと言うものは一つや二つ三つのことで生じるのでなく、私たちの理解の及ばないところから生じるものであるから、何も動じたり、くよくよ考えることは無いのだ、ということを学ばなければなりません、と説くのである。
我われの世界は大宇宙のように大きくどこまでも広がる仏心と言うものの中にあって、われわれだれもがその仏心を持つ存在なのだ、と。
人間に生死はなく、例え姿は見えなくなることがあったとしても、ずうっとどこまでも生き切っていく存在なのだ、とも。

生き方とか、心の持ちようとか、人それぞれに工夫を重ね、もがきながら何とかそれを見つけようとしているはずである。
日曜説教会に通ってくる人たちも、そうした思いが強いからこそ通ってきて、自らを見つめようとしているはずである。

胸のつかえがストンと落ちて消えていくような話を聞かせてもらった。




説教の後の座禅で足をしびれさせてしまったので、ストレッチを兼ねて境内を巡ってみた。暖冬のせいか、鎌倉の今年の紅葉に見るべきものは無いが、円覚寺の境内の一部は錦繍に染まっている。
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