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日々の移ろい

死ぬのを待たれるとはな

姑の日常の介助介護が続いています。

今出来る動作は、
杖をついて歩き、排泄と、食べる事。

トイレでは、何とか(手伝う事度々)自分で紙パンツを交換し、大きい方を出すことのみに専念し、 (その後の汚れた床や汚物処理は大変)

姑はその事で頭が一杯 と見受けます(紙パンツ1日7,8枚使用)

自分の足でトイレへ歩ける事は素晴らしい と尊敬に値することに間違いありません。

トイレ往復以外は、

3月頃は、新聞も読んでいましたが、今は興味を示さず ただ寝ている時間が長くなっています。

食も、届けたお膳に、手を付けず
庭で採れた苺だけは直ぐ口に入れ 横になってしまいます。

夫の「食べろー」という声に頷きつつ、眠って、またトイレへ。

トイレから戻ると疲れて寝て、、

お膳を片付けないと 朝までそのまま(夫が食べるまでそのままにしておけ、と言うので)

3月以前の姑は、
夜中に アイスクリームやカステラ等、栄養のあるものを自分で冷蔵庫(姑の二間続きの部屋の隅に設置)から出して 食べていましたが。


姑の今の状況を、

夫は、「死ぬのを待っている
とはなあ、、」

と、表現します。

姑も、晩年がこの様な状況を、
二、三年前の元気な頃に、想像だに しなかったでしょう。


60代70代と、健康に良い事をと心掛けて 実行してきた後の、

この状況を、どう考えているのか?

聞いてみたいけれど、聞けない。

頭がしっかりしている方が故、
夫以外、二人いる息子とも 良き関係とは言えなく、

ただ、終末期を淡々と過ごす。


姑を教科書に、
自分の終末への道程を作為的に導けるなら、

進んで実行したくなっている私です。

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