OGUMA    日々軌 小熊廣美の日々新

規格外の書家を自認している遊墨民は、書は「諸」であるという覚悟で日々生きている。

気楽に綴らせていただきます。

木に書いて思ったこと

2025年03月10日 | 書道・筆文字

茶室の扁額が京都に掛かった。

義理のおば様の名と亭主の名を一つずつ取った庵名ということで、そこに一つの美があるようで、その思いに添うような書になるよう務めた。

板は古材だがよくみつけてきたと思われる少し山がたの板。

木が古いので、年輪が波打って書きにくそうであったが、一枚、長方形の同じ板を添えてくれたので、試し書きができたのは助かった。

その試し書きの筆文字がわりと上手く入ったので、それも一緒に、何かに使って、と送った。

 

掛かったら写真を送って、と依頼の設計屋の師匠に頼んでおいた。

そしたら玄関に扁額を、待合に、縦書きの試し書きの庵名を書いたものが掛けられていた。

どっちが良くできたか、といわれたら、本番じゃない方が、いいようだ。

ということは、まだまだ、心ができていない、ということだ、と正直思う。

 

板の扁額は、書いたものを彫って塗って加工したもの、これがいい。

紙に書いて気に入ったものを選べるから。

 

書家冥利は直書きだろう。だが、試されている、と毎回思う。

自分の存在にもっと自信を持てたなら、もっといいのが書けるのだろう。

書家は上手い、と思われての仕事だと思うが、名前先行も困ったものだが、小熊に書いてほしい、となれば、もっと楽に書けそうだ。

 

古美術商の知人から、ネットオークションの副島種臣をみて、どう思うか聞かせてくれ、というので、副島の作品や手紙をここ一年たまにみてきた。副島のような気持ちで書ければ、と毎回思う。

書はその人以上のものにならない、とは魯山人。

まっとうな書家とはなんとつらい仕事だろうか。ま、まっとうな書家の部類ではない私がいうのも変だけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

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