茶室の扁額が京都に掛かった。
義理のおば様の名と亭主の名を一つずつ取った庵名ということで、そこに一つの美があるようで、その思いに添うような書になるよう務めた。
板は古材だがよくみつけてきたと思われる少し山がたの板。
木が古いので、年輪が波打って書きにくそうであったが、一枚、長方形の同じ板を添えてくれたので、試し書きができたのは助かった。
その試し書きの筆文字がわりと上手く入ったので、それも一緒に、何かに使って、と送った。
掛かったら写真を送って、と依頼の設計屋の師匠に頼んでおいた。
そしたら玄関に扁額を、待合に、縦書きの試し書きの庵名を書いたものが掛けられていた。
どっちが良くできたか、といわれたら、本番じゃない方が、いいようだ。
ということは、まだまだ、心ができていない、ということだ、と正直思う。
板の扁額は、書いたものを彫って塗って加工したもの、これがいい。
紙に書いて気に入ったものを選べるから。
書家冥利は直書きだろう。だが、試されている、と毎回思う。
自分の存在にもっと自信を持てたなら、もっといいのが書けるのだろう。
書家は上手い、と思われての仕事だと思うが、名前先行も困ったものだが、小熊に書いてほしい、となれば、もっと楽に書けそうだ。
古美術商の知人から、ネットオークションの副島種臣をみて、どう思うか聞かせてくれ、というので、副島の作品や手紙をここ一年たまにみてきた。副島のような気持ちで書ければ、と毎回思う。
書はその人以上のものにならない、とは魯山人。
まっとうな書家とはなんとつらい仕事だろうか。ま、まっとうな書家の部類ではない私がいうのも変だけど。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます