カメラ大好きおばあちゃん

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浜 矩子の危機の真相 権限委譲の主体は誰か

2015年11月21日 | その他
「辺野古民主主義の醜聞」2015年11月21日毎日新聞 浜 矩子(同志社大教授)

基地問題を巡って、沖縄県と国が真っ向から対立している。事態はついに法廷闘争の領域に踏み込んでしまった。
この間の経緯は、ご存知の通りだ。翁長雄志沖縄県知事が、前任者による名護市辺野古の埋め立て承認を取り消した。この埋め立て工事は、米軍普天間飛行場の移設に向けて予定されていたものだ。
そこで国が福岡高裁那覇支部に訴訟を起こした。知事に代わって、国が埋め立て取り消し処分を撤回する。この「代執行」措置を容認するように、訴えているのである。
法手続きとしては、国の行動に問題があるとはいえないのだろう。だが、ルール違反でなければ、何をやってもいいというわけではない。こんなことを、国の政治と行政に向かって言わなければならないとは、いかにも情けない。
問題は、 国がどのような心意気を持って沖縄県と向き合っているかだ。 沖縄の同胞たちが、どんな思いでこの状況に臨んでいるか。どんな思いが、国に届いてほしいと考えているのか。 これらのことに多少なりとも共感をもって目を向けようという姿勢はないのか。胸うずくものはないのか。絶句するばかりだ。
一連の展開をみながら、頭に浮かぶのがサブシディアリティーという言葉だ。 これに対応する日本語は「権限委譲」だ。
この言葉が、 しばしば誤解されるている。字も誤って書かれる場合がある。時として「委譲」の「委」が「移」になったりする。そして、意味するところは、中央から地方に権限の一部を「移す」ことで、地方自治体を推進することだと理解されたりしている。
これは違う。権限は中央から地方に移転されるのではない。地方が中央に委託するのである。主体はあくまで地方である。地域社会を構成する市民たちだ。その市民たちが、自治を展開する中で、自らの権限の一部を中央政府に委ねる。それが合理的だと判断するから、そのように動くのである。
今回の訴訟にいたる過程で、政府は、外交安全保障政策は国の国の専管事項だという発想に立脚してきたのだろう。 現状における仕組みととしては、 確かにその通りだ。
だが、そのような仕組みになっているのは、日本の市民たちが外交安全保障の領域を国に委ねたからにほかならない。 あくまでも、 市民たちの意思でそうなっている。何も、神様がその権限を国にプレゼントしたわけではない。
市民から委ねられ、 託されなければ、国には何の権限もない。それが民主主義というものだ。一国の政府と政治家たちは、このことを片時も忘れてはいけない。
主役は誰なのか。誰の声が一番傾聴されるべきなのか。 政府は、ここを誤解してはいけない。 信頼をもって民主主義の主役たちから権限を委ねていただける。そのような政府となるよう心がける。 裁判ざたを起こす前に、まずは、この姿勢がほしい。