長谷川櫂氏の切字論を読ませて戴いた以上、一歩の前進を示したい。
切れ字は節と節をつなぐ関節です。
「古池や」の句で申せば、芭蕉が詠んだ「蛙飛こむ水のおと」の節。
この節につながる節は、かつて芭蕉が観察した「古池」に違いない。
かつて観察した「古池」と「蛙飛こむ水のおと」をつなぐ関節です。
ぎこちなく繋がった関節だと具合が悪くって、評判が悪いでしょう。
上手に繋げた時には読む人たちの心にも共鳴するに違いありません。
共鳴した句は読み人の心の中の過去の記憶の古池を呼び覚まします。
心に仕舞われた記憶とのジョイント「関節・切字」は心に共鳴する。
十七文字のどの文字が「切れ字」になっても、キッと繋がるのです。
だけど、古池の蛙に関心のない人だけは、ジョイント出来っこない。
庶民の苦労を知らなければ、庶民と喜びを分かち合えないでしょう。
詩が汗を流して働く人たちの歌声なら、庶民が詠む句も詩なのです。
もちろん、芭蕉隠密説は一笑に伏され、芭蕉庶民説が本当でしょう。
読み人の心の中の「古池」と「芭蕉の詠んだ中下」とが連動できる。
中下の節を縁として皆の心に仕舞われていた記憶の古池が目覚める。
その時、その場に集っていた人たちの心は喜びを共有できるのです。
その場の人たちは上も下もなく、俳句で繋がった和が出来ています。
芭蕉が願っていた俳諧の場は正に、そのような民主的集まりでした。
師も弟子もなく、強いて言えば俳諧の神様を中心にした集まりです。
封建主義の時代に「民主主義」なんて言えば、打ち首になりました。
場に集った人たちは「民主主義」の思想を「秘」すしか有りません。