daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

たまきはる宇智の大野に馬並めて

2014年10月29日 | 萬世の歌


〔巻一・四〕
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
  中皇命

(たまきはるうちのおほぬにうまなめてあさふますらむそのくさふかぬ)

【意】今ごろは、宇智の大きい野に沢山の馬をならべて朝の御猟をしたまい、その朝草を踏み走らせあそばすでしょう。


斎藤茂吉が最大級の賛辞と共に最初に挙げた歌、及ばずながら私も理解するよう務めたいが、ゆかしく想われてならないのは万葉人の想いが早や漂ってきているのだろうか‥

たまきはる(枕詞)にも時代が下がるにつれて特別な意味は無くなっていくのだろうけど、初めは賛嘆の気持ちを表したかったのだろうとしたい私の感覚。
感嘆の想い「嗚呼!」に意味はないように、しかし強い想いはあるように、それと同じく枕詞も初めは意味を持って使われたに違いなく、しかし使い馴れると心が籠らない「ありがとう」を言うようになっていきやすい私たちかも知れない。
言葉の覚え初め・使い始めの幼児はたどたどしいながらも心が籠った「ありがとう」を言う。それと同じくこの歌を詠んだ女性の「たまきはる」には心が籠っていたのではなかろうか‥いきなり横道に逸れていきそうな予感がするなあ。
ともあれ、たまきはる「魂が極まる」と理解できるし、これは感嘆詞と言えるにちがいない。「死ぬほど」幸せと言うように枕詞「死ぬほど」は心の奥底からの声にちがいない。しかし、馴れてくると枕詞「死ぬほど」が独りでに口を吐いて出てくるだろう。

この歌を詠んだ女性は感極まるほどの幸せのなか、父か夫かの勇士を想い描いた。誇りに想われてならない男性が大勢のお伴を連れて狩りに行った。「わたしのパパは今ごろどうしていらっしゃるかしら‥」女性は狩りに行かなかった時代であればこの歌の全ては女性の想像の産物なのです。どうでもいい人のことなら想像することはない代わりに、大切に想っている男性のことを想像するときは息が止まりそうな感じ‥あなたも分かりますよね。私だって大切な恋人を想っているときは似たようなものだもの、況して女性なら尚のことでしょう。その場所に行ったことが有るか無いか、恐らく草深い野原にこの女性は行ったことはない気がする‥これ、私の想像。馬を並べて獲物を追う準備したり、勢子の声が響く山あいの繁みかも知れない。じっさいは勢子の声にかき消されて聞えないはずの蹄の音「パカランパカラン」まで聴こえてきそうです。いやいや、想像はどんどん膨らんで私までその草深野を飛びまわっているような気がしてきました。

なるほど、この歌は私も好きになっているみたいです。


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