(引用文)
数年前の早春に、神田の花屋で、ヒアシンスの球根を一つと、チューリップのを五つ六つと買って来て、中庭の小さな花壇に植え付けた。 いずれもみごとな花が咲いた。 ことにチューリップは勢いよく生長して、色さまざまの大きな花を着けた。 ヒアシンスは、そのそばにむしろさびしくひとり咲いていた。 その後別に手入れもせず、冬が来ても掘り上げるだけの世話もせずに、打ち棄ててあるが、それでも春が来ると、忘れずに芽を出して、まだ雑草も生え出ぬ黒い土の上にあざやかな緑色の焔を燃え立たせる。 始めに勢いのよかったチューリップは、年々に萎縮(いしゅく)してしまって、今年はもうほんの申し訳のような葉を出している。 つぼみのあるのもすくないらしい。 これに反して、始めにただ一本であったヒアシンスは、次第に数を増し、それがみんな元気よく生い立って、サファヤで造ったような花を鈴なりに咲かせている。 そうして小さな花壇をわが物のように占領している。 この二つの花の盛衰はわれわれにいろいろな事を考えさせる。 (大正十二年五月、渋柿)
(大正十二年五月号掲載文を読んで)
軽格ではあるが、寺田家も帯刀の身分であることに変わりはない。
軽格は藩主を支えて・民衆を支配する側で暮らした身分であろう。
そんな封建時代の軽格であってみれば、寅彦も坊ちゃんの仲間だ。
幕末時代、尊皇派・攘夷派・勤皇派・佐幕派等とあったようです。
とはいえ己の確固たる信念思想を持っていた人は少なかったろう。
坂本竜馬も初めは尊王攘夷派であり、後に開国派に転向している。
その坂本竜馬にしても男尊女卑の思想に疑問を持つ事はなかった。
社会の流れや藩の動きに左右されて誰もが敵味方に分れて戦った。
前置きが長くなったが、寺田寅彦の思想も似たような物だろうか。
一般民衆を見下したとしても当人は意識して見下した訳ではない。
武士ゆえに学問を身につける機会に恵まれ、東大に行けたのです。
彼が文盲に甘んじている一般民衆を劣等と感じてもおかしくない。
民衆を劣っていると見下す寅彦、だが、彼は人に教えようとした。
その寅彦を私は、傲慢なだけの人間ではなかったと考えてはいる。
ともあれ、寅彦は球根を買ってきて何処かの花壇に植えたらしい。
専業農家には判っていることも、寅彦には初めての経験でしょう。
寅彦には全く初めての経験でも、世間には常識かも知れませんね、
花を愛でることは好きだが、育てることは苦手だった寅彦である。
軽格の坊ちゃん育ちの寅彦ゆえ、それも仕方のないことと言える。
彼はヒヤシンスがチューリップより適者生存に優れていると知る。
その事から考えさせられる事が色いろ有りそうだと述べたのです。
寅彦は己が知って済ますだけでなく、人々に知らせたいと思った。
私は「柿の種」を読み進んできた今、全編に寅彦のそれを感じる。
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