思いついた言葉を並べて詩を作ろうと考える人はいる
俳句をつくるとき、詩をつくるとき、私なら推敲する
言葉を紡ぐことで佳い俳句になり・素敵な詩にもなる
それで宮沢賢治はどのようにして詩を作ったのだろう
宮沢賢治は言葉を選ぶとき悩んで悩んで悩んだと思う
どうしてそう思うかというと、私がそうだからだけど
それなら宮沢賢治も私と同じで悩んで悩んで悩むだろ?
高村智恵子の場合はどうなんだろう?
彼女はもしかして悩まなくても言葉が湧き出たのかな
「東京には空がない」もスラスラスイスイだったかも知れない
知恵子の夫・光太郎は悩むことはなかったと言えよう
賢治が悩んだ【雨ニモマケズ」をチョチョィチョイの手際よさ?
悩まない光太郎は賢治も悩まないと決めつけたと思う
考えも思慮もなしに賢治の悪い癖でヒドリにしたって
そう考えたとき縺れた糸がスルスルと解けた気がした
詩にどうしても使いたい言葉があったりするんだなあ
たとえば「影踏み」をどうしても使いたいことはある
無理やり使いたい訳でなく、その言葉が要るからだよ
それが賢治の場合は「ひどり」だったかも知れないし
フレーズを思いつくたびに「ひどり」を試みに入れて
入れてはみたがピッタリ来なければ置いておくだろう?
賢治には「ひどり」で苦しむ子女が観えたのだろうか
それは私の想像であり「有り得ない」かも知れないが
私の俳句作りではそんなことはしょっちゅうだからね
「影踏み」に代わる例えば「影鬼」とか色いろ考える
私は賢治のファンクラブではないが好い加減は嫌だな
まして私がファンなら賢治が冒涜されるのは許せない
未発表の未完成の「雨ニモマケズ」でナンデ冒涜する?
推敲中の帳面を勝手に引っぱりだしてナンデ冒涜する?
オッチョコチョイの賢治だと酷いことナンデ言えるか?
それは賢治を愛してない、賢治を食い物にする餓鬼だ
これはヒドリかヒデリか論ずる以前の常識の問題だろ?
賢治を知らなくてもこのぐらいのことは私なら言える
じっさい、賢治の暮らしぶりを私はちっとも知らない
私は詩を嗜む者として人に非道を働く無礼を許せない
賢治の「雨ニモマケズ手帳」はメモで発表作ではない
俳句を詠む私は賢治と同じ詩人なんだと自負している
高村光太郎に同調したり媚を売った者は恥じるべきだ
ファンでもない私に賢治ファンが叱咤されてどうする。
宮沢賢治を誇りをもって大事にしなきゃだめだろ?
俳句をつくるとき、詩をつくるとき、私なら推敲する
言葉を紡ぐことで佳い俳句になり・素敵な詩にもなる
それで宮沢賢治はどのようにして詩を作ったのだろう
宮沢賢治は言葉を選ぶとき悩んで悩んで悩んだと思う
どうしてそう思うかというと、私がそうだからだけど
それなら宮沢賢治も私と同じで悩んで悩んで悩むだろ?
高村智恵子の場合はどうなんだろう?
彼女はもしかして悩まなくても言葉が湧き出たのかな
「東京には空がない」もスラスラスイスイだったかも知れない
知恵子の夫・光太郎は悩むことはなかったと言えよう
賢治が悩んだ【雨ニモマケズ」をチョチョィチョイの手際よさ?
悩まない光太郎は賢治も悩まないと決めつけたと思う
考えも思慮もなしに賢治の悪い癖でヒドリにしたって
そう考えたとき縺れた糸がスルスルと解けた気がした
詩にどうしても使いたい言葉があったりするんだなあ
たとえば「影踏み」をどうしても使いたいことはある
無理やり使いたい訳でなく、その言葉が要るからだよ
それが賢治の場合は「ひどり」だったかも知れないし
フレーズを思いつくたびに「ひどり」を試みに入れて
入れてはみたがピッタリ来なければ置いておくだろう?
賢治には「ひどり」で苦しむ子女が観えたのだろうか
それは私の想像であり「有り得ない」かも知れないが
私の俳句作りではそんなことはしょっちゅうだからね
「影踏み」に代わる例えば「影鬼」とか色いろ考える
私は賢治のファンクラブではないが好い加減は嫌だな
まして私がファンなら賢治が冒涜されるのは許せない
未発表の未完成の「雨ニモマケズ」でナンデ冒涜する?
推敲中の帳面を勝手に引っぱりだしてナンデ冒涜する?
オッチョコチョイの賢治だと酷いことナンデ言えるか?
それは賢治を愛してない、賢治を食い物にする餓鬼だ
これはヒドリかヒデリか論ずる以前の常識の問題だろ?
賢治を知らなくてもこのぐらいのことは私なら言える
じっさい、賢治の暮らしぶりを私はちっとも知らない
私は詩を嗜む者として人に非道を働く無礼を許せない
賢治の「雨ニモマケズ手帳」はメモで発表作ではない
俳句を詠む私は賢治と同じ詩人なんだと自負している
高村光太郎に同調したり媚を売った者は恥じるべきだ
ファンでもない私に賢治ファンが叱咤されてどうする。
宮沢賢治を誇りをもって大事にしなきゃだめだろ?