ひじり庵

バイクと神社仏閣、遍路は同行二人と一台♪

四国病(笑)

2020年09月20日 | 神社仏閣


四国遍路の特徴とその宗教的意義~同行二人とお接待文化の原点~
先日、四国88ヶ所第22番平等寺様のライブ配信にて、リモート講義がありました。
大変良かった。


3巡目の遍路ですが、四国と遍路の虜になり(笑)何度でも行きたいと思える、まさに四国病(笑)

四国88ヶ所第80番国分寺様で購入したステッカーの「Life is henro」
まさに人生即遍路。










↑↑↑私はお遍路アイテムのなかでも、
金剛杖が好きでして、、、
お遍路さんの金剛杖、どこで息絶えても成仏できるように卒塔婆を模した金剛杖、行き倒れたらそれがそのまま自分の墓標になる。
一番身近な金剛杖を弘法大師の化身としてとらえているから、お遍路さんは金剛杖を大切に扱う。

昔は歩きだから、途中で行倒れることもあるかもしれない、もちろん生きて結願する為に最前に尽くしたでしょうが、何せ昔のこと死をも覚悟しておかなけばならなかったのでしょう。

↑↑↑ネットから拝借
持ち手のカバーをはずすと、ちゃんと五輪塔、卒塔婆になってます。
かく言う自分はバイク、金剛杖もって無い(をい)
バイクで持ち運びできるように、バイクに金剛杖入れ付けたいな、何か工夫しないと。🤔

秋彼岸、彼岸花

2020年09月18日 | 仏教







※写真は昨年や数年前のもの。

「今日彼岸、菩提の種をまく日かな」
↑↑↑与謝蕪村?松尾芭蕉?諸説あるらしい?詠み人知らず???


秋のお彼岸に入ります。
2020年(令和2年)秋のお彼岸は9月19日(土)から9月25日(金)までの7日間。

彼岸花って、お彼岸になるとひょっこり咲き出す、不思議な花です。


↓↓↓平等寺様のHPより拝借し、書き加え

>>お彼岸は、仏さまの世界と我々の世界が最も近づく日として、昔より先祖供養の日とされてきました。

※春分の日と秋分の日は、それぞれお彼岸の中日にあたります。
この日は太陽が真東から昇り、真西に沈みます。真西というのは、阿弥陀如来の西方極楽浄土があるとされています。太陽が極楽浄土に向かうと考えられたことから、お彼岸になったという説が一般的です。

般若心経。

2020年09月14日 | 仏教
Twitterのある方の投稿で、般若心経なデカールを貼った耳なし芳一のようなバイクの画像を見かけました(^^)

大般若経600巻のエッセンスを抽出しコンパクトにしたのが般若心経。
般若心経の説くところは「執着から離れよ、執着すべきものなど何もない」ということ。

そこでネットでみつけた、ロックな表現な現代語訳の般若心経をご紹介。
↓↓↓こちらからコピペしました。

>>超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ

もっと力を抜いて楽になるんだ
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。
この世は空しいモンだ 痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ

この世は変わり行くモンだ 苦を楽に変える事だって出来る
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ

この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ

見えてるものにこだわるな 聞こえるものにしがみつくな
味や香りなんて人それぞれだろ?何のアテにもなりゃしない
揺らぐ心にこだわっちゃダメさ それが『無』ってやつさ。

生きてりゃ色々あるさ 辛いモノを見ないようにするのは難しい
でも、そんなもんその場に置いていけよ

先の事は誰にも見えねぇ
無理して照らそうとしなくていいのさ

見えない事を愉しめばいいだろ
それが生きてる実感ってヤツなんだよ

正しく生きるのは確かに難しいかもな
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ

菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ
愉しんで生きる菩薩になれよ
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ

勘違いするなよ 非情になれって言ってるんじゃねえ
夢や空想や慈悲の心を忘れるな それができりゃ涅槃はどこにだってある

生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ

この般若を覚えとけ。短い言葉だ

意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ

嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ
今までの前置きは全部忘れても良いぜ

でも、これだけは覚えとけ
気が向いたら呟いてみろ 心の中で唱えるだけでもいいんだぜ

いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?

『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』

心配すんな。大丈夫だ。>>




↑↑↑
懐かしのテレホンカード、使用済みなのに、置いてあった(笑)

合掌。
(-人-)

去去として原初に入る

2020年09月12日 | 神社仏閣

こちらの記事、四国88ヶ所第57番栄福寺様のご住職のおはなし。おもしろかったのでリンク貼ります。

前編、後編となってます。↓↓↓

やっぱりお遍路最高って思いました(^^)

昨年、20年ぶりにくらいにお遍路したら、外国の方の多いことにビックリ、宿泊した第58番仙遊寺様の宿坊でも、フランス、アメリカの方がおられました、フランスの方は何日か滞在しており、お寺の作業を手伝う傍ら、ご住職に取材をされてるようでした。

仙遊寺様に最近お参りに行ったので、その後どんな記事になったのか?ご住職にお聞きしたかったけど、その日は納経所に居られなかったなぁ。

そうそう実は最近、西条市と今治市の11ヶ所の四国遍路寺院、お参りしましたの、3回目です。重ね印に嬉しくなりました。

60番横峰寺様、奥の院の星が森にもいきました。↓↓↓
↓↓↓重ね印。







>>「去去(ここ)として原初に入る」(弘法大師 空海『般若心経秘鍵』)【現代語訳 去りて、去りて、存在の原点に入ってゆく】

バイクでお遍路しながら、やっぱお遍路いいな~と、原点回帰したわけです。

※バイク免許取るきっかけは、バイクでお遍路する為でした。(^^)


背暗向明

2020年09月11日 | 仏教
秋のお彼岸の頃なると、とつぜん咲き出す彼岸花。
もうすぐお彼岸です。

さて、今回は引用ですが仏教関連なお話を。。
うつ女子のためのお大師様の言葉
↑↑↑こちらのサイトから、お大師様の言葉を拝借してます。

タイトルの「背暗向明」もお大師様の「精霊集」のなかにある言葉です。
(背暗向明とは、絶望や失意に背を向け、希望や挑戦などに向き合う)ネガティブなものに背を向けて、明るい方向へ向かうということですね。




以下、サイトより抜粋コピペ。

弘法大師空海お大師様の言葉です。

>>生は我が願いにあらざれども、無明の父、我を生ず。死は我が欲することにあらざれども、因業の鬼、我を殺す。
(教王経開題)


思い通りにいかなくても当たり前。私たちは、人生の最初と最後も決められないのですから。
(参考書籍:「心が穏やかになる空海の言葉」元結不動密蔵院住職 名取芳彦氏著/宝島社刊より引用)

意訳
私たちは、願って生まれてきたわけではありません。仏さまのご縁があって、この世におろされたのです。
そして、死を願っているわけではありませんが、いつか鬼がやってきて命を奪うのです。生まれることも、死ぬことも、思い通りにいかないのが人生なのです。


>>一身独り生歿す。電影是れ無常なり。/慕仙詩


意訳
稲妻の一瞬の光のように。私たちは皆、独りで生き、独りで死んでゆくのです。

人に会うのが怖い。人と会いたくない。でも…人恋しい。こんな、相反する思いに翻弄されるのも、うつの特徴かもしれません。

うつは、人との関わりあいの中から、生まれる病気です。誰かとの、争い。誰かとの、思いのすれ違い。誰かへの、憎悪。誰かへの、執着。

そして、もっと厳密にいうと。誰かとの関わりの中で、「自分に幻滅する」と起こる病気。「自分には価値がない」と強く感じると、あっとう間に、奈落の底まで行ってしまいます。

「人間はひとりでは生きていけない」。でも、人を奈落の底に落とすのも、人間です。(それは、自分自身も含めて)人恋しいけど、人が怖いのも、いわば当たり前の感情なのです。
人間は、生まれてきた時もひとりだったし、死ぬ時も、ひとりです。
人生も、あっという間。地球の歴史から見れば、人間の一生なんて、一瞬のまたたきのようなもの。これを「無常」というのやもしれません。>>


弘法大師空海、お大師さまの言葉は、今この生きにくい世の中に、響く言葉であります。