le temps et l'espace

「時間と空間」の意。私に訪れてくれた時間と空間のひとつひとつを大切に、心に正直に徒然と残していきたいなと思います。

紙わらべ展

2012年08月28日 | 日記

高木栄子さんという方の「紙わらべ展」に足を運んだ。高木さんは懐かしい情景の中で遊ぶ子どもたちの世界を創り続けている人形作家で、「紙わらべ」というのは高木さんが名付けた10センチほどの和紙人形だ。
45歳の時に独学で人形の創作を始め、懐かしい情景の中で遊ぶ子どもたちの世界を創り続けているそうな。2003年、81歳にして初めて開催した本格的な展覧会で6日間で33,000人を超える来場者を記録したあと今年8月に卒寿を迎えられるということで、今回の展覧会には「卒寿記念」とある。そ、卒寿。。
私の祖母も認知症になることもなく無事90歳の大台に乗って10か月が過ぎているが、子どもの助けを借りながら穏やかに過ごす日々だ。いろんな90歳。


紙わらべで表現するのは、子どもの頃、誰もが心待ちにしていたお正月、雛祭り、運動会などの季節の行事や剣玉、竹馬、縄跳びなどの懐かしい遊び。ふと口ずさんだ「夕焼け小焼け」や「叱られて」などの童謡だ。

まずは、その細やかさに驚嘆する。子どもたちが履いている草履の鼻緒のひとつひとつはもちろん、お弁当の海苔巻きの具材や線香花火の火花、定食の鮭の皮までもがきちんと判別できるまでに精巧に作られている。こんなに小さなものをどうしたらこんなに精密に、誰もがそれと分かるように作れるのか・・・。驚くばかりである。

画像では少しわかりづらいかもしれないが、紙わらべには表情がない。目鼻口を敢えてつけていないのだそうだ。それは、見る人に、自由に子どもたちの表情を想像してほしいから、とのこと。ただし、「目線」は意識して作っていると高木さんは言う。確かに、楽しそうだったり悲しそうだったり得意げだったり、顔のパーツはないのに子どもたちが見せる色々な表情が、紙わらべ一体一体にまざまざと表れ、私の心を揺り動かす。
紙芝居屋さんの前に集まる子どもたちの目は爛々と輝き、お祭りの屋台の古着屋さんで古着を選ぶお母さんの顔は生き生きとして古着選びに夢中になっている。隣の植木屋さんではお父さんが少し気難しい顔を作りながらも植木を眺めている。。
表情だけではない。仕草も、また心深くに入り込んでくる。かるた遊びでは、我先にと腰を浮かせて膝をついている子どもが、運動会では絶対に帽子を取られまいと背中を大きくそらせた子どもが、バトンをもらったらそれっと駆け出せるように手足を大きく縦に広げた子どもが、そこにいる。まるで、周りの歓声までもが聞こえてくるようだ。

ひとつひとつ展示をみて回っていると、隣の方が「この人は観察力がものすごく高い」と話しているのを耳にした。
確かにそうだろう。そうでなければ、こんなに正確・精巧なものは生み出せない。でも、もっともっと紙わらべを大きく包んでいるものは、ご自身が子どもの頃に経験した事柄、存在した情景をご自身の心の中の想い出だけに留まらせておきたくないという強い願いではないかと感じた。人の想い出は、その人が亡くなってしまえば永遠に消え失せてしまう。それを何とか紙わらべという「かたち」にし、ずっとずぅっと「高木栄子の想い出」そして同じ想い出をもつ「みんなの想い出」として生き続けさせたい。後世に残したい。そんな思いが高木さんを憑き動かし、制作意欲の揺るぎない原動力となっているのではないだろうか。
生きた時代の違いから私は持っていない「想い出」も、そんな願いを感じで観れば、どこか懐かしい。「ああ、子どものころはこんなだったな」などと過去の1ページに浸ったりしてしまう。


何だかいつまでも去りがたく、後ろ髪を引かれながら会場を後にするとちょうど陽が傾いてきた週末の夕暮れ。秋の足音も少しばかり感じ、ふぅと一息ついて空を見上げ、ゆっくり歩きだしたのだった。。


世界のバリアフリー絵本展

2012年08月27日 | 日記

世界のバリアフリー絵本展に出かけた。

「バリアフリー絵本展」と銘打つ展覧会には、これまでにも何度か足を運んだことがある。大抵、目の見えない人向けに文章を点字にしたり点で絵をかたどったりしている、いわゆる「点字絵本」やフェルトや布で作った人形をマジックテープなどで本側に貼り付けた「さわる絵本」の点字が多かった。点訳絵本をつくるボランティアをしていたこともあって、技術の面で参考になる点や布だとこういう表現(点字だと言葉での説明が限界なのが、布だと触って理解することができるなど)が可能となるのか、と新しい発見があり、楽しく見て回ったものだ。

しかし、今回は違う。

決定的な違いは「バリア」という言葉が表すモノの多さである。
私が認識しているよりも、もっともっと大きな概念でとらえている。
展覧会には「今の社会の中で生きていくのに障壁となるものをバリアとしている」とあった。そういった概念を軸に世界中の「バリアフリー絵本」が集められていたのだ。
だから、先に書いた絵本は逆に少なく、自閉症の子どもの読み物もあれば片足がない子どもが運よく支援により義足をつけられるまでの写真つきの実話本(絵本のような装丁で読みやすい)があり幅広い内容だった。知能に障害があってモノの大きさの判別をしづらい子どもに対するしかけ絵本もある。例えばネズミの隣のページが縦に開くようになっていて開くと、きりんがいてsmallとbigの違いを分からせるような本だ。

印象に残った絵本がある。

主人公(仮にAくん)はスプーンにしては先が3本に割れているがフォークにすると全体が丸いし3本に割れた先も尖っていなくてさすことができない。食事が始まろうとするとスプーンやフォークやナイフはそれぞれ相方と手を組み、楽しそうに自慢げに定位置につくのにAくんはいつもバカにされ仲間外れ。ギザギザの帽子をかぶってみたり色々工夫をするのだがみんなにバカにされるだけ。しかし、落ち込む彼にもちゃんと活躍できる場があったのだ。それは・・・赤ちゃんの食事。すくって食べたり、突き刺して食べたりする赤ちゃんに主人公がぴったりだったのだ。しかも、先が尖っていないから安心。

この展覧会では、2種類の「バリア」があることを強く語っているように感じた。ひとつは書いた視覚障害や身体障害などの相手が持っているバリア、そしてもうひとつは皆の心の中にもっているバリアである。
バリアフリーと聞くと、ついつい「見えない子どもが絵本を読めるようにするには?」「見えない
大人が子どもに絵本を読むためには?お酒とジュースを間違えないようにするには?」と考えがちだ。もちろん、それもバリアフリー。物理的な障害を持つ人々のどんなに助けになろうか。

ただ、今後複雑化している社会の中で、今私たちが考えてゆかねばならないのはむしろ知らず知らずに分厚くなっている自分の心のバリアをどうフリーにしてゆくか、ということだと思う。
フォークにもスプーンにも足りないAくんを「ダメなやつ」とみることがすでに人為的に作り出されたバリアであり、もしかしたら、すでに社会にはこういった人為的バリアが蔓延っているのかもしれない。Aくんが存分に力を発揮できる場所はどこだろうと自然に発想する、それこそがバリアをフリーにすることではないだろうか。
相手のバリアをフリーにするお手伝いをする、フリーを考える。と同時に日常の中でふと感じたことに対し、「これは自分が心に作ったバリアではないだろうか」と常に自問してゆくこともバリアフリーであると思う。折々で実践してゆこう。相手がそれをもっているからこそ良いことは?それを生かせることは?に
フォーカスして、よく考えてみるのだ。皆がそんなふうに発想してゆけば今そこにあるバリアは優しく溶けてゆく。


舶来屋

2012年03月11日 | BOOK

舶来屋 幸田 真音 著

「舶来」という単語が好きです。なんとなくワクワクしませんか?

子どもの頃、祖父母の家に長く預けられていたので、私の心には、昭和どころか大正時代のことが色濃く染み込んでいる自覚があります。そんななかで「舶来モノのウイスキー」なんて聞くと、異人さんが作ったお酒が長い期間船に揺られて、はるばるこの小さな島国にやってきたのかと勝手にロマンを感じて、ちょっとじぃんとしたりします。祖父が時計屋さんだったので、舶来モノ・日本製と、よく時計をそんなふうに言い分けていたせいもあるのかもしれません。「これは舶来モノだ」という時の祖父の言葉にはちょっとした憧れが宿り、それでいて「日本製だ」という時には、ちょっとどころではない誇りを、子ども心に感じていたのです。

この本、帯には「エルメス、グッチ、セリーヌを日本に紹介した男の痛快で心にしみる一代記」とありますが、最初の200ページくらいは主人公(80代)が体験した戦争を語るかたちで話が進んでゆきます。そして、復員して戦後の闇市の「ルール」を体験して、そこからビジネスを展開してゆく。そこには様々な紆余曲折やもどかしい思い、商人としての信念、商人であるからこそ得られる喜びがちりばめられています。

語る相手は、偶然喫茶店で居合わせた若い男性とその女友達。男性の方は、家業を継ぐべく「社長」のタマゴとして勉強中、女友達はバリバリ働くキャリアウーマンといったところ。「イマドキの」よろしく、すぐに結果を求めたり、理に適わないこと、損をすることに敢えて手を出すのはナンセンスと考える世代で、その疑問を主人公にぶつけます。そのたびに主人公は、自分の考え方やビジネスの根幹は「人と人との心のつながり、信頼」であるということを丁寧に優しく語ってゆきます。結果、それが今の若い人へのメッセージになっています。

しかし、そのパターンが基本最後まで続くので、正直・・クドい。説教くさいといってもいいかもしれません。ただ、肯定的にみれば主人公は戦後の何もない中から、外貨の制限といった社会の規制もありながら、このすばらしい外国の品々を、ブランドに誇りを持って働いている店員の姿勢を、日本に商品としてあるいは「文化」として広めたい、その情熱をいかに伝えるか。。その対極になるものとして若い人の考え方を利用しただけであって、若い世代への批判がメッセージとは思えなくもありません。

しかし・・若い人の「合いの手」がいつも否定的、主人公の対応が過剰に肯定的。もう少し違う形でその情熱を「浮かび上がらせる」手法はなかったのかと、少し悔やまれます。

ただ、人生は月と同じ。「満ちたら欠ける、欠けたらまた満ちる」が、響きました。満ちたところにあぐらをかかず欠け始めるときに備える、欠けてしまってもくよくよせずに満ち始める楽しみを胸に耐える・・・シンプルだけれど、妙に納得。


親鸞(下)

2012年03月10日 | BOOK

親鸞(下) 五木 寛之 著

さてさて、「下」。「上」よりも「小説色」が強いかなと感じます。特に親鸞と恵信の愛の部分。現代的な描き方をしています。まあ大河ドラマも愛の部分は現代の価値観に合わせて、現代ドラマのように描いたりしますが・・・。

テーマは「悪」とは?そして「念仏」とは?です。

悪の反対は善。善は良いことなので悪は悪いことだ・・・そんなふうに簡単に境界線を作れない、人は悪を抱えて生きる生き物なのだというのが親鸞の思い。

念仏は「唱えて救われるもの」ではなくて、「救われたいと思うと自然と唱えずにはいられないもの」と捉えるのが親鸞。

念仏は、時として一大エンタテイメントとなり、多くの考え方が生まれ、親鸞の考えに異論を唱える者もでてきます。高弟を飛び越して法然から選択集の書写を許可された彼への他の僧からのやっかみも生まれます。そんなこんなで親鸞は様々な危ない目にあうのですが、その中で他の僧が彼に色々と質問をします。そのテーマが悪であり念仏なのです。その質問に答えていくかたちで、親鸞の考える悪や念仏が炙り出されてゆくという構成になっています。なので読者としては、親鸞の考え方が頭に入ってきやすい。

そして、師である法然との関係にも立ち入っています。

「私はそなたがうらやましいのだよ」

という一文が印象的です。法然は聖人として扱われる存在。親鸞は肉を食べた経験もあれば酒の味も知っていて、下人との付き合いもあり、そして妻帯した。皆に説法しながら、法然はいわば「お坊ちゃま」でそんな経験がない。そんな経験をしたかったけれど「機会がなかった」、だから聖人のまま今日まで来たのだ、と少し淋しげに語ります。何より「悪」と呼ばれているものを身をもって経験しながら、かつ考えは自分と同じ・・・となれば、若き親鸞にその先を託そうとするのは自然の心の流れだろうと思います。うらやましいのだよ、と吐露したのは、おそらく法然の心からの本心であったことでしょう。

最後は、親鸞が恵信の故郷である越後に流罪になるところで終わるのですが、そこがまた・・

(以下、抜粋)

「恵信どの、お山で修行したことはあっても、わたしは世の中を知らない。越後で地元の人々のような暮らしができるだろうかと、不安でならないのだ。なにもかもがはじめての体験だし、流人の暮らしとはどういうものか想像もつかない。頼りになるのは、そなただけだ。(略)わたしは本当に自信がないのだよ」

「大丈夫です。わたくしたちには、念仏という大きな支えがあるではございませんか」

ほほえんだ恵信の頬が赤く染まった。

 

なんというラブストーリー的な終わり方・・・。しかも、肉食系女子と草食系男子のようなイマドキな感じです。そんなふうに語りかけられたら、私も恵信のように「大丈夫」と言ってしまうでしょうね。。念仏のように?!大きな支えとなりたいものです。


サティシュクマールの講演で考えた

2012年02月26日 | 日記

インド出身の思想家であり環境平和運動家のサティシュ・クマールさんのドキュメント映画上映会と講演に行く。350人の定員に対し、立ち見も出るほどの大盛況。これからの社会をどう生きてゆけばよいのかとうことについての人々の関心の高さがうかがえる。

サティシュさんは75歳。しかし、とても情熱的であと50年くらい生きそうなパワーがあった。それでいて、彼が生み出す空気はとても穏やかで優しい。ユーモアも豊富だ。見せる笑顔に大きく包まれると同時にいたずら好きの少年のような無邪気さが覗く。

ドキュメント映画が70分。講演と質疑で約90分。ボリュームたっぷりの3時間だった。その中で印象に残る事柄がいくつかある。

●どんなことも、プロセスと結果に分かれるのではなくてすべてがプロセスのつながり

今の世の中は結果ばかり求めると批判される。私自身もプロセスを大切にしたいと思っている。でも、結果を求めることを悪いことだとは思っていない。むしろ求めたい。「結果ばかりを求める」と批判する人は、実は結果=ゴールと思っている「貧しい」人ではないだろうか。結果をもプロセスの一つととらえれば、こんなに楽しいことはない。

サティシュさんはパン作りに喩えていた。パンを作るには小麦を育て、挽き、捏ね、焼く。焼くことばかりを重視する。しかし、パンを焼いたあとは食べ、消化する。排泄もする。焼いて終わるわけではない。おっしゃるとおり。しかし、だからすべてはプロセスのつながり、結果などないとするのはいかがなものか。

小麦を育てて収穫すれば嬉しい。苦労して挽きあがったら充実感もある。パンが焼ければ食べる楽しさが生まれる。そういった「結果」があるからプロセスにも光が当たるのだ。結果はどんどん求めて良いと思う。

私が喩えるなら雪だるま。最初は手のひらで丸められる玉を次第に大きくしていく。新雪を使うのかちょっと固まった雪を使うのか、考えながら大きくしなければ途中で割れたりいびつな形になっていったりする。そういったプロセスを経て「おお、ここまで大きくなった」と結果を喜び、「もう少し大きくしてみよう」とさらにプロセスを踏む。おかげさまで立派な雪だるまができても、それは永遠ではない。一晩経てば溶けているか、車の泥で汚れてみるも無残な姿になっているか。そこがいいのだ。大きな結果を得たとしても、それは永遠ではない。それをプロセスに変えて次の力に練りこんでゆくのだ。結果を得た!とトロフィーのように誇示していたら泥にまみれた雪だるまと同じ、誰もみたくない。・・・いかがでしょうか。

結果とプロセスは実は二人三脚の関係、とても仲良しなのだ。

●just enough

世界がこれほどまでに原油を大量に消費し自然を破壊し、社会から自然を締め出した背景には人々の「もっと」と思う欲望がある。手があり足があり心がある。これで十分、という気持ちがあれば自然ともっと上手くつきあえる。コンクリートジャングルからも解放される。

共感する。高層ビル、タワーマンション合戦。何を訴えたいのかイマイチ分からない映像プロモーション。確かにすごい!と思わなくはないが、そこまで必要?と思うものも多い。例えば大阪駅周辺のデパート合戦には閉口する。結局入っているテナントにそこまでの差はない気もするし、大型化したといってそれぞれの力をみせつけあっているだけの気がしなくもない。そうでなければ、たまたまこれまでなかったコラボで斬新さをアピールする。どうだ、このアイデアすごいだろう、と。そんなふうに大量の資源を浪費しておいて、子どもたちにワクチンをなどと言ってペットボトルのキャップを集めたり。その資源の浪費が、遠い国の子どもたちの生活環境を破壊し発病の原因となっているかもしれないよ、と思う。

銀座で、サティシュさんが幾何学模様の何かが画面の奥から次々と流れ出てくる映像を目を丸くしてみていた姿が印象的だった。「この世のものとも思えない」というその表情と、サティシュさんとその映像の画がいかにも不釣合いだった。あまりにもアンバランスで会場から笑いも起こったほどだ。今世の中にあるものがいかに人間の素(そ)の営みとかけ離れたものであるかを端的に表しているようだった。

もう、十分でしょ。

●サステイナブルソサエティー

英語で書けよっ!

これはあの有名なE.Hシューマッハも提唱する考え方、彼の本は今でも読者が多い。持続可能な社会を作っていかねばならない。資源は有限なのだ。スモールイズビューティフル。それなのに、人々はそのことに目を向けずにEメールを打つことや飛行機・新幹線を使って(エネルギーを使って)旅行に忙しい。社会を世界をリデザインしなくてはいけない。

これも分からなくはない。しかし、持続可能な社会の実現は昔から言われつつも実現されない。その兆しがあるのかどうかも、私は実感できない。社会は「発展」してゆくばかりだ。もちろん、彼らの言うことはとても素敵だ。人類がそんな生活を送れれば心はもっと穏やかに、人に対しても優しくなれるように思う。共感する人が多いのに、どうして実現されないのだろう。彼らの提唱する持続可能な社会はもはや理想郷と化しているようにも思う。ダイエットと同じだ。「痩せたいよねぇ」と言いながらケーキを食べる。「太陽とか木とか良いよねぇ」と良いながらipadで読書。

さらに現実を見回せば

「身体に優しい自然食を食べよう!というイベントを東京丸の内ビルの地下1階で開催します。」という告知をtwitterで行なう。

「環境負荷を与えない自然農法を体験しましょう。場所は○○。集合場所は○○駅北口。大型バスを用意します。(駅周辺にコンビニあり)」

「植林ボランティアに参加しませんか?木を増やし守りましょう。参加者には仕出し弁当とペットボトルのお茶を用意します」

・・・それが妥当なところではないだろうか。先日のニュースでこんなのもあった。「デジタル時代に何でもすぐに手書きできるアナログなノートが人気です。高級ノートのほかこんなのもあります。書いた内容をiphoneで撮影できるように四隅に印があります。書いた内容をブログにのせたり・・・」結局デジタル?

理想郷が現実になれば、これほど良いことはない。さりとて今のシステムをリセットしてリデザインすることは到底出来ないように思うのだ。サティシュさんが提唱する事柄はもちろん頭の片隅に置きつつ、私たちがこれから考えるべきは、「Re」ではなくて、この社会を生かしたまま、この社会と上手く付き合いながら次世代を考えていくことではなかろうか。「これまでの営みが間違っているからこんな社会になった。だから、元に戻そう。原点に帰ろう」ではなくて、今ここをスタートとする。今の現状から、次にどんな良い社会を作れるか。過去の過ちを糧として考えるのだ。個人は欲望に振り回されない。企業は個人の欲望をむやみやたらに掘り起こさない。社会は現状をよく見極める。要らないものは削げばいい、要るものは足せばいい。守るものは守っていけばいい。そんな新しい「持続可能な社会」を考えるべきではないだろうか。

だって・・・確かに足があるといっても、この来日公演のために、あなたはお国から歩いて日本まで来たのですか?コンクリートジャングルと揶揄しながら、ではホテルではなく山の中に宿泊滞在しているのですか?サティシュさん。

とイジワルな疑問を投げかけてみたくなるのだ。

あぁ、学生時代にこれだけ書けば論文の宿題がひとつ片付いたのに・・・。イジワルな疑問は勉強不足の証左かもしれません。学者の皆様、乱文かつ言いたい放題ご容赦ください。