le temps et l'espace

「時間と空間」の意。私に訪れてくれた時間と空間のひとつひとつを大切に、心に正直に徒然と残していきたいなと思います。

親鸞(上)

2012年02月25日 | BOOK

親鸞(上) 五木 寛之 著

上下を読み終わって、感想を書けばよいものを・・・。でも、筆を執らずには、いえ、PCを開かずにはいられなかったのです。

これまで親鸞に関する諸本を読んで、私なりに理解していたことが小説になっている!!という感動が、まず今ここにある。加えて、これまであまり触れる機会がなかった親鸞の幼少時代も描かれていて微笑ましい。それだけではなく、その後の親鸞に少なからず影響を与える「人との出会い」や「出来事」がある。

ご存知のとおり、親鸞が徹底的に向き合ったのは人間に等しく宿っている「悪」=業、煩悩である。この小説のなかで親鸞は、どんなに修行してもどんなに書物を読んでも、自分の中から煩悩が消えることがない、読経していても頭の片隅には要らぬ煩悩が居座り自分を苦しめる、と嘆いている。それどころが遊女に迫られてあと一歩のところで煩悩の海に落ちていきそうな自分に愕然とする。

親鸞が入山した比叡山は徹底した縦割り社会だった。そもそもそれなりの家柄でないと入山できない場所ではあったが、そのなかでも入山した者は「ウエ」に行きたがった。着ている袈裟の豪華さを競い合ったりもしていた。厳しい修行や約束事があったにせよ、そこは俗世間とはかけ離れた場所だった。決められた修行を積み「自分はやりきった!」と言えば、ウエにいける現実でもあったようだ。そして、当時人気者だったのはのちの師、法然である。彼は念仏を唱えれば浄土へ行けると説いて幅広い階級、一般の民から支持を得た。天災や飢饉に怖れ、あえぐ世の人々の心の拠り所となったのである。しかし、支持を得た理由はもうひとつあった。それは念仏を唱えるときの声の美しさである。貴族はもちろん、一般の女性(にょしょう)までも彼の詠う声を聞きたくて連日彼のもとに通ったと言う。

親鸞は、そんな環境を否定したわけではなかったが、100%そこに身をうずめることがどうしても出来なかった。自分の中の煩悩が湧き上がるとともに、その煩悩を邪険に扱うこともできなかったからだ。そこには幼い頃の「経験」がある。ひとつは、同じように叔父の家に預けられ肩身を狭く過ごしていた幼い弟たちを残し、自分だけが比叡山に入山した苦い思い出。それは、もう大きな悪を犯してしまっているという自己否定に他ならない。もうひとつは、幼い頃に出会った法螺房という人物。彼は道端の死人の着物を剥がし、川に流す。そしてその着物を売って生計を立てる、そんな生活だった。彼曰く「野犬にめちゃくちゃにされるより、川に流してやって、魚の餌となるほうがよほど救われる」

それもひとつの「浄土」。念仏を唱えて苦しまず極楽へゆける。それも「浄土」。その対局を目の当たりに、そして逃れることができない自分の中の煩悩を抱え、若い親鸞は悩みに悩む・・・

上は、ここで終わる。さて、下ではこの煩悩・業との向き合い方がどう展開し、小説としての終わりを迎えるのか・・・楽しみです。

親鸞の教えを現代流に見れば、業と闘い決別し、悪のない自分を作り上げることが大切ではなくて、人間であるかぎりはどうにも決別できない業を認め、上手に付き合っていくことが大切、と私は捉えている。

そんな中で面白いツイートがあった。ツイートしたのは茂木さんだ。

失敗を忘れるにはどうしたらいいですか?という質問を受ける。基本的に、脳の中にいったんできあがった痕跡を消すことは難しい。それに注意を向けて思い出すと、かえってその回路を強めてしまう。だから、「忘れる」ためには、痕跡をけすというよりも、生きる上での重要度を低くしていけばよい。ほかのことに比べての相対的比重を小さくすればいいのだ。あることを思い出して生きるうえで邪魔になると言うことは、脳の中にいつもたどる「A」というルートができているということ。それ自体をけすことができなくても、「B」や「C」や他のルートを作って、そちらの方をよく使うようになれば、「A」自体は消えなくても、次第に使わなくなる。結局、「喜び」を基準にするのが良い。自分の脳が深い喜びを感じる新しいことに挑戦し続けること。そのことによって、脳の中にさまざまなルートが出来て、単一ルートにこだわらなくなる。生き方が、より柔軟でフレキシブルになっていくのである。それが「忘れる」力。

そうなのだ、痕跡を消すことばかりに注力する時間は無駄だ。とりあえず「A」は「A」で良いではないか、というのが私の考えだ。そして柔軟でフレキシブルになってくれば時々「A」のルートを歩いてみればよいのだ。すると、なぜ「A」になってしまったのかを客観的にみることができて「B」や「C」を進むときの糧となる。だから、簡単に失敗を忘れる人も良くない。「A」を落ち着いて振り返ることなく忘れ去ったら、結局他のルートも薄っぺらいものになる気がするのだ。それは茂木さんのいう「忘れる力」ではない。

角度は少し違うが、親鸞とこのツイート、得るヒントには共通点があると思うのだが・・・。


三千枚の金貨

2012年02月16日 | BOOK

三千枚の金貨/宮本輝 著

大好きな作家の一人だ。ときおり本屋に立ち寄り新作のチェックだけはしていたのだが、このたび運よく図書館で上下を借りることが出来て(いつも予約で順番待ちなのです)、無事読了。

あらすじとしては、主人公が入院中に病院の談話室で、見知らぬ男性から「○○に金貨を三千枚埋めた。見つけたらあげるよ」と言われた。その場所は漠然としていてとてもとても見つけられそうにないと思えるのだが、色々なきっかけや事実を知ってゆくことで、同僚2人(40代)と行きつけのBarの女性マスター1人(30代)、合計4人でそれを探そうとするというもの。見知らぬ男性には自分ではどうにもできない悲運な人生を送った過去があり、女性マスターと見知らぬ男性は、実はそんな中で深い結びつき(恋愛うんぬんではなくて)があった。。そんな感じです。

いつものように、次を読みたくて、でも読み終わりたくなくて・・・という絶妙な感覚を味わい、ヒマを見つけては読み、少し読んでは「もったいない」と本を閉じるという行為を繰り返しながら、読んだ。が、これまでのような心にじわじわと浸透してくる「あの」感覚が少ない。それは、いつもならすぐに再読したい!と思うのに、今日に限ってはそんな思いが生まれなかったことにも表れている。なぜか?ここで考えられるのはふたつである。

ひとつは、本書を通して著者が伝えたかったことを、私が明確に捉えられる域に達したということ。そうなると、その周囲のものは単なる枝葉になってしまう。手を変え品を変え、ひとつのテーマに近づいていこうとする、または言葉は違えど結局は同じことを何度も聞かされ(読まされ)る・・・と言うような感じを受ける。悪い言い方をすれば「くどい」と感じてしまうのだ。

いまひとつは、文章ひとつひとつにちりばめられた本書のテーマを私が掬いきれていないということ。確かに著者が伝えたかったことは、著者にしては珍しくはっきりと書かれている(と私は思う)。が、そこで満足しているようでは、まだまだ「青い」と言われている気がしなくもない。単なる事実描写としか思っていないワンシーンに、もっともっと感じ取るべき大きな何かが潜んでいる気がしなくもない。そう感じるのは、昨年、著者の講演を聞きに行って、そのときにおっしゃったことを思い出したからだ。

「伝えようとするのなら、すればするほど、余計な「説明」はいらない」

あ~、そうだった・・・。少ない言の葉から自分がどう感じ、何を自らの中に生み出し、構築するのか。または取り崩して再構築してもいい。刺激を受けるのもよい。要は、その瞬間瞬間でこれまで培ってきた自分の力量がそこで試されているのだ。

とすると・・・ひとつめの考えを持った私は、力量不足ということですワね、だはは。でも、「くどい」と言ってしまう「角」があるのはそこを磨いて丸くするという仕事が待っている証拠だ。不足している力量をあげてゆく余地がまだまだあるということだ。楽しみね。その一歩として、まずは・・・もう一回読むぞっ。


人生のある時期の心象として遺しておきたいもの

2012年01月05日 | 日記

部屋の整理をしていたら、自分が書いた文章が出てきた。今読んでも少し共感するのだが、やはり「悩み続けていた苦しくもよき日々」という感が強い。こういった心の葛藤を経たから今がある。大切なのは「あんな苦労をした、こんなに大変だった」と過去にいつまでも固執するのではなくて、悩んだことを無駄にしないように、今をそしてこれからをもっと志高く、自分を鍛えてゆくこと。

(以下、6年前のある日の書き付け)

生まれたと同時に、重いバトンを手渡されたような感覚をぬぐい切れずにいます。そして、そのバトンを握った人間は残された者たちに降りかかった「失った悲しみ」を「授かった喜び」でもって癒すと言う氏名を与えられている気がしてなりません。

こうして私は走り続けているわけですが、トラックを何周してもゴールは見えてきそうにありません。後ろから、早く早くと急かされている気さえします。その反面、ある時突然ゴールが目の前にやって来て、あるいは何かに躓き、一瞬にしてそれまでの足跡に対して幕引きが成されるのではないかと言う不安もあります。走っている間に味わう、この焦燥感から常にどこかで逃れたいと思っているのに、ゴールを目の前にするのも怖れている私は、一体どこへ向かい、何を持って自身の心が満たされる終焉とすれば良いのでしょう。私の人生に、春の木漏れ日の中を散歩するような穏やかな日々は、果たして訪れるのでしょうか。

何をも敵に回さず、しなやかに凛として、その日が来るまで生き続けるためには、結局、自分の手でこの心をほぐしていくしか術はないのでしょう。


とあるお経

2011年11月14日 | 日記

「我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうそあくごう)

皆由無始貪瞋癡(かいゆむしとんじんち)

従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)

一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」

 

「我(わたし)が昔から造りだしてきた所の。いろんなあやまちは。

すべて、始まりのない。貪り、瞋り(いかり)、癡さ(おろかさ)が由(もと)になり。

身体、ことば、意識によって。生まれることになったのであります。

きっぱりと、我は今。それらをひとつのこらず、懺悔(さんげ:心を切り刻んで悔いて)いるのです。」

 

私はこのお経を決して「後ろ向き」や「嘆き」とは取っていない。私たちは多くの「あやまち」を冒す。どうしてこんな行動や選択をしてしまったのかと後悔する。自分では何とも思っていなかったことでも人を迷惑をかけていたり、嫌な気分にさせたりということも。

「終わったことは仕方がない」と開き直ることは容易い。でも、その前に、懺=心を小さく切り刻むこと、つらいのを我慢して心を切り刻んで悔いることが、やはり必要ではないかと常々思っている。心の中で「きっぱりと」「懺悔(さんげ)」することで、次の一歩に光が射す。

「でも○○だったし」「この部分は頑張ったし」「相手が○○だったから」・・・そんな言い訳をしたり「次頑張るから、済んだことをごちゃごちゃ考えないようにしよう」と出来事に向き合わないでいると、結局次に失敗しても、泥を塗って隠してしまう、つまり失敗を活かせないという状況が起こる。失敗をあっけらかんと忘れてしまう人と、もやもやとしながらも次へ歩き出す人があると思うが、どちらも好ましいものではないと、私は考えている。

いっそ貪り、瞋り(いかり)、癡さ(おろかさ)の中に身をうずめてみてはどうだろうか。あやまちは、私の中のこれらのものが由になっていると自覚してしまえば、何が起きても怖くはない。「私には能力がある」「これまでの経験もプライドもある」と思っているから、失敗するのが怖くなる。言い訳もする。私の中には「貪り、瞋り(いかり)、癡さ(おろかさ)」が蠢いていると納得し、それを喜び、上手く付き合うことで、じたばたせずに日々を穏やかに過ごせるような気がしている。


とあるコラム

2011年11月13日 | 日記

これはレオス・キャピタルワークスという会社のCIOが今回のオリンパスの事件に寄せて書いたコラムである。これからの人生を歩いていく際にも応用できる内容だと感じ、興味深く読んだ。ある意味、「備忘録」。それにしても・・・オリンパスの一眼レフを使っている身としては、やっぱり不愉快な事件だ。

(ここから引用)

Not release the ball

レオスを創業した時に私の友人の弁護士に研修をしてもらいました。その時に「もし外部に公表をしたら場合によっては会社が倒産をしたり免許が剥奪されるかもしれない情報を入手した場合にそれを外部にディスクロするかどうか」という命題について議論しました。私は迷わず、潰れてもいいから出す、そして社員にもそう行動しようという話をしました。それは結果的に顧客や社員を守ることになり、ひいては自分を守ることになると信じているからです。傷ついてもまた始めからやりなおせばいいのです。もちろん会社を潰すわけにはいかないのですが、とにかく情報を共有して悪い情報は早めに出すことを徹底していれば、逆にそうそうつぶれることはないのではないかと信じています。

リーマンショックで多くの企業が倒れ、傷付き、廃業したり倒産したり、私の友人の起業家も多くの人が傷つき酷い目にあいました。でもその中でいま現在復活した人と逮捕されたり海外に逃げて帰れなくなった人の最後の最後の分かれ目はノットリリースザボールではなかったかと思います。ノットリリースザボールというのはラグビーの反則で、タックルをされてもボールを離さないことでペナルティゴールを取られることです。完全に失敗をした時に、成功していた時の自分の財産や資産や権力を守ろうとバタバタしている行為は倒れているのにボールを離さない行為に等しいわけです。もちろん、倒れないように必死に粘ったり頑張るのはよいのですが、倒れてしまった以上、ボールは離さなければいけません。よい意味の開き直りが必要ですね。

私は今日のオリンパスの事件をみながら、ここにもまたもう倒れているのにボールを離さない人達がいるのを目の当たりにしています。「お前はすでに死んでいる」と言われているのがわからないでしょう。ウッドフォード氏が会社にとって相当打撃を与える情報を持ってきた時、それを開示するのではなく隠すという方向で一致団結をした段階で、オリンパスの取締役会は役割を果たしていないといえます。前社長が取締役全員に疑惑のM&Aに対する問題提起をした後に、菊川会長からの手はずで「独断専行」という名目で、前社長に発言機会を与えずに全員一致で解任をしたという行為そのものが異常そのものであったと思います。おそらくここを隠せば逃げ通せると思ったのでしょうか。でも結果的にここでまともな審議をつくさなかったことが会社の寿命を短くし、顧客や社員を追い詰め、また本人もその意思決定をめぐって大きな法的リスクを負うということの想像力が欠如していたのはいかにも残念なことです。

(ここまで引用)

人生が進むにつれ、人は保守的になってゆく。イイ年をして失敗するのもコワい。でも、もっと見苦しいのは倒れてもボールを離さないことなのだなと思った。潔く手放す姿は、むしろカッコいいのかもしれない。そこから立ち上がった姿には後ろから光が当てられているかもしれない。