le temps et l'espace

「時間と空間」の意。私に訪れてくれた時間と空間のひとつひとつを大切に、心に正直に徒然と残していきたいなと思います。

フェルメールの光とラ・トゥールの焔

2011年04月27日 | BOOK

「フェルメールの光とラ・トゥールの焔」 宮下 規久朗 著

先述の「岩田 規久男」さんと「宮下 規久朗」さん。どちらも好んでいる著者なものだから、よく手に取るだけにややこしい(笑)

こちらは宮下さんのほう。この方の解説は、描かれている事実をまず分かりやすく述べて読者を惹きつけ納得させたあとに、私見を含む分析を試みるという構成なので、読みやすいのです。
随所に私見を入れられると「絵を美術的観点から」見たいと思う読者は読みにくい。かと言って、解説が詳細・専門的すぎても、また読みにくい。バランスが、私にはちょうど良いのです。

フェルメールについては特に、光と闇を焦点に当てて書かれますが、これはフェルメールだけでなくて、その光と闇を確立するまでの歴史を追うかたちで進みます。

「ラ・トゥールやレンブラント、フェルメールなどの巨匠たちの魅力は、精神性の高い、静謐で幽玄な光と闇の描写にあります。本書では、ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチが確立した革新的な「闇」の表現が、バロック絵画の先駆者カラヴァッジョによる光と闇のドラマを経て、いかにして静謐で精神的な絵画へと成熟していったのか、西洋名画を育んだ「闇」の歴史を、西洋美術史界屈指の「語り部」である著者が、美麗な図版とともにわかりやすく解説します。」とあります。だから、副題に「闇」の西洋絵画史とも。

読後、もう一度読み返して各々の絵画への理解を深めたいと思ったのはもちろんですが、同時に「光と闇」。ふたつの関係性について、なぜか深く思いを馳せていました。

闇があるから光は光として現れる。光があるから闇は闇として佇む。ならば、このふたつは助け合っているのか?むしろ、対峙しているのか?
初期の絵画のなかには光源が不明確なものが多いのですが、それに伴って闇の存在も亡羊としているものもあれば、闇ばかりが目立つものも。
光への意識が強くなれば光源はいよいよはっきりして、闇は光を支える「道具」のような存在へと変わってゆきます。
歴史は進むほどに、光と闇はお互いの主張が強くなり、絵画はずいぶんと厚みと力強さと、怪しさを帯びます。
静謐で精神的な絵画へと成熟する頃、絵画には、光が闇を溶かすような闇は光に委ねるような温かさが生まれています。

光と闇をそんなふうに捉えたとき、ふと気づきました。
私が光と闇から感じたのは、人の心であり愛なのだと。

お互いの心を各々持っている、というところからスタートして、相手の存在が自分の中にあることを何となく意識し、その意識が強くなったとき、自分の心で相手の心に影響を与えたいと、自分の心も見てほしいと主張が強くなる。そうした対峙の時期を超えた心たちは、お互いが交わえるところと交わえないところの微妙な融点を悟り、優しく溶け合って、支え合ってひとつになる。

私の好きなフェルメールの絵には、そんな優しさに溢れています。

経済学的思考のすすめ

2011年04月18日 | BOOK

「経済学的思考のすすめ」 岩田 規久男 著

こう見えても、経済学部卒である。特に経済に興味があったわけではなくて、経済学科の中のひとつのコースに魅かれて選んだのだったが、授業が始まってすぐに選択を間違えた、と思った。経済学の勉強って理屈ばかりで机上の空論で、おまけに計算式やら方程式まで出てきて・・・なんでこれが「文系」に分類されているのか・・・そんな思いだったように思う。
その中で、この人の本は比較的よく読んだ。分かりやすかったのか、テーマに興味があったのか、それすらも思い出せないが。

この本で言いたいことは、「シロウト経済学」の横行に対する警鐘と「市場原理主義」への誤解であろうと思う。「シロウト経済学」とは最近経済学者でもない人が経済についても本を出したり、テレビで最もかのように発言している、「あれ」である。著者はダブル辛坊の話題本を徹底的に批判している。(鼻につく嫌味が出てくる回数が多いのが残念)何を一番批判しているかというと、その思考法。シロウト経済学はすべてを帰納法で考えているというのだ。
例をあげると
「中国人のAさんは自己主張が強い。中国人のBさんも自己主張が強い。だから、中国人は皆自己主張が強い。」
という思考法。自己主張が弱い中国人の例を挙げれば崩れることは自明で、これだけ聞くと、「そんな極端な・・」と思うかもしれないが、世の中そんな風に考えることは恐ろしいほど多いと思う。

●「女性は皆ケーキが好き」
これはどうだろう。ケーキが好きな女性が多いから女性は皆ケーキが好きと帰納的に考えてしまう。私のようにケーキが嫌いな人間は「例外」扱いされてしまうのだ。

これに対して演繹法は、

「AであればBである」という論理形式でAがを仮定、Bが結論である。結論を命題と言う。仮定Aから命題Bを導くために論理的推論が用いられ、仮定(あるいは前提)が正しければ、仮定から結論を導く論理的推論を間違えなければ、命題も必ず正しい。したがって、演繹法では、仮定が正しいかどうかが決め手になる。

とある。個人としてはもうこの辺から苦しくなって脱落したくなるのだが、皆さんならふむふむとうなずいているかもしれない。

続けて、「帰納法は同じことが何回も起こることから、結論を導くので、結論は必ずしも真ではなく、結論が真実と考えられる確実の程度=蓋然性を示すにとどま」とある。

このあと、実際の事象や事例を用いて、時に辛坊本を批判しながら具体的に話してくれているのだが「シロウト」の私が語ると著者に怒られそうなので、ぜひ皆さん各々で読んでみてほしい。

私がこの本から得たことはやはりこの考え方である。なぜなら、人と接し、その人を理解するときにとても有効な思考法だと思うからだ。

帰納的思考とはつまり「決めつけ」であり、「思い込み」なのだと思う。人は知らず知らずの間に、その人物の置かれている環境や振る舞いやちょっとした発言から、その人に「レッテル」を貼ってしまうことが多い。過去に接したことのある人に似たような人がいれば「この人もあのタイプに違いない」と結びつけてしまう。
そうしてさばいてゆくことは簡単でラクだけれど、あまりにももったいない。
「この人はこういう面を持った人かもしれない」と仮定をたてて(=感じて)、本当にそうか、推論してみることが大切だ。むっとしても傷ついても、逆にこの人と合う!と思っても、いったん冷静になって考えて感じてみるのだ。
私がいつも目標としている「自分の物差しだけで計らない」という信念と通づるようにも思う。
そして、今回学んだもっと大切なことは「推論を誤らない」ということ。つまり、計り方を間違えると、その人との人間関係も築きにくくなる。
逆に、築かなくてよい人間関係を築いてしまうかもしれない。

先述の「縁」についても、魅力的な紐の端を持って常に磨いておくことは大切だが、その理由は素敵な縁を結べるようにということと同時に、結ばなくて良い端をつかまないようにということも含んでいるのだ。

人間である限り、生きている限り、これからも失敗はたくさんするだろう。それでも、推論を誤らないためには、不必要な縁を結ばないためには、果たして何が必要なのだろう。
これからの人生のテーマのひとつになりそうだ。なかなかの良書であると思う。

2011年04月16日 | 日記
いつも何かしらの絵葉書を飾ることにしている。ずっと、ゴッホの中からの一枚だったがそろそろ気分転換と思い、選んだのが「せんとくん」で有名となった藪内佐斗司さんの中からの一枚。
左下のもの。

「ひとの縁とは不思議なもので はなれた紐の両端を 結べばできる輪のように 僕が結んであげようか」

とある。絵葉書にいる童子は「結縁童子」なのだ。これから、多くの「紐の両端」を結んでゆきたいと思っている。
私が持っている紐の端を磨いて、他の人の紐の端を寄せ付ける魅力を持った端を持続していなければならないと思う。と言って、磨いて待っているだけでは結べない。やはり、端に自信を持って発信してゆくことが必要だろう。
そして、結んだところから縁は始まるということ。結んで安心していたら、すぐに解けてしまう。柔らかいけど厳しいのだ、縁は。
僕が結んであげようか、と優しい声をかけてくれる童子を頼るのは、やはりどう頑張っても立ち行かなくなったときだけにしたい。

わけぎと玉ねぎのぬた

2011年04月03日 | 今日のごはん


わけぎと言えば、ぬた。ぬたと言えば、イカやタコ、貝類が定番です。が、まさかの玉ねぎ。言ってみれば節約レシピですね。
ちなみに学生の頃の、よりいっそうの節約レシピは「わかめと玉ねぎのぬた」でした。

わけぎと玉ねぎに火を通します。
と、曖昧な表現にしたのは茹でてもいいですし、先述のスチーマーで加熱してもいいので、「お好きにどうぞ」の意味で。
味噌と酢、しょうゆ、砂糖、を混ぜ合わせます。味付けは、これもお好みですね。味噌は白味噌が本来でしょうが、味噌汁に使う混合味噌で大丈夫です。イカなどを使うときは白味噌のほうがそれらの旨味を引き出しますが、ね・・今回は玉ねぎなので混合味噌ともよく合います。

わけぎの旬は2~3月。カロチン、ビタミンCを豊富に含んでいるので、免疫力アップ、風邪予防、肌荒れ、視力低下の回復などに効果があるとあります。
ところで、わけぎの生産量全国一の県がどこだかご存知ですか?それは・・・広島だそうです。へえ!と思って、わけぎの包装フィルムを見直すと、やっぱり!広島でした。

広島では古くから株が分かれて増えるわけぎを子孫繁栄の縁起物として、「ひな祭り」にわけぎのぬたを食べる習慣があるそうです。あ、もしかして「ケンミンショー」でもうやっていました?
そう言えば、ひな祭りのひなあられの中にチョコレートでコーティングしたあられが入っているのは関西だけと聞いたことがあります。関西だとチョコレートがけしたあられのみの商品もあるくらい定番なので、驚きました。

壬生菜とじゃこのサラダ

2011年04月02日 | 今日のごはん


4月に入ってしまった!!
というのも、この壬生菜さんの旬は冬なのです。。昨日くらいから昼間は上着が要らない陽気になって、壬生菜が急に季節外れになりそう。滑り込みセーフということにしておいてください。

壬生菜は水菜と似ていますが、水菜よりピリッとした感覚があります。もっとも見た目は何かの雑草のようで水菜よりもビジュアル的には劣勢ですが。
作り方は壬生菜をざく切りにしてじゃこをのっけてシリコンスチーマーへ。電子レンジで2分くらいかな。青じそドレッシングをかければ出来上がり。じゃこのパリパリ感を大切にしたいなら、電子レンジでほかほかになった壬生菜の上にかけると良いですね。

スチーマーがたまたまオレンジだったからですが、緑とオレンジで何となく洋風な雰囲気があって、サラダと呼ぶにふさわしい写真になりました。和食器に盛れば、「壬生菜とじゃこのさっぱり和え」にでもなりそうです。