le temps et l'espace

「時間と空間」の意。私に訪れてくれた時間と空間のひとつひとつを大切に、心に正直に徒然と残していきたいなと思います。

逆説の親鸞

2011年07月15日 | BOOK

●逆説の親鸞  武田定光 著

著者は因速寺というお寺の住職である。「逆説」とついていても、その世界にいらっしゃるのだから、基本スタンスは「親鸞賛辞」であろうとタカをくくっていたところがある。

見事に裏切られた。読み出してすぐ、「アイドルとしての親鸞」というフレーズが出てくる。私たちは親鸞といういわば「人となり」を知っているのか?という問いが、その前にある。無論、知ろうはずもない。だから、私たちは彫刻や絵画や著作を通して、自分たちの内面に「親鸞像」を作り上げている。それを「アイドルとしての親鸞」と呼んでいる、と。・・・まぁ、確かにおっしゃるとおり、と、いきなり出鼻をくじかれた感があった。

そして、現在まで受け継がれてきている親鸞の教えは、録音などをして忠実に残されたものではなく、弟子から弟子へと口伝えで残ってきたものも多い。伝える弟子の解釈が入り、微妙に変化してきても当然だ、本当に、ストレートに親鸞の教えかどうかは・・・とアイドル熱をあげている人間にとっては少々興ざめなことが書いてあったりもする。

この本のキーワードは「南無阿弥陀仏」と「無量」であると、私は思う。

「南無阿弥陀仏」の直訳は「ひとの思いでは量ることのできないことに、すべてを任せなさい」となるそうだ。これは、「生きる意味」など人間が量ることはできないという絶対否定を表している。むしろ、生きることが私に問うていると。

「無量」の量は今で言う「意味」に近しい。そうすると、「無意味」。もうひとつは「量ることができない」、つまり「自力無効」=自力の知恵では、永遠に量ることができない、となるそうだ。「不可知」「非知」とも表される。

こう書くと、どちらも一見前向きではなくて脱力感に襲われそうだが、この「そもそも、できない」といわば開き直ってしまうところが親鸞の真髄ではないかと、この本を読んで思った。禅宗は血を吐くような修行に耐え、戒律を厳守してこそ救われる。法然はお経を唱えれば救われる。それは、裏を返せば「それをしないと救われない」ということではないか、と親鸞は思い、そうではない、浄土はもっと自由なものなのだ、と考えた。著者は「親鸞は、自由に、浄土をメタファーとして表現しているように思える」と書いている。そして、「そのメタファーの世界を自由に遊べるようになるためには、必ず「非知」が根底になければならない。非知が根底に成り立つことで、浄土がメタファーとして再生されてくる。決して、この世の知を延長したところに浄土はないと知ったところからの再生だ」とも。

自然に思考が向かうのは、先日読んだ「ポジティブ病の国、アメリカ」である。常にポジティブであること求められ、ポジティブであることが社会的個人的価値に繋がるというアメリカ。そんな国民性からすれば、無量などは、何が何でも近寄りたくもない、絶対に避けたいネガティブとして映ることだろう。しかし、そのアメリカ人もポジティブであるべきという強迫観念に悩んでいるのだ。ネガティブに考えてしまう自分を恐れて、さらなるポジティブを求めると言う。日本人だって、ポジティブシンキングで乗り切ろう!などと落ち込んでいる人への励みの言葉にポジティブを挿んだりする。ある程度の力が残っているときには、そう言われて前向きになれる気もする。でも、すべてに疲れきっているときに言われて、よしっと方向転換するのは、ムリである。力がないと言っているのに、よしっと思う力など、どこにあるはずもない。少なくとも私は。ならば、絶対否定を一旦引き受けるという試みをしてみてはどうだろうと思う。「自分の力ではどうにもできない」というところをスタート地点にしてみるのだ。プール中でもがいていて不安でたまらないときに、底に足がつくと安心する。あとは、水面へと向かえば良いだけだ。その足がつくところに絶対否定を置いてみる。そこには、もがきつつ上へ上へとばたばたするより、遥かに落ち着いて静寂な力に満ち溢れた空間があると、私は感じる。前へ進むのに何のコワさもない、父のような力強さと母のような優しさを持った絶対否定が、私を見守ってくれている。そんな気がしてならない。

反面、親鸞の考える浄土は、優しいけれど厳しいとも感じている。先述したように他宗のようにああせよ、こうせよと迫ることもない。肉を食べようが、酒を飲もうが、自由である。でも、こうすればよいという決定的な解、導きもないのだ。浄土はオルタナティブ的ではない。浄土はどこかにあるものではない。我々の中にある。「私はこんなに苦しいのですが、どうすれば救われるでしょうか」と問うてみたところで答えはきっと「非知」なのだろう。それもこれもすべては、個人の心根にかかっている。しかし、その心根は絶対否定に護られ、そして底抜けに「解放」されている。だから、例えばある人にとっては「苦しまずに畳の上で死ぬこと」が浄土かもしれない。ある人にとっては「愛する人と穏やかで濃密な時間を過ごすこと」が浄土かもしれない。各々違い、そして死ぬときに感じても生きている間に感じてもよい。筆者の言うとおり浄土はメタファーなのだから。そう私なりに解釈したとき、あらゆることの「本質」を、何より己の本質を見よ、と突きつけられた気がした。それは、空からと言うよりは地中深くから。腹の底にドスンと一本、杭を打ち込まれたような胸苦しさがあった。

すべてのものが浄土となりうる、だからこそ己の本質を見て、「「量ることはできない」という絶望」という「希望」」を感じたところから、新たな世界が開けるような気が、今はしている。

二度読んでも、また読みたい。そんな一冊である。


おくらと人参の冷やし鉢

2011年07月14日 | 今日のごはん

夏の料理は暑さとの闘いです。どうしても、和えたり電子レンジを使ったりと火を避けがち・・・そんな中、炒めものよりも過酷な「煮炊きもの」に手をつけました。どうしも、おくらを煮て食べたかったのです。欲望と暑さ、欲望の勝ちでした。

作り方はいたって簡単。鍋に出汁をはって、人参を入れます。半分火が通ったところで、少し火を弱めて酒としょうゆ、塩をお好みで加えます。いったん煮立ててから、おくらを加えます。少し間を置いて、まいたけ(きのこなら何でも)を加えます。きのこ類は火の通りが早いので時間差攻撃です。

写真の奥に見えているのは、最近ハマっている「大豆たんぱく」です。おくら、人参、きのこ類だけだと少し淋しいので、加えました。一般的なものなら・・・麩がベストでしょうか。ちくわでもいいかもしれません。さっぱりと仕上げたいので、厚揚げなどは不向きです。

人参に火が通ったら、火を止めて器に盛り、粗熱をとったあと器ごと冷蔵庫で冷やします。

お相手は常温か、ぬる燗の日本酒かな。新鮮なお造りとともに。


ポジティブ病の国、アメリカ

2011年06月25日 | BOOK


●「ポジティブ病の国、アメリカ」 バーバラ・エーレンライク著

図書館をブラブラしていて、たまたま目に留まった。「ポジティブ」と聞けば、何となく肯定的なイメージがある。それを「病」としているところ、そして当のアメリカ人が書いているところに興味をそそられて読んでみることにした。

そうだったのか!と驚きの連続だった。

まず、「ポジティブ」な考え方は、何もアメリカ人に昔々から根付いている国民性ではなかった。ポジティブの原点は人々に懲罰的なイデオロギーを強いるカルヴァン主義だった。19世紀、幸福に関心を集中することそのものを恥辱とみるカルヴァン主義に人々はうんざりしていて、そんな中からポスト・カルヴァン主義として生まれた新しい思考法が、現在のポジティブ思考の土台となった「ニューソート運動」というものだった。というのも、カルヴァン主義によって、意気消沈し、窮屈な暮らしを強いられていたからか、当時の人々の間で「神経衰弱症」となづけられる「病」が流行する。どんな治療も有効ではなく、薬も効かなかった。そこで徐々にニューソートと言う考え方が生まれた。つまり、「心のパワー」を投じれば、病気は治る!と医師が患者に助言するのである。要は、カルヴァン主義からの「心の解放」を試みて病気の治療に生かそうというものだろう。

それにとどまっていればよかったのだが、ニューソートを健康問題から離して出世や金儲けをあおる者が出てきてしまった。それは、今日のポジティブシンキングにおいても受け継がれている。様々な手段を使って、「ポジティブシンキングこそ最高の考え方だ。だから、ネガティブな考え方をする人と時を一緒にしてはならない。」というような価値観を人々に植え付けるのである。そして、ポジティブでいることを持続できるように、様々なレクチャーや講演が発生する。教えるのは、最近日本でも定着してきた「コーチ」や、アメリカには存在する「モチベーショナル・スピーカー」だ。

彼らは、自分を売り込む最初の場を企業とした。折りしも当時のアメリカは大規模なリストラを企業が次々と行なっていたようだ。解雇された人間に不平を言わせないように、残された人間のモチベーションを下げさせないようにしたいという経営者の思惑と、ポジティブシンキングを広めてビジネスチャンスを得たいコーチやスピーカーのそれとが一致して、ポジティブシンキングは一気にアメリカ社会に広まった。余談だが、日本で売れに売れた「チーズはどこへ消えた?」は、ポジティブシンキング啓発のための小冊子として企業が大量購入して社員に配布するというかたちで、アメリカで1000万部売れたそうだ。。「アメリカでベストセラー」という情報だけで日本に入ってくると、日本人は単純だから、簡単に信じて買ってしまう・・・。

もうひとつの試みは、「教会」である。キリスト教信者は日曜の朝に礼拝に行くのが当然と思いがちだが、実際は行かない人も多いという。精力的な牧師たちは「どうすれば、ウチの教会を人でいっぱいにできるだろう」と考え始める。彼らは「牧師企業家」と自称し、積極的な「改革」を行なう。キリスト教の象徴である十字架、尖塔、キリスト像の撤去。現代風の概観。健康促進イベント、ウエイトトレーニング教室の実施、就業支援、ロック音楽の採用・・・その原動力となるのがポジティブシンキング(ここでは限定的に「ポジティブ神学」と名づけていた)であり、「神は、われわれに素晴らしいものを与えることを望んでおられる」「神は私たちが金持ちになることをのぞんでおられる」という考え方だ。ここでも、人を集めたい牧師と多数の人々にポジティブシンキングを広めたいコーチたちの思惑が一致した。

こうして、アメリカの人々のなかにポジティブンシンキングはすっかり定着するとともに、もはやネガティブな言動は許されず、ポジティブシンキングではない人は排除されるまでの社会になってしまった。だから、ポジティブは常にネガティブを警戒し、恐れている。そして、常にポジティブでいるように「努力」を強いられている。事がうまくゆかないのは「ポジティブに考えていない結果だ」と自己責任にされてしまう。ポジティブな人間は企業における評価も高い。幸せになるにはポジティブシンキングが必須条件。そんなポジティブ漬けのなかに、どうやらアメリカ人はいるようである。

そんな社会に、著者は疑問を投げつけ(実際、ポジティブシンキングの提唱者に丁寧かつ度重なり取材しているようだ)、警鐘を鳴らす。ポジティブシンキングはいわば「能天気」で、現実を見ていないというのである。ネガティブなことにこだわらないようにと命令するのが経営者の責務と考えてしまったから、危機に気づいた社員は何も言えず、リーマンショックを招いたと、その例をあげている。彼女はネガティブを推奨するのではなくて「批判的思考」のスキルを身につけることを提唱している。批判的思考は懐疑的で、つまり現実をきちんと見て、リスクに対してポジティブシンキングで片付けずに適切な対応をしてゆこうよ、とするものである。そういうことを試みることが「私の幸せ」として、筆を置いている。

日本でも、「ポジティブに!」と言うのはよく聞くけれど、そのわりには多くの人々の価値観を埋めてしまうほどには広まってないように思う。いやなことや不安なことが起きたときに「ポジティブに考えよう」というくらいで「ドンマイドンマイ」もしくは「大丈夫大丈夫」と言った励ましのツールの一つとして機能しているにすぎないのではないか。コーチングという手法も、イマイチ注目を浴びず、ビジネスとして成り立たせるのは難しいと聞く。アメリカからの「輸入もの」に飛びつきやすい日本人なのに、なぜだろうと考えてみた。

やはり、宗教的な文化の違いでポジティブシンキングは根底のところで日本人の心には馴染まないのかなと思う。どんな部分で、と言われると明確に言葉にはならないのだが・・・キリスト教は「私があなたの苦痛を取り除いてあげましょう。そこから救い出してあげましょう」という「物質的な救済」の立場をとるが、仏教は「一生懸命頑張れば、浄土に導いてあげましょう。」という「死後への不安からの解放」の立場にある。アメリカ人にとっては苦しみからの救済としてポジティブシンキングが最良の方法となりえたのではなかろうか。無論、今はそのポジティブ自体がある意味、「苦しみ」になってしまっているようだが・・・。日本人は何だかんだで、やっぱり「頑張る」「ひたむきな努力」に価値をみていると思う。だから、考え方を変えたからといって、すべてが好転するわけではないと心の底のどこかで感じているのだ。だから、「一ツール」にとどめているように思う。

私も日本人だから、ポジティブは「時のツール」でいいなと思う。物事はすべて、ネガティブに捉えることもポジティブに捉えることも出来るのだ。だから、ネガティブな考えを認識した上で「ここはポジティブに考えて先へ進もう」とするほうがポジティブの層も厚くなって、その考え方も輝いてくるというものだ。そんな気がしている。

 


教行信証入門

2011年05月14日 | BOOK


「教行信証入門」 矢田了章 著

ようやく読み終えることができた。この本は昨年の夏に自分への「夏の課題図書」として選択したものであった。親鸞の考え・教えがトータル的に深く、濃く詰まったものが「教行信証」であり、それについてこの本で学んできたことはとても有意義だった。親鸞と言えば「歎異抄」があまりにも有名で、「いわんや悪人をや」は彼の代名詞と言っても良いほどだ。書店で仏教のコーナーに立ち寄ると「「なぜ、いわんや悪人をや」なのかを解き明かす」と帯に書かれた本が何冊もある。が、そこだけ切り取らなくても「教行信証」を読めば分かる。と私は思っている。もちろん、「歎異抄」という書物が残っているのだから、その部分(悪人についての部分)を掘り下げることは良いと思う。でも、それはいわば「ステップアップ」であり、まずは教行信証から読むことが効果的ではないか、と今回読み終わって感じた。

親鸞はどこまでも「他力」の人であった。他力と言うと「人に頼る」という意味に捉えがちだが、そうではなくて・・・「阿弥陀仏の力のおかげで」という感じである。
自分の力(努力)なくしては浄土はあり得ない。でも、それは自分で掴み取るものではなく、阿弥陀仏によって「与えられる」ものでもなく、阿弥陀仏が自分というものに「浸み込ませてくれる」ものである。だから、色もかたちもないのに、確かに感じることができ、無常(無常は有限でない、終わりでないという意味)である。親鸞はそう説いた。そして、そのような境地に辿り着く前には自分の力によってここまできたという実感を感じて愕然とするときがあるそうだ。なぜ、愕然とするのか。逆説的だが、悟りは「他力」によってもたらされるものであるのに、自分の力を感じてしまうということは、まだまだ悟りへは道半ばということを意味するからだ。
そして、さらに道は続く。悟りを開く道を「往相回向」というが、そこから「環相回向」と続く。これは「悟りを開いた、むっふっふ」と満足するのではなくて、衆生たちを浄土へと導くことに努め続けることである。信じて念仏を唱え、努力すれば必ず阿弥陀仏が浄土へと導いてくれるのだと説き、そう信じて頑張れる衆生を一人でも多く増やすのだ。衆生の安寧に寄与しなければ、それは悟りを開いたことにはならないというのである。

そういう意味で、善人は信仏心をもって毎日を過ごしているから「信じて頑張り」やすい。順調に山登りを続けているのだ。しかし、悪人は、まず自分の行為の過ちに気づき、後悔に苛まれ、失意のどん底から始まる。いわば、善人の遥か後方からのスタートだ。しかも、悪事を働いたのだから、道はより険しい。「いわんや悪人をや」とは簡単に地獄に落ちて終わり、ではなくて、浄土への険しい険しい道を悪事を働いたからこそ、歩くべきであるということである。現代で言えば、簡単に死刑にせずに血を吐くような毎日を送りながら罪を償い切れ、というところだろうか。

何の縁か、私もあなたもこの世に生を受け、生きている。それは死への道でもある。いつか必ず訪れる死に対して「無常」の意をもって、今日毎日を生きるためのヒントを親鸞はくれそうだ。「無常」を感じると、生きることがもっと楽しく豊かになりそうだ。その実感は確かにある。

ダンシング・チャップリンの

2011年05月02日 | 日記
宣伝も兼ねてかどうかは分からないが、先日行なわれた周防正行監督と草刈民代夫妻の講演会に足を運んだ。監督は「宣伝費があまりないので、夫婦ともどもこうして行脚して・・」と言って笑いを取っていたが。

ダンシング・チャップリンの詳細はこちらで。

この映画は「バレエ」を映画化したものであり、映画の「題材がバレエ」ではないとのこと。つまり、普通の映画であれば、監督は俳優に細かく指示を出し、ベストのカメラアングルを考え、自分が納得できるまで何テイクでも取り直しができる。しかし、この映画では、
1.バレエの芸術的・技術的完成度について、口出しできない。(バレエのプロではないから)
2.バレエダンサーが同じ演目を繰り返し踊れるのは精神的・肉体的な面から2度まで。

という辛さがあったという。素人目にも大変そうであることは想像できるから、プロたちは、相当の緊張だっただろう。
そうまでしても、今回の映画に敢えて挑んだのは「単純にバレエを踊る妻を観て美しいと思った。その美しいものを映画にしたかった」からだそうである。ちょっと「ごちそうさま」と言いたくなる場面であったが、美しい妻を見てデヘデヘするイメージではなく、もっと素朴に美しいと思ったそうだ。話を聞いているうちに「妻」という言葉を使うときは客観的に見た関係性を重視していると分かった。草刈さんを自分の妻として認識し、人格を持たせたときの言い方は「奥さん」となるのだ。例えば、「うちの奥さんは肉を食べないので・・」という風に。そして、仕事に関係する話になると「草刈」となる。バレエを見始めたのは草刈さんと結婚したからであり、そうでなければこんな美しいものに出合わなかったという感謝と、踊る妻を観て「美しい」と思う心、そんなものがあるにもかかわらず、その3つの言葉の使い分けは鮮やかの一言に尽きた。三色パンのように、きちんと分かれていながら、周防さんは草刈さんをパンのように大きく包んでいる(いえ、別に今、おなかが空いているわけではありません)、そんな雰囲気を感じた。

そして、もうひとつ、周防監督が払うバレエへの敬意の高さと理解の深さに胸を打たれた。先に書いたとおり、やろうと思えばカメラはどのアングルからでも撮れる。この場面はこのアングルがベストだ!と感じることもあったそうだ。でも、監督はそれをしなかった。なぜか。

バレエは、ナマの舞台で披露するものであり、したがって、正面に居る観客が一番感動してくれるように、ダンサーが観客に対し一番美しい姿に写るように構成されているからだそうだ。その本質を歪曲させて、例えば後ろから・上からとアングルを決めるのはNG、いわばクラシックバレエに対する冒涜になるというスタンスなのだ。自分の感性を、撮る対象の本質のために譲るというのは、簡単そうでなかなかできることではないように思う。芸術を扱うプロとして、感性は表現したいと思っていることの源ではないか。

そんな話を聴いていて、いつもの「発展させ癖」が出てしまった。

物事や関わる人を、深く理解したいと思う。だから、様々な角度から見たり、何かと比較してみたりする。もがくうちに理解が深まるのを感じて、ある一定で「これはこういうもの」「この人はこんな人」とある程度のところで着地点を見つけたくなる。降りるとそれ以上、掘り下げなくても良くなってラクだからである。
問題はそこからだ。
着地してから考えなくてはいけないのは、

言葉で伝えるべきこと。
言葉で伝えるべきではないこと。
感じなければならないこと。
感じたけれど伝えなくてよいこと。
感じなくてよいこと。

のバランスであり、それに対する自分の機微を磨くことだと思う。

この人を理解したと思って、こちらが掴んだことを何でも言葉にするだけが良いとは限らない。理解しているからこそ、目を向けない優しさもあろう。こちらが感じていることを伝える手段として言葉が最良ではない場合もある。会話の間であったり、表情であったり、何かの行動で示すほうが相手の心に届くケースを体験したことはないだろうか。
私の言葉を含めたどんな「機微」が相手の心を癒し、元気づけるのか、これからよく考えなくてはいけない。なぜなら、どんな人にもその人の「正面」があるからだ。私が良かれと思って掛けた言葉も、した行動も、正面を傷つけてしまうようであれば、それは私の単なる自己満足になってしまうからだ。

草刈さんが「美しいと感じてもらうために自分が何を発散すべきか。それを追うための芯はブレてはいけない」と話していた。

相手に心楽しく心休まる心踊る時間を提供するためには自分が何を発散すべきか、その芯を創るところから始めよう。

またひとつ、学んだ。