「我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうそあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」
「我(わたし)が昔から造りだしてきた所の。いろんなあやまちは。
すべて、始まりのない。貪り、瞋り(いかり)、癡さ(おろかさ)が由(もと)になり。
身体、ことば、意識によって。生まれることになったのであります。
きっぱりと、我は今。それらをひとつのこらず、懺悔(さんげ:心を切り刻んで悔いて)いるのです。」
私はこのお経を決して「後ろ向き」や「嘆き」とは取っていない。私たちは多くの「あやまち」を冒す。どうしてこんな行動や選択をしてしまったのかと後悔する。自分では何とも思っていなかったことでも人を迷惑をかけていたり、嫌な気分にさせたりということも。
「終わったことは仕方がない」と開き直ることは容易い。でも、その前に、懺=心を小さく切り刻むこと、つらいのを我慢して心を切り刻んで悔いることが、やはり必要ではないかと常々思っている。心の中で「きっぱりと」「懺悔(さんげ)」することで、次の一歩に光が射す。
「でも○○だったし」「この部分は頑張ったし」「相手が○○だったから」・・・そんな言い訳をしたり「次頑張るから、済んだことをごちゃごちゃ考えないようにしよう」と出来事に向き合わないでいると、結局次に失敗しても、泥を塗って隠してしまう、つまり失敗を活かせないという状況が起こる。失敗をあっけらかんと忘れてしまう人と、もやもやとしながらも次へ歩き出す人があると思うが、どちらも好ましいものではないと、私は考えている。
いっそ貪り、瞋り(いかり)、癡さ(おろかさ)の中に身をうずめてみてはどうだろうか。あやまちは、私の中のこれらのものが由になっていると自覚してしまえば、何が起きても怖くはない。「私には能力がある」「これまでの経験もプライドもある」と思っているから、失敗するのが怖くなる。言い訳もする。私の中には「貪り、瞋り(いかり)、癡さ(おろかさ)」が蠢いていると納得し、それを喜び、上手く付き合うことで、じたばたせずに日々を穏やかに過ごせるような気がしている。