親鸞(下) 五木 寛之 著
さてさて、「下」。「上」よりも「小説色」が強いかなと感じます。特に親鸞と恵信の愛の部分。現代的な描き方をしています。まあ大河ドラマも愛の部分は現代の価値観に合わせて、現代ドラマのように描いたりしますが・・・。
テーマは「悪」とは?そして「念仏」とは?です。
悪の反対は善。善は良いことなので悪は悪いことだ・・・そんなふうに簡単に境界線を作れない、人は悪を抱えて生きる生き物なのだというのが親鸞の思い。
念仏は「唱えて救われるもの」ではなくて、「救われたいと思うと自然と唱えずにはいられないもの」と捉えるのが親鸞。
念仏は、時として一大エンタテイメントとなり、多くの考え方が生まれ、親鸞の考えに異論を唱える者もでてきます。高弟を飛び越して法然から選択集の書写を許可された彼への他の僧からのやっかみも生まれます。そんなこんなで親鸞は様々な危ない目にあうのですが、その中で他の僧が彼に色々と質問をします。そのテーマが悪であり念仏なのです。その質問に答えていくかたちで、親鸞の考える悪や念仏が炙り出されてゆくという構成になっています。なので読者としては、親鸞の考え方が頭に入ってきやすい。
そして、師である法然との関係にも立ち入っています。
「私はそなたがうらやましいのだよ」
という一文が印象的です。法然は聖人として扱われる存在。親鸞は肉を食べた経験もあれば酒の味も知っていて、下人との付き合いもあり、そして妻帯した。皆に説法しながら、法然はいわば「お坊ちゃま」でそんな経験がない。そんな経験をしたかったけれど「機会がなかった」、だから聖人のまま今日まで来たのだ、と少し淋しげに語ります。何より「悪」と呼ばれているものを身をもって経験しながら、かつ考えは自分と同じ・・・となれば、若き親鸞にその先を託そうとするのは自然の心の流れだろうと思います。うらやましいのだよ、と吐露したのは、おそらく法然の心からの本心であったことでしょう。
最後は、親鸞が恵信の故郷である越後に流罪になるところで終わるのですが、そこがまた・・
(以下、抜粋)
「恵信どの、お山で修行したことはあっても、わたしは世の中を知らない。越後で地元の人々のような暮らしができるだろうかと、不安でならないのだ。なにもかもがはじめての体験だし、流人の暮らしとはどういうものか想像もつかない。頼りになるのは、そなただけだ。(略)わたしは本当に自信がないのだよ」
「大丈夫です。わたくしたちには、念仏という大きな支えがあるではございませんか」
ほほえんだ恵信の頬が赤く染まった。
なんというラブストーリー的な終わり方・・・。しかも、肉食系女子と草食系男子のようなイマドキな感じです。そんなふうに語りかけられたら、私も恵信のように「大丈夫」と言ってしまうでしょうね。。念仏のように?!大きな支えとなりたいものです。