天正十八年(1590年)、大里牛ヶ城(現天栄村大里地区)に立てこもる名門二階堂家一門、矢田野阿波守義正とその家臣400人に対して押し寄せる伊達軍、伊達成実、片倉小十郎、石川昭光など名だたる武将率いる10000。数に勝る伊達勢が幾ら攻撃をしても城の守りは堅く40日間にわたる籠城線に勝利。
大里牛ヶ城跡
この籠城戦を知った豊臣秀吉は矢田野義正の武勇を称え安房守の名を与るとともに、本領の安堵を下知しましたが、義正は蒲生氏郷の家臣になることを嫌い、大里城を焼き払い佐竹氏を頼り常陸国(茨城県)へ移ります。
二階堂家は、岩瀬郡(須賀川市と周辺)を支配した戦国大名。
伊達政宗に攻められ、須賀川城は落城。ここの二階堂は滅亡するが、一族の一部が薩摩の国に流れ着き島津家の家臣になりその流れから二階堂進が誕生したそうです。
大里牛ヶ城跡
この籠城戦を知った豊臣秀吉は矢田野義正の武勇を称え安房守の名を与るとともに、本領の安堵を下知しましたが、義正は蒲生氏郷の家臣になることを嫌い、大里城を焼き払い佐竹氏を頼り常陸国(茨城県)へ移ります。
二階堂家は、岩瀬郡(須賀川市と周辺)を支配した戦国大名。
伊達政宗に攻められ、須賀川城は落城。ここの二階堂は滅亡するが、一族の一部が薩摩の国に流れ着き島津家の家臣になりその流れから二階堂進が誕生したそうです。