今日は、また3月11日です。 あの日から二年の月日が経ちました。
ここ鹿角盆地は、奥羽山脈のど真ん中に位置しており、明治以前は南部藩領でした。
幾多の災害のうち…唯一、地震や津波の被害を免れてきた土地ですが、以外に標高は低く200数メートルしかないようです。
国道282号線(碇ヶ関~滝沢)は…秋田県側では、小坂町から鹿角市を通り岩手県へと奥羽山脈を沢沿いに縦断して行きます。 鹿角市からはJR花輪線も平行して走っています。
鹿角の人は、昔から…岩手県の地名を町村名で言わず、駅名で呼ぶのが一般的でした。
鹿角市から、岩手県の主な駅名を記述すると・・・土深井~末広~十和田南~柴平~鹿角花輪(旧陸中花輪)~陸中大里~八幡平(旧小豆沢)~
湯瀬温泉→→兄畑→田山→ →新屋新町→小屋の畑→赤坂田→安比高原(旧竜が森)・・・好摩
県境 分水嶺
県境を越え、国道282号線を米代川沿いに20kmほど遡って行くと、貝梨峠の『分水嶺』があります。そこも高々、標高400数メートル程度なので…もしかして、三陸沿岸へ超巨大津波が襲って来たなら、太平洋へ流れる馬淵川、支流の安比川を遡った津波が、この辺りまで到達するのだろうか?と…この峠を通る度に、いつも想像を巡らしておりました。
6500万年前、ユカタン半島に隕石が落ちた時は…史上最大300メートルの津波であったと言われており、その時も…日本列島が存在し東北も今の形・高さだったなら、分水嶺まで津波は到達していないはずである。
分水嶺を越え峠を下ると、間もなく商店街や旅館など花輪町に似たような街通りの新屋新町(旧安代町)があります。(安代町は現在、八幡平市です)
ここ新屋新町のまちはずれ、五日市から二戸市までの街道は昔、鹿角街道と呼ばれ、年代不詳ですが…福岡花輪線として、県道に認定されていました。( 福岡とは、二戸市の旧町名です )
岩手県内の区間なのに…秋田県の地名である、「花輪」が付いて呼ばれていたのには産業流通上の要所として、結びつきがあったからではないかと思われます。
私の個人的な関与としては…この福岡花輪線があったことで岩手で暮らすのか秋田で暮らす人生かの、運命を変える分岐点となりました。
国道282号線の通過する五日市の交点から、福岡花輪線を二戸市方面へ16kmほど下ると、私の生家がある二戸郡浄法寺町でした。 (二戸郡浄法寺町は現在、二戸市浄法寺町です。)
福岡花輪線は・・・1959年(昭和34)福岡安代線として県道に認定され、市町村合併に伴い2002年には、路線名が二戸安代線に、2005年には、岩手県道6号二戸五日市線に変更されています。
私は…現在の戸籍上では、岩手県と秋田県の合いの子です。 岩手県は父の【一条】、秋田県は母の【工藤】です。母の母親(祖母)は青森県の【日向】なので… 工藤には、日向の血筋(DNA)も入っており、分かっている事実では岩手・秋田・青森の合作の子、と言うのが正しい表現かと思います。
なお、【一条】のルーツは未確認なので、詳細には記せませんが…生家近くを通る県道6号線を隔てた向かいの山には、天台寺(728年・・・聖武天皇の命で建立、行基が開山 )があります。
坂上田村麻呂が蝦夷征伐に来る70年も前に…何故、浄法寺の山中に建立したのか不思議でなりません! 都から、北東北へ来るだけでも大変困難なのに…考えられるルートは三つ
①盛岡から安比高原を越えて安比川を下るルート
②八戸まで船で来て、馬淵川を上るルート
③舞鶴から能代まで船で来て、米代川を上り、鹿角の大湯川支流の来満峠か白萩岱越えをして三戸(現・田子町)経由で
浄法寺に至るルート (この道は現在も秋田街道として、白萩岱~浄法寺線は存在しています。)
奈良時代~平安時代には、鹿角から都へ金を運ぶ流通ルートがあり、能代から船で運んでいたようですし、誰か、当時の左or右大臣が失脚して鹿角へ逃げて来て、「花輪ばやし」の原曲を作った笛の名手が居たようですから…③ルートが最も有力と思います。
それにしても浄法寺がパワースポットだったのか? 全くの謎ですね!
極上漆の産地だったことは間違いありません!私の生家の辺りは、漆沢と言う地名が多く生家の住所も二戸市と合併前は『大字漆沢』でした。
浄法寺の漆は世界一の品質であることは、最近のテレビで「若者の漆掻き職人番組」を見て初めて知りました。 奈良・京都の国宝級の神社仏閣は、数百年も持つ浄法寺の漆以外は使わないのだそうです
実は・・・私の父は、漆掻き職人 なのです。 私は漆掻き職人の息子だったのです。
生家の裏山、数町歩には漆の木、赤松、栗、などが植林されていました。母の話では、父は漆職人なのに、しょっちゅう漆にかぶれていたそうです。
父は足が速いことで有名だったとか…若い頃、盛岡の県大会100m走で2位になったことがあるそうです。自分の山が仕事場の利を生かし毎日、裏山に上る山道を全力で走って足を鍛えていた人だったとのことです。
さらに、プロ級の筆の達人で…その腕を買われ、旅回りの芸座に雇われ家を離れる生活をしていたようです。
母に聞いた話では…母が湯瀬石鹸の工場で働いていた17歳の時、工場下の滝で民謡の練習をしていたら、鼻筋の高いキザ男(父)が声をかけてきたとのことでした。
“素質があるとか”…旅芸座のスカウトのふりをして、35歳の遊び人は娘に近づいて行ったんでしょう!
それにしても・・・生家の裏に、幅3m・長さ約70メートルの整地された短走路があったので誰が練習しているのか義兄に聞いたところ・・・それは、『的場』なんだそうです
誰も弓をやってないのに “ なんでだろう~?” 平成4年、父の葬儀の頃もあったので、どうやらこれは、一条家の先祖からの習わしのようです。弓もたぶん、何処かにしまってあるかと思います。 この、しきたりがルーツの重要な鍵になるかも知れませんね!
父の人生最大の失敗は・・・田畑を売り払ってまで、花札賭博にのめり込んだことでした。
母は、父の賭博三昧に愛想が尽き、私の生まれた年の冬…浄法寺から花輪へ逃げたのだそうです。
当時(1947年)の浄法寺~新屋新町間は、冬季間の除雪をせず、バスの運行もなかったため、私を帯でおんぶして、腰まで抜かる4里半の雪道を新屋新町駅まで歩いて逃げ帰った昔話しを…小学生の頃、母から聞きました。
1歳年下の妹は、花輪へ逃げてから生まれたので、姓は【工藤】だったのです。
母が浄法寺から花輪へ逃げたから、鹿角街道 と呼ばれたわけではないでしょうけど… ここで私の運命は、「秋田県人」へ変えられたのでした。
小さい頃は、何故、私と妹の苗字が違うのか不思議でなりませんでした。その妹も、縁があり森吉町米内沢(現北秋田市)へ嫁いだため、花輪の【工藤】は、とうとうお家断絶?になってしまい…苦労をかけた亡き母には、今も申し訳なく思います。
さて、地震と津波の話からすっかり逸れてしまいましたが、私の幼少期にまつわる出来事については…後日、詳細に記したいと思います!
2011年は、正月から震度4ぐらいの地震と、短い揺れの小地震が1~2週間隔で頻繁に起きるようになり、不気味な年明けでした。
2月に入ってからは常に目まいがするし…時折り、かき回すような横揺れや、悪戯したような『ゴッゴッゴッゴ~』という短い揺れや、10分ぐらい長い微震が続き、窓ガラスや引き戸を心霊現象のように『カタカタ』鳴らすこともありました。
駅のホームで電車を待っている時…電車が入って来る30秒ほど前に、突然、目眩を感じるのと、同じ感覚のめまいが昼夜問わず、しょっちゅう現れてました。
冷静に分析してみると…やはり、未だかって経験したことのないパターンの地震現象が早い周期で確実にやって来ます。
霊感ではないですが不吉な予感がして、できれば1月中にもソーラー発電を試みようと思い、1月中旬、屋根に積もった1mの雪降しをして、秋田市の会社から資料を取り寄せました。
テレビのCMに出ている会社なので、信頼して相談してみたのですが…応対してくれる、おばさん事務員の話す内容やパソコンで作成した資料が、あまりにいい加減なため、ほとんどやる気を失くしてしまいました。こちらの質問には真ともに答えられず、とにかく訪問したいの一点張りで、どうにもなりません!
後日、初期費用無しの年18万円10年払いでどうか?と持ちかけてきたのですが…秋田市の人間特有の、鹿角を小バカにした話し方をするので、その会社はハッキリ断り、ソーラーは急がないことにして、当面はエンジン発電機かバッテリーで対応することに考えを変えました。
2月の下旬になると、凄い力強い地震が2日~3日おきに発生するようになり、3月に入って1週~2週の間に、鹿角市で震度3クラスの強い地震が3回ほどありました。
鹿角で震度3は…三陸では震度5強のはずである。鹿角は山脈が吸収するためか、150km離れた秋田市より、いつも揺れは少ないのが特徴なのです。私の66年でも、昔も…鹿角で地震の被害は聞いたことがありません!
しかし、もう本当にやばいと思い、出力3KWぐらいのエンジン発電機を買うことにしました。
地震の被害がなくても、冬の停電が怖いのです。それは、井戸水のポンプとガス給湯器が凍結するからなのです。発電機があれば、上水道が止まっても、地下水を汲み上げることができるし、外付けのガス給湯器も使うことが可能です。
一回目は、3.11一週間前の4日(金)、大館市内のホームセンターへ発電機を見に行きました。そこの店はホンダの発電機のみ各種展示しており、2KWの汎用発電機は、9万円と高額なため迷いが生じて買えませんでした。(この日の持参金は…5万円でした。)
そして帰りはどうせ遊んでしまうと思いながら、やはり近くのぼったくりパチンコ店に立ち寄りバカなことに…5万円を消滅させてしまったのでした。
二回目は、3月6日(日)10万円持って、一回目と同じホームセンターへ行くも…今度は50Hzの東日本地域は出力が下がることや、インバーター方式ならパソコンも使える電源であることなどに迷いが生じ、値段は20万円もするので結局、また悩んで買うことができませんでした。
さらにまたバカなことを…前回負けた5万円を、ぼったくりパチンコ店から取り返してやろうとして、またも返り討ちにあい、さらに5万円を失ってしまいました。
3月8日(火)も、朝から、大館市に向かいました。
その日は、車のエンジンが調子悪かったので、エンジンオイル&エレメント交換と、エンジン内部を走行しながらフラッシング(洗浄)する、SD-1と言う処置をするため、真っ直ぐオートバックスへ向かいました。 オートバックス大館店のすぐ向かいは、有名なMパチンコ店です。
M店のイベントディーは…7の付く日ですが、ライバルのぼったくりR店のイベントディーには以外と出玉が多いのでホームセンターには行かず、オイル交換を口実にしてM店に入りました。
記憶が定かではなく、確か6日だったような気がしますが・・・
3月6日~8日までの間に、大館で震度4or5クラスの強い地震がありこの時、三陸や仙台は震度6以上?と思いますが、ニュースではさほど被害の騒ぎは無かったようです。
2008年3月末退職後、数えきれないほど起きていた揺れで一番強い地震でしたので、これが最後か?と思いました。
3月11日(金)までの数日間は、ほとんど揺れが無かったので、やっと収束かな?と、思い込み、発電機は買わずに済みそうだなぁ~と、かってに考えを決め付けたりしていたのです。
11日(金)は…初めからM店へ行くつもりで朝9時頃、大館市へ向かいました。
この日は3万円使いましたが…昼過ぎに調子良くなり、軍資金の倍ぐらい出たの
で、閉店まで粘れば発電機代の足しになるのでは?と思い、2時過ぎも熱中してい
たら・・・突然、久々?の揺れが襲ってきました。
揺れは…カタカタ~ガタガタ~グラグラ→グラグラ→グラグラ→グ~ラグ ラ
ついに来たか! 東北も終わる?もの凄い
悲鳴
全員総立ち
出口へ猛然と走る人達
揺れる遊技台に掴まるお婆ちゃん
私は天井の鉄骨梁が落ちて来ないか見上げたまま、その場に立っていました。散らばった玉の上を走り転倒する人が続出
運良くカウンター通路側席だったので、最悪、天井の鉄骨が落ちて来そうになったら、カウンター内へ飛び込む覚悟でした。
遊技台が壊れるのではないか?頭上の鉄骨組みがバラバラに落ちて来るのでは?と思うぐらいの強烈な揺れが続き、間もなく全停電しました。
瞬間…『人生で、最大の大失敗 』と思いました!
すぐにでも帰りたかったのですが、出玉の確認を得るまで1時間半も待つことになり…その間、本当に悔しい悲惨な思いで時間を過ごしてしまいました。
仕事も無く、自由の身なのに、大地震が来ると分かっていながら、発電機も買わずパチンコで遊んでばかりいたのです。自分はいつも皆とは、次元の違う考えを巡らせながら生きて来たことを…証明するチャンスだったのに!
三陸沖で大地震が起きても、鹿角には建物の被害はないが、停電する可能性があるので、予備電源さえ確保すれば救済できたのです。
3.11の夜は…ダメ親父のせいで、妻も娘も真っ暗な部屋で毛布を被って過ごさせてしまい大変申し訳なく、残念な余生の思い出になりました。
そして今年は観測史上最大の豪雪と寒さに耐え切れずに、実は・・・1月下旬、コメリ花輪店に「スバルの発電機」を注文し…2月3日、エンジン発電機を手に入れてました。(50HZでは、2KWの出力です)
《水平対向ではなく、OHCでした!》
エンジンオイルやガソリン、接続コードは準備してあるのですが、未だに試運転をせず、裏口の風徐室に飾ったままです。